今、山本哲士『教育の政治 子どもの国家』を読んでいる。そのなかに「場所」という概念があげられている。
「場所」は「社会」の対概念である。近代公教育は「社会」の教育を意図していた。それは画一的な教育内容である。「場所」に応じて教育が変わることは「公教育にあってはならないことだ」とされた。
ちょうど今、全国一斉学力テストの結果が開示され「秋田県がまたしても1位」という報道が出ているところである。それをうけ、各所で「教育格差が生じている」との批判が出ている。「住む場所によって、教育サービスの質が違っていてはならない」と批判がなされる。日本が「社会」の教育を意図していることはここから明らかであろう。
山本は「社会」でなく、「場所」に注目する。「場所」性の回復を意図しているのである。山本の「場所」という発想は、イリッチで言う「ヴァナキュラー」と同じであろう。「その地の暮らしに根ざした固有の」やり方に着目していくのは、「場所」性の回復と同義である。
冒頭、イリッチが80から81頁で語る比喩はなかなか難解である。
イリッチはまず、人間の環境は「食物、禁止された食物」「非食物」(80頁)の3種類から構成されていることを説明する。
ヒンドゥ教徒(仮にAさんとする)にとって豚肉を食べることはタブーである。つまり「禁止された食物」。このAさんはおそらく、ベゴニアという花を食べようとは思わない。彼にとってベゴニアは「非食物」なのだ。けれど、Aさんが中央メキシコ出身のインディオのBさんといっしょになると話は変わってくる。Bさんにとってベゴニアは「食物」。Aさんの「非食物」概念からベゴニアが外されるという現象が起こるのだ。このことをイリッチは「彼(注 Aさん)ではなく、彼のまわりの世界が一変する」(80頁)と言っている。
このヒンドゥ教徒とベゴニアの比喩の後、イリッチは「論争上の問題も同じように区分することができる」(同)と語る。論争上の問題の区分は、「合法的なもの」、「上品な社会では提起すべきでない」もの、「まったく意味をなさない問題」の3つである。3つ目の区分にあてはまるものは、「そのような問題を提起すれば、悪魔のようなやつだと思われるか、あるいはひどくむなしいことだと考えられてしまう危険がある」とイリッチは語る。「ヴァナキュラーな領域と〈影の経済〉とを区別することはそうした種類の問題である。私はこの試論によって、この区別を議論の可能な領域へと引きよせてみたい」。どうやら「ヴァナキュラーな領域」と「影の経済」は「まったく意味をなさない問題」と解釈されているように思える。
続いてイリッチは経済について話をする。現代の経済は〈影の経済〉を正式な「経済」のなかに取り込もうとする。なお〈影の経済〉とは、イリッチの文章を見る限り、「労働および生産物のヤミ市場」(81頁)のことらしい。その結果、「経済学者は以前にもまして、私的部門に侵入し、ヤミ市場を版図に加え、政策立
案者による植民地化の対象とした」(81頁)のだ。このことをイリッチは「経済学者たちは豚肉を食べはじめた」と言う。ヒンドゥ教徒の例にあった「禁止された食物」が「食物」に入ってきたことを言う。本来、経済学で扱うべきでないと考えられていた(「禁止された食物」だった、ということ)〈影の経済〉が、「経済」(「)食物」)と扱われるようになってきた。
「この試論において意図していることは、経済学上の豚肉とヴァナキュラーなベゴニアとを区別することである。経済学上の豚肉、ヤミ市場の商品、合法的な物資をただひとつのメニューで提供することの妥当性については、私の関心は間接的でしかない」(81頁)。イリッチにとってベゴニアは「非食物」にも「食物」にもなるものである。「合法的な」問題と「まったく意味をなさない問題」の両方の領域にまたがっている。このように人によって「合法的な問題」にも「まったく意味をなさない問題」にもなるものを、イリッチは「ヴァナキュラーな価値」と読んでいるのであろう。
初のカスティリア語辞書を発行したネブリハの行動の意味。
「ネブリハは、人々が読めるようになる文法を教えようとしたのではなかった。むしろイサベラ女王に懇願して、読書の無政府的な拡散を、彼の文法を使用することで食い止めるよう権力と権威を与えてほしいといったのである」(108頁)
ネブリハの行動によって、「それ以後、人々は、各人が制度的に負わされている教育の次元で、この標準化された言語を使うことを余儀なくされる」(109頁)。こうして「ヴァナキュラーな言語から公的に教えられる母語[母国語]への転換」(同)が起きることとなる。
(続く・・・)
0 件のコメント:
コメントを投稿