ちょうどいま連載中の『GTO』でも、この問題を扱っている。
もともと公立学校は親が子どもを使役・労役するのを防ぐために作られた側面がある。つまり親が虐待をする前提で、学校は作られたのである。
いま親に過度の期待をしすぎているのかもしれない。その風潮を正す意味でも、今回の親権制限への政策は画期的といえるだろう。
教育学/社会学ネタメインです。「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」(ルソー)
ちょうどいま連載中の『GTO』でも、この問題を扱っている。
もともと公立学校は親が子どもを使役・労役するのを防ぐために作られた側面がある。つまり親が虐待をする前提で、学校は作られたのである。
いま親に過度の期待をしすぎているのかもしれない。その風潮を正す意味でも、今回の親権制限への政策は画期的といえるだろう。
今日、本屋で<できる子・できない子>という説明の仕方を目にした。どうやら勝ち組・負け組と同じようなくくりらしい。親に恐怖心を与え、早期教育に走らせる魂胆だ。
人間を出来る・出来ないや勝ち・負けで見ること、私は嫌いだ。
われわれの基本的な考えは、次のとおりである。平等な社会は、経済と政治の改革を通じて造り出すべきものであり、教育の主たる役割は、そのようにして造り出された社会を維持することにある。(53頁)
自民党が「再配分=既得権益温存」などという看板で再生可能ですか。百パーセントあり得ない。再生するとすれば、「再配分=既得権益剥し」は当然としたうえで、再配分が「自立の支援」なのか「依存の奨励」なのかを厳しく吟味する以外にあり得ない。(83頁、宮台の発言)
『シャドウ・ワーク』第6章後半
12月10日に提出した卒論。そのラストに、私は次のように書いた。
今回、卒論執筆のなかでイリッチ思想について様々な文献に目を通してきた。その作業のなかで、イリッチは「人間の復権」を形を変えて伝えようとしていたのではないか、と感じるようになった。
例えば消費者という言葉。ただ消費だけを行う者という意味だ。人間を消費者と生産者に分けるのではない。本来、人間は生産も消費もどちらも行ってきた存在である。それを「生産者」「消費者」に分けることは人間を軽視することだ。
教育も同じだ。本来、教育を受ける主体と教育する主体は分かれていなかったはずだ。大人が子どもを教えるとき、子どもから大人は何かを学んでいた。本来、教育とは相互依存的なものだったのだ(イリッチの相互親和、つまりconvivial)。それを「教育を授ける者=教師」、「教育される者=生徒」の関係に人間を貶めてしまった。それが「制度」のもつ問題点である。
Convivialな生き方。これをイリッチは提唱した。相互親和、つまり人間どうしが助け合って生きる姿をイメージしている。
イリッチは脱学校化の必要性を訴えた。それは本来的な教育が、制度化された「学校」では実現できていなかったからだ。脱学校化を図ることで、「人間の復権」を行おうとしたのだ。
このように私は書いた。今回扱う範囲も、「人間の復興」をイリッチが言葉を変えて示しているように思える。
イリッチはかつて女性も家計のために働いていたことを示す。《シャドウ・ワーク》ではなく、「ワーク」そのものだったのだ。自分たちの生活に必要な物は自分たちで作り上げた。例えば毛織物、例えば建築など。イリッチ用語でいう、自立・自存(要は自給自足のようなこと)を意味するサブシステンス(生存維持的)が行われていたのである。そこに、賃労働で人を働かせ商品を生産するという資本主義の仕組みが入ってきた。その結果、女性が生活に必要なものを直接作り出すということが減り、かわりに夫の賃労働をサポートし、子どもを教育するという《シャドウ・ワーク》が押し付けられるようになってしまったのだ。女性が自立自存的な生活の基盤から外されてしまったのだ。「賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される19世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった」(235頁)のである。
冒頭の私の文章でいえば、女性の「人間生命が小さくされる」現象が起きたのである。平塚らいてうは「女性は太陽であった」と青鞜社を作った際に語った。文明が進むにつれて、かつて太陽だった女性は、まさに影(シャドウ)に追い込まれてしまったのである。
イリッチは続ける。「専門的職業はつねにそのサーヴィスへの依存の必要を前提とするものだが、そうした必要を専門的職業に可能にさせるものはすべて、対応する〈シャドウ・ワーク〉を顧客にたいしてきわめて効果的に押しつけることになる。こうした無能力化を推進する専門的職業の典型例は、医療科学者と教育社である」(235~236頁)と。これも冒頭の私の文をもとに解釈したい。文明が進むにつれ、自分で考えなくても「制度」や「サーヴィス」が答えを示してくれるようになる。例えばツタヤにある厖大なCD。この中に自分にあった歌がある。そう考えるとき、人は自ら音楽をつくり出すことをしなくなり、CDという制度に依存してしまうことになる。本来、人間は誰でも音楽をつくり出すことが出来たはずなのに。イリッチはそのことを「〈シャドウ・ワーク〉の創出に従事しているのは、今日のエリートたちである」と皮肉る。システムエンジニア、OSの開発、塾産業の興隆も消費者が「自らつくり出す」力を弱めてしまう。
