2012年9月11日火曜日

アクション映画のテーマ

アクション映画のテーマはいつも組織と個人。私が映画をみるのはその一つの解法を知るためだ。


藤本研一

映画館と人生

ネガティブなときは映画館に行こう。つまらない日常など、アクションとロマンスで打ち砕くのだ。悩みもイライラも、一幕のうちに捨て去ってしまえ。

2012年6月10日日曜日

新ブログのお知らせ。

本ブログを拝見下さり、大変にありがとうございます。 実はしばらく前より、新ブログの方に中心的に投稿を行なっております。 Ishida Hajime's blogは、大学2年の時からはじめております。 大変思い入れの深いサイトです。 かれこれ4年間、更新し続けました。 おかげ様で記事数も1100をはるかに超えております。 ひとえにご覧くださっている皆さまのおかげです。 ですが、今年4月から社会人となったこともあり、 いよいよ「本番」として気持ちを切り替えようと思っております。 そのため、(しばらくは)本ブログではなく、 次のサイトに投稿をしていきます。 日本ノマド・エジュケーション協会 http://nomadeducation.wordpress.com/ 今後も、継続して私のブログを読んでくだされば、 作者としてこれほどうれしいことはございません。 これからが「本番」。 変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。

2012年5月5日土曜日

アラン『アラン教育随筆』橋田和道訳, 論創社, 1999。

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アラン『アラン教育随筆』橋田和道訳, 論創社, 1999。

アランは私の最も好きな哲学者である。

なにより、直接的なのがいい。

「疲れた時に、その理由を考えたりするのではなく、
まず伸びをしよう」

「不幸につながる考えはすべて間違った考えである」

「まず自分が幸せになろう」

読んでいて元気になる哲学書はあまりない。

『アラン教育随筆』はアランの教育に関する
エッセイ(=プロポ)をまとめたもの。
なかなか勉強になる箴言が多い。

「何かを知っているという場合、大変な不都合がある。もうそれを学べないからだ。何かの定理が証明されている場合、大変な不都合がある。もう自信を持ってそれを推理できなくなるからだ」(20)

「教養人の力の一つは、完全に忘れるということだ。身ぎれいにし、沐浴し、汚れを落とす。あらゆる教養人には、つむじ曲がりのところがある。つむじ曲がりのところと気骨とがある。くどくど考えようとはしない。彼は歩く。そしてまだ繁っていない葉のあいだを月が一緒に走るのを見る。ここに彼の天文学書がある」(29)

→教養人は事物からものを考える。
何か書物だけでものごとを判断する人ではない。

「良心(カンシャンス)は決してためらわない」(45)

「どうやらここに、つぶさなければならない偏見がある。それは、教育があれば当然地位が約束されるべきだ、というものだ。一体、学問とは、どういうふうに理解されているのだろうか(…)学問は、それ自体によっても、万人にとってもいいものであり、また万人の手に届くところにあり、常識が培われたものに過ぎない、という考えがもてるまでにならなければならないだろう」(48)

→昨日書いた、生涯学習に関しての論考に関係のある点である。

「道徳的生活にはいるとは、まさに規則から解放され、自分自身で判断し、結局は自分にしか従わないことだ。ですから教育は、道徳がなくても、教育のない道徳より道徳的なのであります」(53)

「音楽も、聞くだけにとどまっていて全く歌わないなら、喜びはほとんど得られない。だからある知恵者は、音楽とは耳でなく喉で味わう、と言った」(124)

「まず幸せになれ、とはかの賢人が言うとおりである。なぜなら幸せは、平和の果実として得られるものではないからだ。幸せこそ平和そのものなのだ」(129)

「ばかとは、人の意を迎えるために自分の考えを変える者だ。ばかとは、意見を流行のコートのように着ける者だ。ばかとは、いやいやながら好きになろうとする者だ」(261)

「負けるな、そこからはい上がれ、自分自身を助けよ、人には自分自身を助ける力があると信じろ。その証明は試練しかあり得ない。最初の努力と最初の成功によって自信が生まれるだろう。意欲を積み重ねれば、意欲の持ち方を知るだろう」(272)

「幸福はいつも逃げ去る、と言われる。これはもらいものの幸福についてなら正しい。なぜなら、もらいものの幸福なんてないからだ。だが自分で得る幸福は本物だ。それは学ぶことだ。そして人は常に学ぶ。知るほどに、ますます学ぶことができる」(125)

私が気になるのは、アランが経験学習や実物教授を批判している点である。
そのロジックが、あんまり理解できない。
「自分で経験する」ことの大事さをアラン自身も重視しているからだ。

おそらく経験で終わってしまう「はいまわる経験主義」批判をしているのだろう。

「経験は、絶えず正義を否定するからだ。一体だれが金持ちになるのか。一体だれが征服するのか。一体だれが近代式の学校を建てるのか。それは、不平等に賭け、このこと自体によって勝った者と決っている」(267)

この点は、経験主義の学校が金持ちのためのものになってしまう点に近い。

109ページのところで、経験学習ははじめの一歩としてのみ、役立つと述べている。
それはあくまで入り口であり、地球や科学法則については経験では学べない、ということを述べている。
経験のみでなく、想像についても批判的だ。

「なぜなら、実際、経験は万人に降り注ぎ皆が等しく濡らされるが、皆が等しく学ぶわけではないからだ。人間らしい心の仕事は、そういう物を考え直すことにあるのであって、光り輝くものとか燃え上がるものとかだけを見つめることではない。これは犬猫には決してやれないことである。犬猫は想像のみで生きる」(110)

アランの経験主義批判について、どなたかお教え下さいませ。

2012年5月4日金曜日

働くことと学ぶこと

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働くことと学ぶこと

実際に働くようになってから、
中谷彰宏さんだとか
本田健さんだとかの書いた
勉強本の「すごさ」がわかるようになりました。

彼ら自己啓発本の著者たちは
「社会人こそ勉強しなければならない」
といいます。

学生時代、「ああ、そうだな」と軽く読んでいました。
ですが、社会人になってからこのメッセージの重要性と困難さに
改めて気づきました。

昨年度、私は通信制大学について研究していました。
通信制大学で学ぶ人たちは
「仕事と勉強の両立」を口にします。
この「困難さ」を乗り越えるため、
学生会組織などを作り、相互に励まし合うわけです。

