ときたま、思わぬ発見がある(結構な確率で「これ、何のこと?」と自分の理解度の低さを嘆くが)。
卒論に使える題材が書かれていたので、コピーしておきたい。
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私たちの時代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。内田樹の研究室より。
「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、それにもかかわらず「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる。
学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術やそれがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち(「それを勉強すると、 どんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたち)は、「先駆的な知」というものがあることを知らない。
彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。
自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、それとは関係のないものには見向きもしない。
おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのだろう。
だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。
「先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。それを殺すことは緩慢な自殺に他ならない。
武道は「先駆的な知」の開発に特化したメソッドである。私たちはそれを「気の感応」とか「気の錬磨」というふうに呼んでいるのである。
追記
諏訪哲二『間違いだらけの教育論』において、内田樹は批判の対象となっている。内田の言う「学び」は「真理」としての教育を説いているが、「真理」としての教育を発動させるにはまず「啓蒙」の教育を行う必要性があるのだ、と。
「啓蒙」の教育の後、「文化」の教育、「真理」の教育に段々とすすんでいく。肝心なのは、なまみの人間は「学ぶ」必要性を実感しないということである。この「学び」を発動させるための仕組みが「啓蒙」の教育なのだと諏訪は語っているのである。
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