イリッチは人間の自立・自存を奪うことを「自分自身を破滅させる行為」(239頁)と呼ぶ。ゆえに「産業社会とはその犠牲者なしには済まされない社会であ」(同)り、そのことが「生活の自立・自存の基盤を経済の影法師の姿へと変化させる」(240頁)のだ。
いまこそ、自立・自存というサブシステンスを取り戻し、本来偉大である人間生命の可能性に立ち返るべきではないか。イリッチがそう叫んでいるような気がしてならない。
前の日曜日、高田馬場で『スローメディスン』の出版記念シンポジウムが行われた。出版記念のシンポジウムに行くのは、初めてである。作者2人の話の中に、著作の裏話が現れる。本を作る過程が見えて、なかなか面白かった。
スローメディスンとは、要は「オルタナティブ医療」(代替医療)ということ。あるいは「ホリスティック医療」ということである。西洋医学だけでなく、針やお灸・漢方などの東洋医学も復興すべきだ、また気功・スピリチュアル的治療も認めていこう、という内容である。
オルタナティブという言葉を聞くと、私の血が騒ぐ。私の専門のオルタナティブ教育を思い起こすためである。話を聞けば聴くほど、私の専門分野との共通点が浮かび上がってきた。
オルタナティブ医療もオルタナティブ教育も、メインストリームに対するものとして立ち現れてきた。オルタナティブ医療の方は西洋医学、オルタナティブ教育の方は「学校」教育。西洋医学も「学校」教育も、「それ以外は駄目」という圧力のもとに「それ以外のもの」を否定してきた。例えば針灸、例えばフリースクール。「切り捨て」をしてきたわけである。
けれど、原点に帰らなければならない。医療は人の治療をすることが目的だ。その目的を達成するためなら、西洋医療以外を使ってもいいではないか。同様に、真に子どものためになるのなら学校以外で教育を行ってもいいではないか。
シンポジウムの質疑応答の際、疑問を感じた点がある。代替医療を押し進めたとき、例えば「手かざしで病を治します、その費用は100万円です」ということを主張するカルト宗教への対応である。講師2人の意見は、そこで割れた。
辻信一は「手かざし、つまり気功で病を治す人々はいる。だからそういう人々を排除することがあってはならない」と語った。一理ある。本当に手かざしで治療できる人が現にいるからだ。問題はそんな能力がないにも関わらず「手かざしで治す」と言い張るカルトをどうするか、という点だ。けれど辻はその可能性を言及していなかった。辻に違和感を感じる。
上野圭一は「宗教的行為と治療行為は分けなければならない」と語る。そして、純粋な治療行為に対しては「代替医療」と認めていくべきだと主張した。宗教的な部分については代替医療と認めない方が良いと指摘する。その際、治療行為の費用が他と比較して正当な金額かを考えていく必要があると語った。「同業者団体が自然発生的に作られ、その内部規定が出来ていく必要がありますね」とまとめていた。つまり、「このような治療(手かざし等)には、これくらいの金額にしましょう」という内部規定だ。この上野の説明には納得できた。
辻・上野両氏の話を聴いていて、次のようなケースを思いついた。成功率10%の手術(つまり西洋医療)に100万を出す人は、成功率10%の「手かざし療法」(オルタナティブ医療)に100万を出すかどうか。成功率ではどちらも同じだ。けれど、手かざしに100万を出すのは「インチキではないか」との疑惑がどうしても残る。何故、私はこう感じてしまうのか、よく理由が分からない。
辻と上野の見解の相違は、オルタナティブ教育を考える際にも有効である。いま、「学校」教育以外のオルタナティブ教育を、「学校」同様に認めていく方向に政策が変わったとする。その結果、ヤマギシ会やオウムが作ったような胡散臭い教育機関も認めていく方向になったとする。戸塚ヨットスクールも当然「学校」同様に認められるだろう。そうなることは本当に良いことなのか? 「何でもあり」という状況が現れることは、本当に子どもの教育に役立つのだろうか。
教育機関が「何でもあり」になるとき、上野が語る「同業者団体」の存在価値が高まってくるように思える。子どもや保護者が教育機関を選択する際の指標とすることができるからだ。上野のいう「同業者団体」として、いまフリースクールは「フリースクール全国ネットワーク」という組織をもっている(厳密には、他に「日本フリースクール協会」と「日本オルタナティブスクール協会」がある)。この組織に入るには「子ども中心の学び」を行っているか否かなど、細かな点のチェックが行われている。教育機関を自由に選択できるようになったとき、同業者団体の存在が、選択に安心感を与えるであろう。同業者団体に必ず所属しなければならない、ということはない(それはイリッチでいう「価値の制度化」にあたる)。選択する人がいる限り、同業者とは全く違う教育理念を持つ教育機関はいくらでもあっていい(一部の人に有効という観点から、私は戸塚ヨットスクールにも一定の評価を与えている)。
追記
「職業的な医者への依存の構造が、私たち一人ひとりの心のなかにできあがってしまった。子どもが熱を出したら、自分で手を打つことなしに近くの病院に駆けこむ。昭和30年代までは、病院出産と自宅出産が半々だったのが、それを境いにだんだん病院化してくる」(111頁、上野の発言)とあった。
この文を読んでいて、イリッチの『脱病院化社会』という本を思い出した。未読なので、読んでみたい。そう思うのである。
追記2