この4月から、通信制大学に学ぶ人達の「気持ち」が若干分かるようになりました。

仕事で疲れた後、「勉強」できるのは
すごいことなのだと気づきます。

大学院生時代、教員をしながら博士課程・修士課程で学んでいる人を
何人も見ました。

そういった方々の「すごさ」を改めて実感しています。

社会人になって1ヶ月。
ゴールデンウィークは自分のこの1ヶ月の経験を再帰的に振り返る
よい機会となりました。

ただ、通信制で学び人が言いがちな「仕事と勉強の両立」という言葉。
これを述べる必然性は必ずしもないように思います。

なぜなら、通信制大学での学びや社会に出てからの学びは、
すべて「自分」の意志で決めているものだからです。

別に誰も「両立してくれ」といっているわけではありません
(来年度も雇ってもらうため、教員免許の教科を増やす教員などは除きます)。

自分でやった「決断」によって「両立」を余儀なくされるというのは、
学びが「義務」「苦痛」という思い込み(ドクサ)を捨て切れていない点からきているように思われます。

別に誰も「仕事と勉強の両立」なんか、求めていません。
そのほうがいい仕事ができるようになり、
いい生き方ができるようになり、
人生を楽しく生きれるようになるための「選択」であるはずだからです。


月寒の温泉

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月寒の温泉

月寒中央駅まで行き、
月寒温泉・緑の湯にいます。

http://homepage3.nifty.com/yu-meguri/tennpo/midori_.htm

札幌駅から地下鉄東豊線ですぐいける場所にある温泉。
札幌ってすごいなあ、と思います。

(ただ、駅からは歩いて25分ほどかかりました)

札幌はいまが桜の季節。
ゴールデンウィークに桜を見ながら露天風呂に入れる。

最高ですね。

おまけに雨が降る中入る露天も
趣きがあります(今日は雨です)。

今日、緑の湯には私のように
「ゴールデンウィークをどう過ごしていいかわからない」人や
親子連れが多くきております。

昔から私は温泉が好きでした。
自分の所有物を一度形式的に捨ててからでないと
温泉に入れない、という点に心が惹かれているのでしょうか。

温泉には身一つでしか入れない。
そんなシンプル・ライフへのあこがれが私にはあります。

『24時間先生 大丈夫。俺がそこから出してやる』荒井裕司, 2004, メディアファクトリー。

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『24時間先生 大丈夫。俺がそこから出してやる』荒井裕司, 2004, メディアファクトリー。

東京国際学園高等部 校長の物語。

荒井は"夕方6時までは校長、6時からは先生"として、
引きこもりの子どもの家をクルマで訪問する。

そして彼らとコミュニケーションを取る中で、
社会とかかわるためのきっかけを提供する。

自分の経営する学校やフリースクールに入れることが目的ではない。
純粋に引きこもりの子どもと関わるのが「楽しい」から、
関東中をクルマで走り回る生活を20年も続けている、という。

こういった純粋贈与を行なっている「教育者」を見ると、
「自分はまだまだだなあ」という戒めを受け取る事が出来る。

「受け皿となる学校は作ったが、それで仕事は終わりではなかった。
 ひきこもり、不登校の子どもたちは、目の前にいるわけではないのだ。夜、繁華街のクラブやカラオケボックス、ゲームセンターで会えるわけでもない。当然、学校や教室にいることもない。
 救うべき子どもたちの姿は見えず、救いを求める声は聞こえないのだ。/
 ならば、どうするか? こちらから行く」(121-122)

 ノマド・エジュケーションの本領発揮である。

2012年4月30日月曜日

ノースサファリサッポロに行く。

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ノースサファリサッポロに行く。

友人の車で定山渓温泉そばにあるノースサファリサッポロに行った。

一見、「動物園っぽくないなあ」という場所だった。
それは、すごく狭い上に園を遮る壁がなく、どれも小規模なパーツで
構成されているためである。

外から見ると、「え、こんなところが動物園なの?」という場所である。

実際に行ってみると動物と触れ合う事ができるという、
「ここだけでしか出来ない」という特別な体験が出来るため、
非常に満足できる場所だった。
ヘビやワラビーに触ることも出来たし。

狭くてもテーマパークは出来る。
それを感じた。

逆にあの内容を、たとえば上野動物園クラスの場所で行うと、
内容は同じでもつまらなくなってしまう。
狭いからこそ、賑わいを簡単に示すことができる。
他のお客との身体的距離が近いため、
「自分もこの集団に参加している」という感覚を容易に得ることができる。

イベントを開催する際にも、あえて小さなサイズで行うこのも大切なのかもしれない。


非日常性について

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非日常性について

教育をつまらなくさせている最大の原因はなんだろうか。

教育的関係が固定化し、教育を受けることが権利ではなく
「重荷」、つまり日常になっているということにある、というのが私の回答だ。

学校に入った以上、毎日人は学校にいく。
そのため学校はつまらない苦痛の空間と堕してしまう。

人々に自由に生きるための力を提供するのが義務教育であったはずが、
その「自由」が重荷となってしまうのだ。(『自由からの闘争』)

もし学校が「非日常」の空間ならばどうか。
学校行事前の高揚感は「非日常性」がもたらすものである。

教育に常に真新しさをもたらし、
教育的関係が「日常」に堕することを排除していくことが
ノマド・エジュケーションのキーとなる。

問題なのは「非日常」が日常化したあと、どうするか、という点がある。
ディズニーランドは「非日常」だが、何度も行くファンにとっては「日常」となる。
その「日常」に「非日常性」を出すため、ディズニーランドはアトラクションをどんどん作り、
敷地面積も広げていった。

