2009年8月17日月曜日

『大人のいない国』(内田樹と鷲田清一の共著)

 好きな作家の本をある程度読んだ後、ブームが去り、その作家の本を全く読まない時期がある。そんなとき、その作家の本を久々に読んだとき、不思議な感情が芽生えることがある。
 その作家の言葉が、脳内からあふれ出してくる。その作家の思考の枠組みが、頭の中によみがえってくる。
 同一著者の本を読みためておくと、未来にその著者の本を再び読んだとき、一気に著者の思考を思い出すのである。
 若いときに好きな作家を見つけ、読みこんでおくことのメリットであろうか。

 久々に内田樹の本を読みながら、このことに気づいた。
 
 以下は、『大人のいない国』(内田樹と鷲田清一の共著)の抜粋である。

●「実学」中心に教育を再編するということは、要するに学校内外の価値観を平準化するということである。(111頁、内田)

→宮台真司のいう「学校化」の、別の表現の仕方である。宮台は〈学校的価値が社会全般に吹き出すこと〉という定義で「学校化」を語った。これは要するに「学校内外の価値観」が「平準化」するということである。

●言論の自由が問題になるときには、まずその発信者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。(83頁、内田)

●教育の目的は信じられているように、子どもを邪悪なものから守るために成熟させることにあるのではない。子どもが世界にとって邪悪なものとならないように成熟を強いることに存するのである。少なくとも、私たちの遠い祖先はそう考えた。(107頁、内田)

→灰谷健次郎的「子どもに学ぶ」姿勢の両義性である。


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