オルタナティブ教育も、ただ「フリースクール性」を担保するよりも、「何でもあり」で「自分が自分で学ぶ」「自分を教育する」自発性の視点を失ってはいけない、ということだろうか。こういったフリースクールの「フリースクール性」についての考察を行っていくことが必要である。
追記3
上野・辻の話を聞き、代替医療やオルタナティブ教育の「基準を立てる」というよりも、代替医療やオルタナティブ教育全般を認めていき、それぞれが自発的に同業者団体をつくっていくことが必要である、ということを学んだ。
もとから、私の教育学的主張は学校外の学び舎をさらに普及させることである。例えばフリースクール、例えば「子どもの居場所」。それ故、私はフリースクール全国ネットワークというNPO団体のボランティアを週1でやらせていただいている。
私が教育実習で行った八千代中学校はド田舎の中学校。ヘルメット・タスキをつけ、生徒は自転車で通学する。逸脱する者はあまりいない。生徒をしばる教員の圧力の強い所であった。
こういうことがあった。男子生徒更衣室から制汗スプレーがみつかり、担任が生徒に「こんなものを持ってきてはいけないだろう」と叱っていた。そのシーンを私は少し離れた所から黙ってみていたのだが、非常に不思議な気持ちになった。その教員の話を聞いていても、「どうして制汗スプレーを持ってきてはいけないのか」という理由の説明にはなっていない。理不尽な叱り方である。おそらく、その教員の側にしてみれば本当に「こんなものを持ってきてはいけない」のであろう。中学生だった頃には存在しないものだったのだから。けれど時代は日々進む。現在、高校や大学で運動をする人たちの間で制汗スプレーをしないことの方が「お前、それはないだろう」と言われることが多い。自分の体臭を気にしないことは《非礼》であると伝わってしまうのだ。
まさに社会学でいう「権力」関係が働いていたことに気づく。「隠れたカリキュラム」として、中学生は教員権力に従うということを内面化されていくのだ。
教育実習、気づけば終っていた。「学校」や「教師」という存在が生徒を支配する関係が存在していることに改めて気づき、「ああ、やはり学校外の学び舎がさらに普及することが必要なんだな」という考えに至った。八千代中学校の「不登校」・「教室外登校」の生徒数は、6名(総生徒数208名)である。およそ3%の生徒は「学校があわない」ということを無言のうちに示している。
「学校」や「教師」が大好きな生徒がいるのと同様に、それらが大嫌いな生徒がいるのは当然である。その子に対し、無理やりでも「学校へ来い」と言い続けるのは酷であろう。学校が「学校」である限り、どれだけ努力をしようとも「学校」を好きになれない生徒は必ずいる。ならば学校外の学び舎(フリースクールなど)をさらに普及させることが必要だ[1]。
しかし、「学校」の持つ「気持ち悪さ」を教育実習のなかで幾つも感じながらも、生徒と触れ合うことはものすごく楽しかった。S君という生徒と、放課後の無人の図書室で日本の歴史のロマンを語り合ったことは未だに鮮明に頭に残っている。
「学校」という制度のなかで、いかに生徒と人間的つながりを築けるか。これが大切なのではないだろうか。
[1] もう一つの考え方として、ボーイスカウトなどの「ノンフォーマル教育」活動を押し進め、学校外にも子どもが育つ場所を提供するというものがある。私の実習校でも、ボーイスカウトや地域のサッカークラブに参加している生徒が一定数いた。
学校の存在自体が、生徒の自主性を奪うことはあるのではないか。
「学校」という土俵でいくら自主性を発揮する教育ができたとしても、それが社会でも使える「自主性」である必然性はどこにもないのである。
人が何かを〈学ぶ〉ということは、その対象を通して、生活世界に新たな意味を付与していく営みである。自己の生活世界をつねに新たに更新していく営み、それが〈学ぶ〉という行為にほかならない。その行為は、ものへのはたらきかけや他者とのかかわり合いなしには成立しない。〈はたらきかけ〉、〈かかわること〉によってしか、私たちは自己の世界を更新してはゆけないのだから。それは、必要や効用といった功利的原理を超えた、根源的な「生の世界」それ自体の自己蘇生の営みなのだ。(15−16頁)私たちの〈学び〉とは、それまでの狭い世界を脱出して、より広い世界を切り拓き、再構成していく行為にほかならない。それはきわめて創造的であり、主体的な営みなのである。(18頁)
《ぼくは、スローとはなにかと言われたら、「つながり」と答えることにしています。ローカリゼーションというのは、一度断たれた大切なつながりをとりもどすことですよね》(172ページ、辻)
いま私は一人暮らしをしているが、西早稲田の我が家にはいろんな人が出入りしている。
風呂を借りに来るN君、夜話し合いにくるFさん・Oさん、よく「泊めて」とくるS君、「部屋を貸してください」と急にメールするI君…。ひとりも女性はいないが、たくさんの人がうちを使っている。
人はよく「お人好しが過ぎるんじゃないか」と言うが、私にとってはこの「いろんな人が我が家に来る」生活のほうが好きだ。これこそ「つながり」であり、真の豊かさであると言える気がするからである。
一人暮らしの家に1人で住む。けっこうキツいことだ。 必要以上にプライバシーに配慮していても、孤独さが増すばかりである。
昔の下町長屋にはほとんどプライバシーはなかった。けれどそれと引き換えに「つながり」という豊かさがあったのである。
内田樹も、他人と部屋を共有することの意義を語っている。
大学生がよく欝になるのは、部屋の共有をしないためではないだろうか?
