2009年8月31日月曜日

イリッチとフレイレ。

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』は面白い。今まで書いていた卒論に、書き直しを迫る内容である。ある意味「もっと早く読んでたら、無駄足をしなくて済んだのに」と思ってしまい、悔しい本だ。けれど、あえて『脱学校の社会』のみを自分(とO君)で読み解く挑戦をしてきたからこそ、山本の指摘が響いてくる。ムダ歩きは無駄にあらずである。

 イリッチとフレイレの思想は本来違うにも関わらず、どちらも「脱学校論者」といわれる。山本はいう。両者は「脱学校論者」ですらなく、2人の思想もかなり違っている、と。

 少しまとめてみよう(『学校の幻想 教育の幻想』193頁より)。

フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’といいます。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなすのです。

 言ってしまえば、教育を「人類普遍の営み」とみなすフレイレに対し、「いや近代になってつくられたものだ」とイリッチは主張する。他の思想家で言うと、フレイレの立場は「人間は教育によって人間になる」と書いたカント、イリッチの立場は「教育は近代が要求する国民育成のために創られた装置」というアリエスに似ている。

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