非日常を非日常たらしめるためには、
不断の工夫と努力が必要なのである。

2012年4月29日日曜日

ホスピタリティ論。

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ホスピタリティ論。

ノマド・エジュケーションにとって重要な要素について、
これから数日に分けて検討していきたい。

ノマド・エジュケーションのキーワードには以下のものがあげられる。

①ホスピタリティ
②非日常性
③フロー経験・没我経験
④ネットワーク

まずはホスピタリティから検討したい。

ホスピタリティについては近年、各分野から考察がなされるようになってきている。
なお、本稿山本哲士の『ホスピタリティ原論』に影響を受けている点を先にことわっておきたい。

ホスピタリティとはサービスを超えたサービスである。
サービスは画一性を持っている。
「お客」であればすべての人にもたらされる。

ホスピタリティは異なる。
他者に応じて、必要とされるものを提供していく姿勢である。
「もてなし」の姿勢でもある。

他者に必要とされることを想像し、
その実現を行なっていく態度である。

このホスピタリティは、
人に応じて必要とされる教育サービスを提供する意味で
ノマド・エジュケーションのキーとなる。

ただ単に「学ばないといけないから」やるのではなく、
本当にその内容が必要だとわかり、
あるいはその内容の学習が楽しいというメッセージを伝えていく
教育のあり方である。

ホスピタリティということばは元々「ホスピス」から来ている。
死に逝く人の枕元で、最後の願いを叶える、という姿勢である。

今にも死にそうな人が「ラム酒を飲みたい」といったら、
たとえ高速道路を使ってでも願いを叶えようとするだろう。
ホスピタリティもこの枕元(=臨床)の場において求められるものを
うまく提供していく姿勢を意味する。

ホスピタリティが重視するのは、ホスピタリティを提供する相手は
本質的には「敵」である点だ。

そう、お客は「敵」なのだ。

「敵」だからこそ、理不尽な要求を行う。
「敵」だからこそ、事を荒立てずにものごとを解決すべきなのだ。

戦わずして相手に満足を提供する。
それがホスピタリティの本質である。

学校においても「モンスターペアレント」が騒がれている。
現場の教員は「問題だ」という接し方をすることが多い。

しかし、ホスピタリティの考え方からすれば、顧客がわがままをいうのは
「当り前」なのである。
なぜなら顧客は「敵」だからである。

「敵」だと認識するところから、
「どうすれば表立った対立をせずに解決できるか」
という知恵が導かれるのである。

どこまでも個人に立脚し、
個人が求める教育を提供する姿勢。
それこそがノマド・エジュケーションである。 

2012年4月28日土曜日

クラウディウス・ザイドル『サザンな大人たち』主婦の友社, 2006。

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クラウディウス・ザイドル『サザンな大人たち』主婦の友社, 2006。

内田樹が『大人のいない国』という対談本を出しているが、
本書もその流れに乗っている。

いま我々はいつまでも「若い」ことが求められる。
社会全体が若さを求め、「いい歳」をした大人であっても
20代前半の若者と同じくクラブに行き、朝まで踊り続ける。

そんな「「青二才の種族」の出現と同時に、別の種族が消滅してしまった。「巌のように偉大な人物」である。彼らは今どこにいるのだろうか?」(91)
日本のみならず先進国では若者的な人物のみが存在するようになった。

兼好法師が『徒然草』を書き始めたのは20代後半からであった、という。
若いのに「年取った」フリをして、世の中を見つめていた。
こういった態度はもはや求められていないのかもしれない。

実際、私は教員だが「教員」という生き方は常に若さを求められる。
「若い」だけで技術がなくとも、「若い」教員には人気が集まる。
社会全体が教員の世界と同様になりつつあるのかもしれない。


2012年4月24日火曜日

ネル・ノディングス『教育の哲学 ソクラテスから〈ケアリング〉まで』宮寺晃夫監訳, 2006世界思想社。

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ネル・ノディングス『教育の哲学 ソクラテスから〈ケアリング〉まで』宮寺晃夫監訳, 2006世界思想社。

ネル・ノディングスの発想は
「ノマド・エジュケーション」を考えていく上での福音である。

「真実の教育は、教育される者の狙いとエネルギーに関わっていくものでなければならない。そのような関わりをたしかなものにするために、教師はケアと信頼の関係を築かねばならないのであり、そのような関係の中で、学生・生徒と教師は協力して教育の目的を築いていくのである」(329)

「ケアの倫理学は真に自律的な道徳主体という概念を拒絶し、道徳的な相互依存性という現実を受け入れる。私たちの善さと私たちの成長は、私たちが出会う他者のそれと切り離されることなく結びついている。教師として私たちは、学生・生徒が私たちに依存しているように、学生・生徒に依存しているのである」(330)

「デューイに従えば、教育の目的はさらなる教育である。そうであるから、教育は究極目的としても手段としても機能する」(47)

「今日、マイノリティと貧困層は、自分自身の地理的コミュニティの中でしだいに孤立しており、コミュニケーションは孤立した単位の間に分断され、その中でそれぞれ政治的決定がなされようとしている」(282)

「教師は学生・生徒たちに、共同作業の第一の目的は互いに助け合い、理解し合い、分け合い、支えあうことである、とはっきりというべきである。共同学習の目的は、必ずしも学科の学習ではないのである」(321)

「信頼と継続性が不可欠であるから、私は、教師と学生・生徒は相互の合意のもとで、数年間ともに過ごすべきだと提案してきた。ケアの倫理学によって指導される道徳的な生活は、ケアリング関係の確立と維持と向上に意を注がなければならない」(323)

2012年4月22日日曜日

小樽にいます

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小樽にいます

小樽運河沿いのドイツビール店でノマド・ワーキング。
なんとコンセントを使わせてくれた。

ありがたい!