今日の火曜は起きたのが午後1時。素晴らしく気楽な大学生であるものだ(怠惰生とかいて大学生と読む)。
自分のリズムを見ていると、めちゃくちゃ忙しい→ボーっとして怠惰な生活→また忙しい生活…、という繰り返しである。同じペースで持続可能な戦いをするのがどうも苦手だ。研究者に必要な資質であるはずなのだが…。
そろそろ、怠惰な生活をする頻度を下げていきたい。友人は来年から社会人になる。自分も社会人的なリズムで生きれるようになりたい。
昨日はフリースクールフェスティバルの運営を手伝え、けっこう楽しかった。ふだんフリースクール関連で知り合っている子たちが楽しそうな姿をみるのは嬉しいものだ。それはよかったのだが、かなり疲労がたまった。はやく本調子に戻したい。
時代はどんどん変化しているのです。「競争社会」から「実力社会」へ、そして二十一世紀には、必ず「人道社会へ」と動き始めることでしょう。(中略)人道的な行動が、価値を持つ時代です。子どもに対しても、社会全体が、人道的にやさしく包み込むことが必要でしょう。「不登校の体験が人生の大きな宝になった」「家族の絆が強くなった」「学ぶことの本当の意味が分かった」という多くの体験も聞いています。不登校になったからといって、子どもを責めたり、自分の子育てが悪かったと嘆いても問題解決にはならない。貴重な体験をしていると思ってください。人生に意味のないことなど何もないのですから。(220頁)
学校に通うことが目的ではないのです。学ぶことが目的です。力をつけることです。他人のために尽くすことです。本来、人間にとって、学ぶことも、教えることも、喜びであるはずです。この喜びがあるところ、「学校」は生まれるのです。(中略)学ぶことは「喜び」であり、学ぶことは「権利」です。たとえ、大人たちが作った学校という制度が悪かったとしても、それに負けて「学ぶ権利」を放棄するのは不幸です。青春の時、社会に出ていく時、結婚する時など、人生には、さまざまな「時」があります。それを一歩ずつ進んでいくのです。その「生きる力」の源泉となるのが、学ぶことです。学びは一生です。人間は、死ぬまで学び続けるのです。ゆえに一歩一歩でいい。どうしても学校に行けなければ、家で一歩一歩、進むのです。一歩一歩、進めば、悩みの向こうから、必ず何かが見えてきます。お母さんも、そしてお父さんも、家族の皆が、お子さんといっしょに進んでください。歩みを止めなければ、必ず勝利の日が来るのですから。(278~280頁)
16年間の「学校」教育。
気づけば、私も大学生になっていた。早いものでもう4年目である。ここまで、義務教育9年+高校3年+大学4年=16年間も、「学校」で教育を受けてきたことになる。長いものだ。
ところで、「学校」で学んできたものの総量と、「学校」外で学んできたものの総量とでは、どちらが多いだろうか。学校制度は「教育」政策の根幹をなすものである。本来は学校という場において「学ぶ」という作業は行われているはず。しかし私は日本語運用能力も、コミュニケーションの技術も学校の外でほとんどを学んできた記憶がある。学術的知識という、学校が本来担っている部分ですら、大部分は自分で本を読んで学んだことだ。
では、学校という存在は本当に役立っているといえるのか? 学校は何のためにあるのか。
寺子屋をつぶして、「学校」へ。
江戸時代の日本には寺子屋という教育機関があった。人口4000万人の時代に、約2万校存在したとされる。これは江戸幕府や藩が設立したのではない。自然発生的に、民間の有志が作ったものである。
この寺子屋では「子どものため」の教育が行われていた。社会で生きるのに必要な「読み・書き・そろばん」の技術を習得する場所であった。必要がなくなればいつでも卒業できた。学習内容も、子どもとその親の要望によって変わった。大工の子どもには「大工往来」という、大工になるのに必要な知識を詰め込んだ教科書が使われた。商人の子にも、やはりそれに応じた教材が使われていた。現存するだけでも、寺子屋で使われた教科書は1万種類を超えている。寺子屋では子どもの要望に対応した教育が行われていたのである。おまけに、寺子屋は必要ないと判断すれば、「行かない」ことすら選択できたのである。
先ほど、「学校は何のためにあるのか」という疑問を述べた。教育学的に見ると、「学校」の使命は単純明快。それは「国民」の形成である。
江戸時代が終わったとき、日本にいわゆる「日本人」はいなかった。何故か? 全国各地がいくつもの国に分かれていたからである。当時日本は大小多くの藩にわかれており、それが国としての役割を果たしていた。そして薩摩の国・長州の国など、それぞれの国を大名が治め、その大名を江戸幕府が統括していたのだ(故郷を聞く際、「クニはどこだ?」と言うのはその名残である)。薩摩の国に住む人は、自分のことを「日本人」と捉えず「薩摩の国に住む者だ」と認識していた。
それぞれの国どうしは話す言葉もちがっており、方言は相互に理解不能なほど複雑なものだった。参勤交代で江戸に来た大名たちも、お互いの意思疎通には筆談を使っていたといわれている。
要するに、明治時代に入るまで日本には「日本人」はいなかったのである。これでは明治政府は困ってしまう。「日本」という抽象的概念の元に国をまとめなければ、国内が混乱してしまう。前近代であった江戸時代、たくさんの国に分かれていたことはすでに述べた。国自体がバラバラであったわけだ。国内がバラバラであれば、その混乱に乗じて外国が日本を攻めてくる可能性がある。すでに同時代のアジアでは欧米諸国によるアジア侵略が始まりつつあった。「日本も欧米に侵略されるかもしれない」。こんな危機感が政府の中にあった。そのため、「日本人」という認識を人々にもたせ、国民の精神の統一を図ろうとしたのである。
そこで明治政府は2つのものを利用した。それは「学校」と天皇である。
全国各地に昔からあった寺子屋を廃止し、「学校」をつくる。「学校」では方言ではない標準語で授業をした。「日本人」という意識を持たせるため、日本史や日本の地理の学習をさせた。同時にトドメとして、天皇を用いた。〈日本国民は天皇の赤子である〉という教育を行い、精神的な意味での「日本人」意識を持たせたのである。
