「学校化」を通して主張すべきなのは、本来的な「学び」の復権である。
「学び」概念を提唱したのは佐藤学だ。「学びの共同体」という実践を行い、着実に結果を出しているという(『現代思想』)。
イリッチの主張する「学び」は、佐藤の「学び」とイコールであるのか、どうか。この考察が必要になってきた。
「学校リベラリズム宣言」の内藤朝雄も筆を取った『学校が自由になる日』の後半には、「学びの共同体」批判がなされている。共同体的な学びでなく、もっと学びを個人の営みだと考えていくべきだ、と主張している。もっとも、作者の一人である宮台真司は『日本の難点』など直近の本の中で、学びの共同体的な教育実践を評価するようにはなってきている(〈できる子もできない子もいるほうが、学びがすすむ〉などと書いている)。
佐藤の実践は制度化された「学び」であるような気がしてならないように感じられる。「学びの共同体」は、確かに旧来の「学校」よりは「学び」が「学校化」されずに済んでいるだろう。けれど、より巧妙にプログラムされた「学校化」された「学び」になってしまってはいないだろうか。結局、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉と考える「学校化」・「価値の制度化」が起こっているだけのように感じられる。
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