ドイツビールとプレッツェルの
贅沢な食事です。

札幌ウッディーズ

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札幌ウッディーズ

間伐ボランティアって、ご存知でしょうか?
山に植林をするボランティアはかなりあります。
ですが、これは植えるだけで終わってしまうことが多いです。

木を沢山植えると、当然ですが木が沢山育ちます。
そうなると木1本あたりの根っこの数が小さくなります。
洪水や地震の際、根っこが少ない分、山が崩れてしまうことになってしまいます。

林業でも間伐が必要なのですが、後継者不足と
海外からの輸入木材に勝てず、植林して放置されてしまっている場所が
多くあるのです。

ちなみに私の実家(兵庫県多可町)でも数年前、
山崩れが起きました。
帰省した時、見事な禿山になっており、驚いたことを覚えています。

私が本日参加した「札幌ウッディーズ」は、
間伐をはじめ山林を元気にする活動を行なっています。

今日は服装を間違え、
革ジャン・革靴という「山をナメた」
格好で参加してしまいましたが、
それはそれで社会勉強でした。

担当して下さった方が語っていたように、
「汗をかき、翌日筋肉痛になる」活動でしたが、
山と触れ合えて充実した休日になりました。

特に面白いのがチェーンソーでの間伐作業。
5メートルほどある木を切り倒します。
なかなか倒れません。
数分後、急にメキメキと音を立て、木が倒れます。
ものすごい音がします。

間伐する木が倒れる時、
近くの木を巻き込んで倒れることがあります。
そのときの様子は迫力があります。

けっこう非日常な体験のできるボランティアでした。

*札幌ウッディーズhttp://sapporo-woodies.org/

2012年4月8日日曜日

「脱学校論」読書会、開催します!

かつて私は、大学の友人と『脱学校の社会』の読書会をやっていました。

この本は、

「学校があるかぎり、人間は自分で考えなくなる」
「教えられるのを待つようになる」
「サービスに依存するようになる」

…という、刺激的な本です。

私の人生観・教育観を変えた本といってよいでしょう。
この本との出会いが、私が通信制高校で勤務することと
つながっております。

この本、「再読したいな」と思うようになりました。

いま私が札幌勤務なので、集まっての読書会は札幌で開催
したいです。

Skype参加やWeb上での議論もやっていきたいなあ、と思っています。

「やりたい」という思いのある方、
ぜひ本ブログの「メール」から、
あるいはTwitter・Facebookからご連絡下さい。

2012年3月29日木曜日

教育の本質的な「ジレンマ」

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教育の本質的な「ジレンマ」

教育の本質的な「ジレンマ」は、理想の教育社会を築くことが生徒の自己学習力を下げてしまうという点にある。

自分たちで工夫して、いろいろやっていく余地のあるとき、学習は進む。適切な「負荷」がかかるためだ。

Webは検索するといろんな知識を得させてくれる。
そのため、もはや知識を知る必要性が低下する。
「学習」における意味が軽減するわけである。

教育系の起業。これは使命・目的が達成される(終わる)ならば解散していい仕事である。
時代や社会が必要としなくなれば、いつでも組織は解散すべきである。
しかし教育関係機関は惰性で続く。
もはや不必要とされる教育の仕方を延々と続ける「自己再帰的」な「システム」となってしまう。
(意味のない教育をするという意味では、いまの学校は大体そうだ)

教育系の起業の「理想」は、「ゆりかごから墓場まで」というスタンスである。
児童教育から老人向けのリハビリ教育までを一手に引き受けることだ。
「ベネッセ」的なもの、と言えるだろう。
ある会社の「トータル養育セット」もこれである。

しかし、こうやって企業がすべての教育サービスを提供しようとすると、「自己学習力」や自分たちでの「工夫する力」が下がってしまう。

理想の教育は、「理想の教育」が達成された瞬間、「自己学習力」が下がるという弊害を持っている。

これを防ぐには、他者に応じてやり方を変え、けっして完成形のない「ホスピタリティ教育」をすることしか存在しないであろう。
教育における他者も「歓待」すべき対象である。
相手への「歓待」をその場その場でやり続けていく教育こそ、「教育」のジレンマを減らす方途なのかも知れない。

2012年3月26日月曜日

点Pとしての偉人論

ブッダは「場所」を持たなかった。
弟子と共に流浪を続け、たまに祇園精舎なり、竹林精舎という原点Oに戻ってくる存在であった。
つまり、ブッダは座標平面上をつねに移動する点Pであった。
キリストもそうであり、ムハンマドも原点Oから追放された点Pである。

流浪し続け(=ノマド)、1点に逗まらないからこそ多様な図形を座標平面上に描くことが出来た。

彼らは、常人には先の読むことのできないグラフを描き続けたのである。
その座標平面上に描かれた図形こそ、「聖書」なり「経典」なりに結実したのであった。

他者救済の要は移動性にある。
要は1点のみに自己を固定せず、常に移動し続ける点Pで在り続けることが求められる。
その過程の中で、哲学的知見なり宗教的着想を得ることになるのだろう。

(カントを除く)偉人たちは点Pであった。
せっかく札幌に行く私も、気分だけでも点Pになりたいと思う。

岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

①1日の流れを、決まったものにする
②明白なルールを作り、それを一貫させる
③ルールは、できるだけ具体的にする
④ルールや日課は視覚化し、見えるところに掲示する
⑤一つ活動を行う前に、予めいつまでで終わりになると見通しを与える
⑥活動と活動の変わり目では、前もって予告をするなどの工夫をする
⑦お気に入りのことは、苦手な活動の後でする
⑧否定的な言葉を使わずに、できるだけ肯定的な言葉を使う
⑨感情的に叱ることは慎み、どうすればよいかを客観的に伝える
⑩よいことは、まめに褒めて強化をはかる
⑪よくない行動を叱るより、よくない行動をしなかったときに褒める
⑫ご褒美は、一回分は控えめで、積み重ねられるものがよい
⑬本人の特性を活かす方法を考える
⑭本人の主体性、気持ちを尊重する
⑮問題行動に過剰反応せずに、その背景を振り返る
(171頁)


 これはアスペルガー症候群にかかわらず、
わかりやすい説明や授業をする上で必要なスキルである。
 また、仕事術としても有意義であり、コーチングの際に
意識すべきリストでもある。
  