つまり、「学校」なんてものは本来、私たち個々の人間のために作られたのではなかったのだ。国家のために働く「日本人」を育成するためだけに、「学校」がつくられた。その証拠に、「学校」をつくるとき、明治政府はわざわざ寺子屋をつぶしてしまった。
「子どものため」に作られた寺子屋を壊すところから始まった、明治の「学校」教育。現在もまだ、明治の制度を引きずっている。
ここら辺で、一度「本当に《学校》教育は必要なのであろうか」と、探ってみることも必要なのではないだろうか。
強制的・制度的な勉強は有効か? Hさんの事例より。
私の友人に、Hさんがいる。現在20歳の彼は小学1年のときに不登校になり、13歳くらいからフリースクールに通うようになったそうである。なお、フリースクールというものは日本では「不登校の子のための学び舎」という意味が一般的だ。無理に子どもを勉強させるのではなく、自由に過ごすことのできる場所。いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。来ないという選択肢もある。カリキュラムは一応決まってはいるが、基本的には子どもがやりたいと思うことを自由に行えるところだ。以前私が「東京シューレ」というフリースクールに見学に行った際、6歳の子どもと16歳の子どもが一緒にテレビゲームに興じていた。キャッチボールをしている子どもも、『名探偵コナン』を読んでいる子どももいた。
Hさんは「東京シューレ」に、8年間通った。今年の春にシューレを辞め、会社で働きはじめた。彼は18歳まで、文字を読むことができても、ひらがなを書くことができなかったとそうだ。いまでは習得し、書けるようになった。会社でも普通に文字を書いて働いている。
Hさんの話を居酒屋で聞いていて、自分の「教育」に対する思い込みが晴れていくように思えた。今まで私は「文字の読み書きくらいは、無理やりでも子どもに学ばせなければならない」と考えていた。そうしなければ、個人の不利益になるからだ。けれどHさんの話を聞いて以来、「無理やりでも学ばせる」ということの必要性を疑うようになる。話を聞いていて、思わず焼き鳥の串を落としていた。
現状の教育制度ではHさんのような存在が「あってはならない」ものだと考えられている。文字の読み書きが出来ないと、人は不幸になる。だから、無理やりでも教えなければならない。普通はこう考えられている。けれど、本当にそうだろうか。彼は「ひらがなを長い間書けなかったけど、そんなに困らなかったよ」と語っていた。「無理やりでも学ばせないといけない」と教育関係者は躍起になっているが、案外Hさんの言うようなものかもしれない。
パウロ・フレイレというブラジルの教育運動家がいる。フレイレは学校廃止を主張した人物だ。その理由として「何年もの長期にわたって厖大な公費を投じてなされる公教育による教育的な結果は、ほんの六週間程度の成人識字教育によって充分はたしうる」(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』174〜175頁)からであると説明した。いつ文字を学ぶかということも、本人の自由で決めていいのではないか、とHさんの話から思うようになった。
冒頭に、寺子屋の話を書いた。寺子屋は文字の読み書きと、そろばんの技術を学ぶところであるが、「行かない」という選択肢もあった。「学びたくない」と思えば、学ばずにいることもできた。その点が明治期以降の「学校」との違いだ。「学校」は《日本人としての一体性を持たせないといけない》という強迫観念に駆られているため、「無理やりでも学ばせよう」とする。Hさんはそんな学校のあり方に愛想を尽かしたわけだ。代わりにフリースクールで自分の興味に基づいて過ごすうちに、自主的判断から平仮名を学ぶようになった。
「渇き」による学びの重要性
こんな文章がある。
喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
乾きこそ、モチベーションの源泉です。
他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
生きていれば、必ず渇くときがあります。
他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009年、6~7頁)
フリースクール[1]では、子どもを無理に学ばせようとはしない。
フリースクールは「子ども中心の教育」が行われているところだ。子どもはいつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。休むのも自由であれば、何をするのも自由である。のんびり・ゆっくり過ごすことの推奨すら行う。子どもが「学びたい」と思うまで「待つ」姿勢を貫いているのだ。だからこそ、時間はかかるかもしれないが、宋の文章でいう「渇き」が起こるのだろう。渇きをいやすために水を飲むとき、馬は脇目をせずに一心不乱に飲み続ける。「渇き」が起きた時の学びもそれと同じであろう。
日本初のフリースクールを設立した奥地圭子の著書に、『不登校という生き方』がある。この本の中に「進学先を選択する」という項目がある。フリースクールに通う子どもたちのうち、高校・大学への進学を希望する子どもについて書いているところである。奥地は「志望した人のかなりが高校や大学に受かっています。そしてどうやらついていけるようです。もちろん、受験をすると決めたら、少しは、または熱心に本人が勉強しています。しかし、学校に行っていた子と比べ、圧倒的に勉強量の差はある。それでも合格するし、ついていける」(『不登校という生き方』127頁)と述べている。その理由は何であろうか。
これは、「ヒロベン」(広い勉強のこと)をしているからです。何をしていても広い意味で勉強になっています。テレビ、本、マンガ、新聞、ゲームなどでも、知識、認識は広がっています。そういった土台があり、必要な時に勉強をやれば身につくのだと思います。予備校に行く、学習塾に行く、家庭教師に来てもらうなどの方法を取った人もいるし、一人で勉強して合格した人もいます。