 アスペルガー症候群を知ることは、仕事のやり方・勉強のやり方を
再考することでもあるんだなあ。

岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

①1日の流れを、決まったものにする
②明白なルールを作り、それを一貫させる
③ルールは、できるだけ具体的にする
④ルールや日課は視覚化し、見えるところに掲示する
⑤一つ活動を行う前に、予めいつまでで終わりになると見通しを与える
⑥活動と活動の変わり目では、前もって予告をするなどの工夫をする
⑦お気に入りのことは、苦手な活動の後でする
⑧否定的な言葉を使わずに、できるだけ肯定的な言葉を使う
⑨感情的に叱ることは慎み、どうすればよいかを客観的に伝える
⑩よいことは、まめに褒めて強化をはかる
⑪よくない行動を叱るより、よくない行動をしなかったときに褒める
⑫ご褒美は、一回分は控えめで、積み重ねられるものがよい
⑬本人の特性を活かす方法を考える
⑭本人の主体性、気持ちを尊重する
⑮問題行動に過剰反応せずに、その背景を振り返る
(171頁)


 これはアスペルガー症候群にかかわらず、
わかりやすい説明や授業をする上で必要なスキルである。
 また、仕事術としても有意義であり、コーチングの際に
意識すべきリストでもある。
  
 アスペルガー症候群を知ることは、仕事のやり方・勉強のやり方を
再考することでもあるんだなあ。

2012年3月22日木曜日

生徒も「わくわく」を求めている。

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生徒も「わくわく」を求めている。

小阪裕司は「顧客のニーズなんかない。顧客はわくわくを求めている」と述べる。(『「惚れるしくみ」がお店を変える!』)

これは教育にも言えることだ。

ハッキリ言って、生徒は「学びたがっている」ことなんて、ない。
学びたいものもない。
「ほしい物」がはっきりしない分、「受験」をテーマに授業をすることになる。
そして「ニーズに応えている」と受験校の教員は述べる。

しかし、それは本当だろうか、と感じた。

内田樹は〈学びというのは「贈与」であり、学ぶまでは自分が何を学びたがっているか分からない〉と述べる。
何を学ぶか、なぜ学ぶか分からない状態から学習は存在すると言っているのである。

生徒は学びたがっているわけはない。
生徒は「わくわくすること」を求めている。
学校もひとつの総合サービス業である。
であれば、生徒の「わくわく」を誘発する「しくみ」を作らねばならない。

それが「この内容は面白い」「楽しい」ということが伝わる授業であろう。

私はかねがね、「ドラクエ並みに面白い微積の学習教材が開発されれば、日本の国富が増大する」と思っているが、
これも「楽しい」「わくわくする」状態を学校のなかに取り入れることになると考えられる。

昔のマグネットスクールの発想である。
学校に生徒自らが「惹きつけられる」状態を理想とする、ということだ。

この「惹きつけられる」状態、生徒に「何を学びたい?」と聞いても教えてくれるわけはない。
それはデパートの店員がお客に「何を売って欲しいですか?」と聞くことと同じである。
お客は思いつきのアイデアを述べはするが、それで売上が高まるわけではない。
顧客は自分の「欲しい物」を知らないためである。

日本人で理数が嫌いな人が多いのも、「あ、難しそう」と逃げてしまうからだろう。
案外やってみると、面白かったりする。

教員という仕事は、生徒が何をわくわくするか、見極めながら授業をすべき、
恐ろしく高度な「総合サービス業」なんだなあ、とつくづく思う。

もっと修行せねば。

2012年3月20日火曜日

映画『だんらんにっぽん』

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映画『だんらんにっぽん』

愛知にある、南医療生協について取り上げた映画。

組合員の出資と運営で成り立つ医療福祉制度である。

興味深いのはリアリティに関する話。
三菱重工でロケットを開発していた技術者の男性が、
ある日痴呆になる。
その人は毎日会社に行くと考えているため、デイサービスセンターに行くときも
以前の職場の前を通って行く。
そしてデイサービスの場でも「はやく会社に行かないと」とスタッフに話しかける。

スタッフは彼との関わり方を考える。
出張が多かった彼がお土産をよく買いに行っていたことに注目する。
そのため、観光地的なスーパーまで来るまで行き、彼に食材を選んでもらうようにしたのだ。
彼は自分のリアリティを周りが尊重してくれていることに感謝し、おとなしくなる。

見ていて気づいたのは、他者のリアリティをなるべく受け入れ、それを生かす努力をスタッフがしている点である。
企業人であった利用者が、仕事の誇りを持ち続けられるよう、周りが合わせているのだ。

この姿勢、重要だなあ、と思った。

2012年3月19日月曜日

私が早稲田で学んだこと。

私が早稲田で学んだのは「偽の二項対立をするな」ということだった。
 たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
 この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
 この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。

  ①部活のみに力を注ぐ。
  ②勉強のみに力を注ぐ。
  ③部活と勉強、両方に力を注ぐ。

 ①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
 私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
 私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
 それでいいのであれば、①の選択は可能であった。

 ②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
 むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。

 ③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
 なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
 プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
 
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
 じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。

 早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。

  ④部活も勉強も、両方やらない。

 ④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。 
 はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。

 ①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
 しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。

 ④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
 それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
 ①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
 つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
 「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。

 学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
 昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
 残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
 つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
 「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
 この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
 しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
 ただそれだけの効果しかない。
 一方、「内発的動機づけ」は異なる。
 自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
 「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
 心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。

 ④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
 つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
 今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
 自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
 そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
 そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
 ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
 受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
 生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
 ④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
 
 ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
 なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
 それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
 要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
 「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
 
 この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
 しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
 ④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
 やってみよう。

①' 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②' 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③' 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。

 要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
 早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
 ④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
 
 ④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
 これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。

2012年3月18日日曜日

金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

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金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

論語にはこうある。

「先生がいわれた、「乾肉(ほしにく)一束を持ってきたものから上は、[どんな人でも]わたしは教えなかったということはない」(金谷治訳注『論語』岩波文庫, 130頁)