ポイントは、本当に進学したいのかどうか、ということでしょう。入りたい目的がはっきりしていることも重要です。やりたいことには、自然にエネルギーが出るからうまくいきます。実際、わが家でも、東京シューレでも、それほど長い期間ではないですが、猛烈に勉強に取り組む姿をみました。感心したのですが、何のことはない、それまでのいっぱい休息し、遊び、充電している子が不登校には多いですから、いざ、本気でやろうという時には、すごいエネルギーが出るわけです。(『不登校という生き方』127〜128頁)
宮台真司の描く自伝的エッセイの中にも、こんな話がある。高校三年生までは遊んでいた生徒の方が受験の直前になると、ずっとコツコツ勉強していた生徒の成績を抜くという話だ(『日本の難点』)。皆さんのまわりでも、そのような例があったのではないだろうか。
重要なのは学ぶ気がないとき(「渇き」がないとき)は無理して学ばせないことである。だからこそ真に水を欲した際(学ぶ気力が湧いてきたとき)、「すごいエネルギーが出る」ことになるのであろう。
さきほどのHさんにしても、「無理やりでも学ばせる」という「学校」のあり方を嫌い、不登校になっていた。Hさんが18歳になってから平仮名を勉強したということも、「渇きによる学び」が発動したからこそ成功したのだろう。それ以前のマンガやゲームといった「ヒロベン」が、「渇きによる学び」が起きた際、有効に機能し始めるのである。
強制的に「学ばせよう」とすることに、それほど意義はないのではないか。それこそ、「無理やりにでも学ばせよう」というのが「学校」の「教育」なら、そんな「教育」なんて無くなってもいいのではないか。「渇きによる学び」さえあれば、「教育」なんてなくてもいいのではないか。
最近の私は、こんな風に思うのである。
参考文献
イリッチ『脱学校の社会』
奥地圭子『不登校という生き方』
宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』
ダニエル・グリーンバーグ『「超」学校』
林隆造『教育なんていらない』
宮台真司『日本の難点』
山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』
山本哲士『教育の政治 子どもの国家』
[1] 日本における「フリースクール」は、主として「不登校の子がいくところ」という認識である。けれど、本来的には「子ども中心の教育」が行われているところ、という意義がフリースクールにはある。強制的に学習させる「学校」ではなく、「自由」に過ごすところであるからこそ「フリースクール」なのである。「フリースクール」の実際例として、1985年に奥地圭子が作った「東京シューレ」やアメリカの「サドベリーバレースクール」などがあげられる。
もともと教育は学校以外の場所で実際に多様におこなわれていたんじゃないか。その場合の教育は、いわゆる文化の伝達であったり、知識の伝達であったり、父親、母親の生活や知恵の伝達とかさまざまな形があったとおもうんです。そこへ教育という文字どおり諸個人の潜在的な能力をひきだす機能と、教化(教え込む)という機能と、社会的に人間を選択、選抜していく機能と、もう一つは子どもの世話をするという、四つの機能、この機能は近代的な組みたてをこうむった機能なのですが、それを学校が集中化して、中央集権的な学校の制度をつくり出していったといえるわけです。(7頁 山本の発言)
人間が獲得している現在のもっとも高い水準まで知識を獲得していかせようという衝動、学校というものの衝動の在り方として、詰め込んでいったと仮定すれば、イリイチがストップをかけている標識があると、山本さんの本を読んでぼくは理解したんです。知識を詰め込む教育自体がやっていることが、どんどん詰め込んでいったら、その生徒の五〇%以上がそれにくっついていけなくなったときには、それはやめなければいけないといっていると受けとったんです。そこらのところが感心したところなんですね。(64頁 吉本の発言)
ぼくはたいへん感動して(注 山本の本を)読んだんですが、明日の社会のため、国家のために子どもをどうするのかとか、どうしたら子どもはよくなるのかといったことを主張する教師、教育者などはいなくなったほうがいいんだ。そういう連中がなくなることがきわめて重要なんだといわれていますね。そこでいわれている山本さんの主張は、おしつめていきますと、学校というのは消滅すべきものだ、あるいは、教育ということ自体が消滅すべきものだということが含まれているようにおもえたんです。(76頁 吉本の発言)
たとえばイリイチによる学校化批判の攻撃をうけたあと、学校を制度的に変えようという三つの流れがあるといわれます。一つは、学校化をそのままにして再編・改革しようというリスクーリング(reschooling)、第二は、以前からあるフリースクーリング(free-schooling)。学校化の枠の外で、子どもを自由に育くむ場をつくってあげようという自由学校などです。そして第三は、学校をなくそうとしうディスクーリング(deschooling)です。(185頁 山本の発言)
小学校でも、学校は何が面白かったかといえば、そのなかでクラスメイトと遊ぶ遊び時間が面白かった。友達と遊ぶとか、いたずらするとかいうこと。授業時間はいつだって、きつい、かた苦しい、重苦しいという感じがあって、授業時間以外の休み時間とか、昼休みとか、放課後とかいうことで、友達と遊ぶ。学校で遊び切れないときは、それを家へもって帰って、近所までもち越して遊ぶ、それがぼくの学校のイメージなんです。(5頁)社会学者の上野千鶴子は、〈学校化社会は,誰も幸せにしない制度といえます〉(『サヨナラ、学校化社会』)と語る。学校が「楽しい」といっている人間も、結局は何らかの形で「気持ち悪さ」を感じているのではないか。それでは、学校は一体何のために存在していると言えるのであろうか?
西早稲田のアパートに一人暮らしを始めて、もう4年になる。6畳の空間に、私の身体もすっかり適合してきた。すっかり「自分の城だ」といえるようになってきた。
最近、クローゼット内のスーツを出そうとしていると、天井部分に隙間があることに気づく。携帯電話ディスプレーの明かりで照らしてみると、なにやら天井を構成するパネルが外れるようであった。
興味を持った私は、引き出しからLED式の懐中電灯を取り出し、パネルをどけ、天井裏を見てみた。埃や昆虫の死骸の間に、1枚の茶封筒がある。
埃を吹き払いつつ茶封筒の中を見ると、この部屋のかつての住人が書いたのであろうか、数葉の便箋が入っていた。再び封筒に目をやると、9年前の干支がついた「お年玉つき年賀はがき」の景品切手が貼られている。宛名は書かれていない。
以下は便箋の全文である。
前略
俺はこの手紙を出すのかもしれないし、出さないのかもしれない。まあ、届いたならば気休めに読んでもらいたい。君とは長い付き合いだし。
俺は最近ずっと、「人間とは分かり合えるものなのだろうか」ということを考え続けている。サークル内での話し合いや人間関係が面倒くさすぎるのだ。何故かまわりと理解しあえない。
知ってると思うけれど、自分は人間関係を構築するのが得意ではない。周りが笑っていて、自分だけが笑っていないとき、どうしようもなくつらい思いがする。
他者は常に謎として現れる。どんなに理解したと思っても、他者は謎なままだ。「理解した」といっても程度の問題。
こんなことを書くと、「あなたは不幸な人ですね」といわれるであろう。けれど、それが私の実感だ。
前に無性につらいときがあってね。誰かが自分に言った一言が、心の中で何度も響き続けるんだ。歩いていても、自転車に乗っていても、耳の奥で何度も再生されている。自分が今までやってきたことは、全部ムダだったのかな、って思えてきたのよ。
急いで家に帰り、思わず流しにあった包丁を手に取ったんだ。そしてその包丁の刃先を左手首に押し当て、手前に引いた。包丁、全然研いでなかったからね、ほら、手に輪ゴムを巻いておくと白い後が残るじゃない? あんな感じに手首に白い筋が残ったんだわ。血も何も出ない代わりにね。じっと見ているとその線はゆっくりと消えていった。それを見ているとね、なんと言うのかな、ものすごく泣き叫びたくなったんだわ。ひざを抱えるようにして、そのままカーペットに横になったよ。泣き叫ぶなんて、どれくらいぶりだろうね。しばらく泣き続けていた。
こんな日に限って、人と会う約束があったんだ。少し落ち着いた後は椅子に座り、ボーっとしていた。涙も乾いた頃、待ち合わせ場所である早稲田駅に向かう。最悪の状態でも、人と話すのっていいもんだね、自分の実存的な寂しさが、人と話している間は忘れてしまえたよ。
最近、けっこうバイトやなんかを多く入れている。暇な状態でいるのが怖いんだ。忙しくしている間は、自分のことを考えないですむ。それに、何かやっていると少なくとも世の中の役に立っているような気がしてくる。
今日ツタヤに行ってきて、さだまさしのCDを借りてきた。さだまさしって、けっこういい歌を歌ってるんだよ。思わず何度も聞いてしまったのは「普通の人々」という歌。多分、知らないだろうけどね。
「退屈と言える程 幸せじゃないけれど
不幸だと嘆く程 暇もない毎日」
この歌詞、非常に刺さってくるんだわ。暇がありすぎると、自分の孤独や不幸さと向き合ってしまう。多くの人、つまり「普通の人々」は忙しさを武器にこれらと向き合わないようにしているんじゃないか、と思う。でも、さだはこの歌の中で、こういう「普通の人々」の行動では本質的な解決にはならないことを伝えようとしているんだ。
いま、「孤独死」が増えているって、知っている? マンションとかで一人で誰にも看取られずに死ぬこと。お年寄りだけが対象だと思っていたけど、そうじゃないみたいだね。ものの本によると、孤独死しているのは45から60くらいの男性が多いみたい。奥さんに離婚された後、生きている気力がなくなり、そんなタイミングで病いにかかってしまう。それくらい、「孤独」ってこわいことみたいだね。
だから仕事で寂しさを紛らわしていることって、なにかの機会で孤独死してしまう可能性があるよね。
先日、大学1年生のときの友人と会ったよ。俺の酒の量が増えているといっていた。「昔はビールでも赤くなっていたのに、ウイスキーのロックを普通に飲んでいる」とね。そういえば寂しさに任せて、家でけっこう飲むようになっていたな。なんとかしないと、自分も孤独死することになりそうなんだ。アル中で死ぬ人もいるしね。
さだの「普通の人々」は、次の歌詞で締めくくられてるんだ。
「何も気にする事なんかない なのに何か不安で
No Message
寂しいと言える程 幸せじゃないけれど
不幸だと嘆くほど 孤独でもない
生きる為の方法は 駅の数程あるんだから
生きる為の方法は 人の数だけあるんだから」
さだの音楽を聴いていて、自分の「生きる為の方法」を探すしかない、と思うんだよね。なかなか、難しいことだけれど。
ちょっと前の話だけど、イベントのビラをもらった際、「閉塞感のある世の中で、自由に生きる」というフレーズが載っていた。俺の実感と非常にあっているような気がした。
中世や前期近代と違い、僕らが生きている近代成熟期、いわゆるポストモダンの時代は「こうすれば生きていける」「こうやれば幸せになれる」という図式が完全になくなっている。何をやってもいい、だけれどもそれで自分が幸せかは別問題。それでいて、まだ社会には前期近代の考え方が残っていて、「そんな生き方、許されると思っているのか」といわれることもかなり多い。「閉塞感のある世の中で、自由に生きる」ことが、まだまだ難しい。でも、将来的にはそういう生き方をするほうが幸せになれる気がする。
元の話に戻るけれど、どうせ人間は分かり合えない。それは否定しようのない事実だと思うんだ。けれど、そこで諦めるんじゃなくて、それを乗り越える方法が必要なんだろうね。その方法、俺にはあんまりよくわからないけど。
いまカーテンを空け、空を見上げてる。隣のアパートの上方には相変わらずの、青い空。秋の澄んだ空に小さな雲が浮かんでいるのを見ると、どことなく壮大な思いがしてくる。