ここを大幅に飛躍して解釈すると、
人に物を教える際、必ず何か「代価」を払わせるということが重要、とは言えないか。

学ぶモチベーションを簡単に上げる方法。
それが相手から幾ばくか金を取る、ということだ。
孔子の場合は目上の人へ教わる「礼」として、「乾肉一束」がルールであった。

このように何かを受け取るからこそ、学び手の側に「学ぼう」というモチベーションが起きたのではないか。

無料でやる芝居は客の反応が薄くなる、という。
たとえ500円でも払わせないと、客は主体的に芝居に関わろうとしない。
「金を払っているのだから、もとをとろう」と主体的になる。
だから無料で芝居をしてはならないのである。

教育もそうである。
授業は一方的な「贈与」であると解されている。
それゆえ、生徒は「受け身」になる。
教室でただ受け身で授業を聞くだけならば、本当につまらない。
「内職」だってしたくなるし、そもそも授業に出る意味がわからない。
(厳密にはちゃんと「授業料」が親なり、地方自治体からなり払われているのだが、生徒から直接払われていないため、リアリティがない)

しかし、仮に授業の際に500円を払うなり物納を義務付けるとどうなるか。
生徒は少なくとも「もと」を取ろうとする。
教員に多くを求めるようになる。
「授業」に値しない授業を堂々と批判できるようになる。
これは教員にとっても、授業実践に反省的関わりをすることを求めさせる(佐藤学のいう「反省的実践家」としての教師、である)。
教員の「自己研修」の必要性が高まる。
「お金をとれるほどの授業をしているのだろうか」と自己を振り返ることになるからだ。
(余談だが、私の勤務校でははっきりと「あなたの授業は商品になるか」を教員に求めている)

私は今までいろんな授業を受けてきて、「授業」に値しない無意味な授業も多く経験してきた。
そういった教員に反省を求めることも、「金銭」や「もの」を授業に際し受け取ることで可能となる。

内田樹は「不快貨幣」についてを述べる。
いまの「若者」がだらだら授業を聞き、だらだら過ごすのは、意識的に「自分は不快だ」という思いを相手に伝えるためだ、
と述べる。
これは「つまらない授業をなぜ私は受けないといけないのか」という思いに対する返礼である。
「つまらない授業」を一方的な「贈与」として受け取る分、何かを反対給付剃る必要がある(モース『贈与論』以来のテーゼだ)。
それが「不快貨幣」だ、と内田樹は説明するわけである。

この内田樹の説明を「乗り越える」には、授業に対し授業料をその場で払うか、物納をするということがあげられるだろう。
これにより、少なくともこの授業に対し自分は幾ばくか金を払っているのだ、という認識を与えることが出来る。
だからこそ、「役に立たない」授業・「つまらない」授業(両者は微妙に違うのだが、ここでは一括する)を生徒自身が見極めることができるはずである。

孔子だって、無料では相手に教えていない。
「労働」である以上、これは仕方ない。
しかし、「金が取れる」ような授業をしているかどうかは教員が常に自覚的であるべきであろう。

2012年3月16日金曜日

デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

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デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

17世紀の普遍妥当的教授学「われわれの知性が完成していく自然の歩みは教授を通してであり、そしてこの教授は経験から抽象的な真理へ、生き生きとした言語からその規則へ、子どもの最も身近な環境から遠方にある物の定位へ、と進行していくのである」(23)

「教育はそれ自体目的なのではなく、手段として心的生の発展に資するものだからである」(30)

「われわれの本質の、全然言い表されない不調和はすべて、この根源的な多様性に拠るのである」(34)

「教育は、成人した者が時代を担う者の心的生を形成する計画的な活動を意味する。他の目的に向けられた活動であっても、副次的に結果として教育にいたるときには、より広い視点から、教育という表現が用いられる」(39)

「教育の使命は、意図的体系的手段によって、個人が自主的に自らの決定したことを遂行できる状態にまで、個人を発達させることである。それゆえ、人間の運命に関する一切の経験に応じて、個人がもっている情緒や意志や観念の世界を発達させることが、すべての教育の究極的目標なのである」(62)

「個人が自己の全心情力をもってこれらの世界に完全に入り込み、つまり適切なる場において、自己の能力に応じて、自己の満足と全体の利益のために、この文化および文化の使命に関与すること、これが教育の最高の使命である」(63)

「個人は社会のなかにあってのみ性格の統一へと形成される|し、個人においてこうした陶冶が可能であるがゆえにこそ、人類もまたその性格の統一を得ることができるのである」(151-152)

「教育学は目標を立てることによってのみ有りうるのである。目標は倫理学がこれを説くが、しかし倫理学は普遍妥当的ではない」(174)

「すべての国民および時代に対して教育問題を規定することを決定することを決定しうるような普遍妥当的な教育学は、ひとつも存在しないのである」(183)

「教育史の基礎的な研究のいずれもが教えるところだが、真の改革は教室での普段の骨の折れる教育活動を介してのみ成就されるという命題は、人々の騒々しくさわぎたてるなかでは聞きとられない」(193)

●解説
「スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットはデュルタイの主要な理念を明白に要約した。彼はいう、「デュルタイによれば、人間は何一つ本質というものをもたない。人間がもっているものは歴史だけである」と」(244)

「教育学は「教育という現象そのものを提示し、これをできるだけ明らかに心理学的に分析する」学問であり、とりわけ「教師と生徒の関係の叙述」を事とする学問である。そしてまさにこのことがデュルタイの教育学体系の中心課題であった」(254)

2012年3月15日木曜日

リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

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リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

「運がいい」と思っている人のほうが、相対的に「幸福」になり、「成功」しやすくなる、という本。

著者は「自分は運がいい」と思っている人・「運が悪い」と思っている人を比較軸にし、実験をする。
コイントスやナンバーくじの「当たり」具合をみる。

結果的に、「運がいい」と思っている人も「悪い」と思っている人も、
くじやコイントスに当たる確率に差はなかった。
「運がいい」人に特別な予知能力があるわけではないことを科学的に証明する(そのあたりがアメリカの学者だなあ、と思う)。

しかし、「運がいい」人と「悪い人」には大きな違いがある。
「運がいい」と言っている人は「悪い」という人よりも積極的に挑戦をするのである。

「運がいい」と言っている人の中には、何度も宝くじや抽選に当たる人がいる。
この人たちは、例えば「週に70通は応募する」人がいるなど、非常に挑戦的なのだ。

「運が悪い」といっている人は、そもそも応募もしないし、くじを買うこともしない。
「運が悪い」からと諦めるのだ。
だから結局なにも変わらない。

これは何もくじや抽選のみでなく、たとえばキーマンとの接触についても当てはまる。
「自分は運が悪い」と思っている人は、そもそもキーマンと会っても話しかけようとしない。
しかし、「運がいい」と思っている人はダメモトで話しかけるのだ。
そして運をものにしていく。

要はこういうこと。
「自分は運がいい」と思っている人のほうが、「悪い」と思っている人よりも人生が楽しくなる、ということだ。

「自分は運が悪い」と思っている人は、やる前から「どうせダメだろう」と考える。
だから必死になって努力しない。
うまく行かないのは必然なのだ。

一方、「自分は運がいい」と思っている人は、思わしくない障害があっても積極的に努力していく。
それは「運がいい」からこそ、「必ず乗り越えられる」と確信するからだ。

心理学、意外に面白いもんだ、と読後思う。

2012年3月14日水曜日

子ども虐待について

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子ども虐待について

子どもの虐待を防ぐため、政治の分野を中心に改革をしようとしている友人と飲む。

話は、いかに虐待を防ぐか、というテーマ。

旧共産圏の国のように、
親から教育権を取り上げ、
国が教育をする。
この場合、子どもがきちんと育たないなどの弊害が大きかった。

だからといって、国が許可を得た親のみに
子育てを可能にするというのも弊害が大きい。

この両者から言えるのは、子育ての権利を国が付与するという発想の仕方は難しい、ということである。
だからこそ、親自身が自分の子育てを反省的に考えていく以外にない、ということになる。

その方法を巡り、友人と語り合ったがなかなか面白かった。

私は虐待を行う家庭が貧困家庭が多いため、
貧困家庭を対象とした所得再分配を主張した。

友人はそれに対し「単なる経済の問題で解決できないのではないか」と語っていた。

なかなか、虐待をめぐる議論は難しい。
だからこそ、友人とは今後も色々語っていきたいなあ、と思う。

私は今年4月から通信制高校のサポート校で教員になる。
そのため、低学力層への支援というのを嫌でも考えさせて頂く立場になる。
教員の実践を通し、虐待といった教育問題を乗り越える方途を考えていたいと思った。

アイデンティティに関する一考察

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アイデンティティに関する一考察

知り合いとの話。

アイデンティティの確立についての話。

私の考え。

自己を確立しちゃった人はどんな人か。
それは、「ぼくはどうせ人間関係うまくないから」と引き籠もっている人である。

だから自己の確立を目標にすると、
結局は引きこもるしかない。

新たに人とも会わず、
何もせず、
自分の世界のみに浸ること。
アイデンティティの確立を目標とすると、
結局は自分の中に引きこもるしかないのである。

私は自己複数性としての
自己を作っていきたいと思う。

自分が確立する必要なんて、何もない。
「未見の我」を求め続ける姿、
なんにでも興味を持ってやっていく姿、
その過程を「自分」にしたい。

札幌に「留学」にいくのも、
それが目標だ。

もっと複雑な自己を作っていきたい。
たくさんのキャラを演じられるようになることが
幸福だと感じているからだ。

教育における日常/非日常

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教育における日常/非日常

教育が日常になると、すべてがつまらなくなる。

同じ教室、同じ友人、同じ教員。
マンネリズムに陥っていく。

そんな「終りなき日常」に、人びとは飽きてくる。

だからこそ私は「非日常」を基にした学び・教育を行なっていきたい。

セミナー、イベント、演劇etc.


2012年3月12日月曜日

寺山修司『家出のすすめ』角川文庫。

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寺山修司『家出のすすめ』角川文庫。

「森の石松も沓掛時次郎も、その反逆精神を発露したときには「一人」だったことをおもいだしてください」(136)

「「期待する」ということに期待しすぎると幻滅するものです」(141)

「「ヒーロー」的人物たちはすべて「怒って」いることがわかります。もちろん、それぞれに怒りの対象はちがいますが、ヒーローの最大公約数が「怒り」であることはまちがいありません」(171)

「ぼくは「自由である」と思いはじめてから、自分の可能性がぐんと拡められたような気がするようになりました。ぼくは自分のアパートを引きはらい、少しばかりの持ち物(本箱や下着類)を屑屋に売っ払ってしまったとたんに、ひどく金持ちになったような気がしたのです。つまり「何も持っていないから何でも持っている」という訳でしょうか。
 ぼくの棲家は「東京」そのものです。これは今までの一アパートよりもはるかに間取りが多くてゆたかです。レコードが訊きたいときにも、今までなら、手持ちのたった二枚しかないマル・|ワルドロンとエリッグ・ドルフィをすり切れるまで訊くしかなかったのが、今度からは街のレコード屋が全部ぼくのレコード室に早代わりできるのです。いつでも試聴室でモンクだのチャーリー・ミンガムだのを訊いてしかもタダです。
 自分の財産を眺めたいと思ったらばデパートへゆきます。デパートへ行けば何でもあります。そこでぼくは自分の持ち物の多さについて誇らしく(まるで、ソロモン大王のような気分で)点検を行います」(215-216)
→シンプルライフの極意である。

2012年2月26日日曜日

斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』

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斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』

ストイックな教師像が強い本である。


●求道者としての教師像

本書の冒頭も次の内容から始まる。

「自分の子どもは教師にはさせたくない。それは、教師の仕事が、画家や小説家や将棋さしの仕事と同じに、絶えざる創造を積み上げない限り、決してできるものではないということをよく知っているからだ。教育が芸術とにていることは、そのどちらもが、「創造」と、「質の高さ」を要求しているということを知っているからだ」(7)

まさに求道者。
「教師修業は果てがない」のである。


「仕事をすることによって傷を受けないような教師の仕事などあるはずがない。教育の仕事はどこまでも、仕事をしては自ら傷つき、仕事の結果に復讐され、それに堪えながら、歯を喰いしばり自分をむちうって、業のように仕事を続けていかなければならないものである。そして倒れていかなければならないものである。自分をいつわっている偽善的な仕事や、何のうたがいも何の挫折をないままに、事務的形式的にやる仕事からは、自分や子どもの上に、新しいものをつくり出すような仕事など、決して生まれてこないからである」(11)

道を求めるのは、斎藤喜博自身が歌人であり、
土屋文明に30年以上も師事しているということが大きいのだろう。
師を求めないとなあ、と思う。

こういう熱い教育論は、
疲れた教員にヤル気を引き起こすリポビタンDの
働きをする。

「教育は無力であり、教師の仕事は、はかない孤独な仕事である。しかし教師が、そういうはかなさを知り、無力さを知り、教師の孤独さを知ったとき、そこに新しい力が生まれてくる。そこには、思いあがりもなくなり、ムード的なものもなくなり、へんな政治主義もなくなり、教師特有の、うわついた無力感、絶望感もなくなってくる。そして、そういうところから出た教師の仕事は、はかなさを知らず、無力さを知らず、孤独さを知らないでやった場合とは、ぜんぜん異質な強いものになってくる」(13)

「教師は、恥をかき傷つきながら成長し、自分の人間や実践を太らせていくものである。だから、恥をかき、傷を多く受ければ受けるほど、教師としての人間も実践も大きくなり深くたたえたものになっていくし、そうしていかなければならないものである。それが、自分自身の実践での格闘によって受けるものであろうと、仲間との格闘によって受けるものであろうと、子どもから受けるものであろうと、いわれなき他からの悪罵や中傷によって受けるものであろうと、教師はまともにその傷を受け、満身傷だらけになりながら、不死鳥のように再生して立ち上がり、さらに高い実践へと切り込んでいかなければならないものである」(57)

●戦う教師像

「教育は、教師と子どもの苦悶と苦悶の衝突のなかに生まれてくるものである。しかもその苦悶の衝突は、授業展開のすじみちのなかに起こってくるものである。そして授業展開のなかで苦悶と苦悶の衝突が激しく起こるためには、教師の人間全体の大きく豊かな力が必要になってくる。教師に知識とか感覚とか解釈力とか人間の豊かな幅とかがあればあるほど、その教師は、授業展開のなかで、教材や子どもと激しい衝突を呼び起こし、授業を振幅の大きなものにし、そのことによって子どもを変革させ、新しい人間像をそのときどきに創り出すことができる」(25)

「教師の仕事は、創造の仕事であるとともに、一面、勝負師的なところのある仕事でもある。教師の仕事は、一時間の授業のなかで、つぎつぎと新鮮な創造を生み出していかなければならないのだが、そういう創造は、はげしい格闘のなかからしか生み出すことはできないからである。教材とか子どもとかの相手のあるなかで、自分とたたかい、教材とたたかい、子どもとたたかうなかからだけ、新鮮な創造を生み出すことができるからである」(34)

よい実践のため、組合とも行政とも、校内の教員や保護者とも、また自分自身とも「戦う教師」の姿勢が、
斎藤喜博には溢れている。

●具体的事実を基にする教師

「みんなで事実を見つけ合い、事実によって自分や仲間を変える努力をしていかなければならない。事実によって指摘し合い、懸命に自分や仲間を変えていく以外に、人間は自分を変え、自分の実践を変えていくことはできないからだ」(53)

教師が抽象的な言葉・あいまいな言葉で話しがちであることも指摘する。
それでは子どもが混乱をするし、
なにより実践を反省的に振り返ることができなくなってしまう。

人を褒めるときも、具体的事実に基づいて褒めるのが鉄則である、といろんな書物に出ている。
悩みも、できるだけ具体的な方がいい。
(例 ✕なんで不幸なんだろう ◯働き過ぎで肩こりがひどい。どこかで肩こりを治せる場所はないだろうか)

●実践者としての教師

「すぐれた実践は結果的に運動になるものだ。運動論を先に立て、運動だけをしているのは実践者のやることではない。実践者は実践に思いをひそめ、傷つき苦しみながら自分の実践をつくり出せばよい。もしそれがほんとうによいものだったら、その実践が運動を起こしていく」(61)

●驚ける教師

「私は「驚ける」ということは、人間としてもそうだが、とくに教師としては一つの重要な資質を持っているということになるのだと思っている。それは、驚いたり、たまげたりしないということは、その人間が、自然とか人間とかが持っている大きさとか、そのときどきにつくり出している美しさとかに驚かないということだからである」(69)

●「その場」の実践に全力を傾ける教師像

「「中学に行ってどうなるか」とか、「社会へ出てどうなるか」ということを考えないで、いま目の前にいる子どもの上に、瞬間瞬間の美しいものを創り出していくことができるのである。それをしないで、「中学に行ってから」とか「社会に出てから」とかいうことを言っていることは、逆にいえばずるいことにもなる。自分のいまの仕事に全力をかたむけ、そこで証明することをさけているということにもなる。そういうきびしい仕事をしていかないということになる」(171)




教員としての「仕事」を考える上で、
非常に示唆に富む本である。
しかし、本書後半ははっきり言ってだれてくる。
それは後半部分で斎藤喜博が校長を務める
島小の見学者のマナーの悪さ・意地の汚さを
「具体的事実」を挙げて(届いた手紙の引用もする)、
指摘している箇所がだらだら続くからだ。

そのため、同じ教員を目指すものとして、
だんだん読むのが辛くなる。

嫌われるのを覚悟で、
教員としての人間的成長の重要性を斎藤喜博は伝えようとしているのだなあ、と思う。