人間なんて小さな存在だ。話して分かり合えるとか、分かり合えないとか、どうでもいいことのように思えてきた。別に分かり合えなくても、人間どうし、共生することは可能なのではないかと思った。
こんな駄文を最後まで読んでくれて嬉しいよ。ありがとう。特に伝えたいメッセージがあったわけでもないのに、ごめんね。
加山
平成14年11月2日
手紙の全文をノートパソコンで打ち込むのは面倒であったが、ようやく終わった。加山さんは几帳面な小さな文字で、便箋を埋めていた。私には趣旨の理解できないところもあったが(私はさだをほとんど聴かない)、なぜかしら打っているうちに涙が出てきた。
加山さんという人は、なぜこんな手紙を書いたのだろうか。封筒に宛名を書かなかったところを見ると、本当は誰かに出すためではなく、自分自身のために書いたのではないだろうか。
書くことは、しばしば人を救済する。自分自身が自分自身の状況を踏まえた文章を書くことで、問題が解決することがある。ゲーテは自殺しそうなくらい、恋愛で思い悩んだ。小説の主人公に自殺させることで、ゲーテ自身は生き残ることができたのだ。きっと加山さんは自分だけのために、自分が自分のことを整理するためだけにこの手紙を書いたのだ。
レヴィナスは<時間とは、自分が他者になるプロセス>だといった。過去の自分はいまの自分とは違う。時間が経てば経つほど、自分は他人に近づいていく。物を書くという行為は、未来の自分という「他者」に宛てて書く手紙である。
映画『ライムライト』において、チャップリンは語る。「時間は最高の芸術家だ。いつも完璧な結論を書く」。小学生のとき観た時はわからなかった言葉だが、いまならば意味がよく理解できる。
早まった行動をするくらいなら(加山さんは手首を切ろうとしている)、「解決は将来に任せた」と判断留保をするという行動が必要なのではないだろうか。
大家さんに、自分の前にアパートの201号室を使っていた人のことを尋ねてみた。必ず月末に家賃を納めていて、家にいることが多かった人のようだ。なにやら人間関係で苦しんでいたらしい加山さんは、ずいぶんと真面目な人であったのだ。余談だが、この部屋に入りたての頃、日本経済新聞の集金の人がやってきて危うくお金を払わされそうになったことを思い出す。
自分に手に入る加山さんの情報はこれが全部だ。アパートの隣の人も、自分が201に入ってから2度代わった。もう誰もアパートのあたりで加山さんを知る人はいない。自分もあと数年後、きっとそうなる。大家さんにも隣の人にも、それほど話をしていない。
誰も自分の存在を知らなくなった後、将来「ここが自分のアパートだ」と指差したとしても、誰がそれを証明できるのであろう。「私」の絶対性は時の経過とともに薄れていく。いまからそれが怖い。
人間関係に否定的な加山さんと私とは、かなり価値観が一致している。けれど一つだけ異なる点がある。私は対話による救済を信じているが、加山さんはその道を否定し、自己自らの力だけでの救済を願っているのである。「他人に頼ったら負けだ」との思いが感じられる。
思うのであるが、加山さんはこの手紙を「君」といっている人に出すべきだったのだ。自己の状況を誰かに伝えた時点で、何らかの解決の糸口が見つかったはずなのだ。それを自分だけで解決しようとしたのが、加山さんの(言いすぎかもしれないが)失敗といえるだろう。
「どうせ誰もわかってくれない」。そうやって、他者を軽視し、他者へ伝えることを諦めた時点で、加山さんは苦しむ運命にあったのだ。
以上が私の推理ではあるが、この手紙の主である加山さんと一度会って話をしてみたいと思っている。会ったからどうなるわけでもないが、ひょっとすると加山さんの救いになるかもしれないと思うのである。
自分が加山さんの状況に陥ったら、どうするであろうか。「君」へ手紙を書き、それを屋根裏に隠すだろうか。書き終えてしまうと、こんな手紙、手元においておくのがつらくなる。茶封筒の色が視野に入るたびに、嫌な記憶が呼び戻される。それに、部屋においておくと誰かが勝手に見てしまうかもしれない。やはり保存するなら屋根裏になってしまう。
それでも自分なら、「君」に可能性を託して手紙を送るだろう。
退屈と言える程 幸せじゃないけれど不幸だと嘆く程 暇もない毎日(・・・)寂しいと言える程 幸せじゃないけれど不幸だと嘆く程 孤独でもない生きる為の方法(やりかた)は 駅の数程あるんだから生きる為の方法(やりかた)は 人の数だけあるんだから
信頼に値する公務員(注 教員のこと)は、教育するという権力を、人々を豊かにする権力と同じように重視する者でなければならない。この権力は濫用されてはならず、できるだけ公正、公平、かつ自制して行使されるべきである。(『教育のない学校』18頁)
学生たちは、自分が学校へいくのは学ぶためであるか、それとも協同しておのれ自身の愚鈍化につとめるためか、を問うている。消費のために苦労がふえ、消費が約束する心の安らぎはますます減っている。(86頁)
フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’といいます。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなすのです。
やる気のない人を放っておこう。
やる気のない部下を許そう。
これが本書の“本質”です。
喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
乾きこそ、モチベーションの源泉です。
他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
生きていれば、必ず渇くときがあります。
他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(6~7頁)
この類の学生(無責任で、他人の迷惑を考えない学生)や、教室の後ろに固まってお喋りする連中は高田馬場駅界隈で酒を飲み、気勢を上げ、スクラム組んで「都の西北」を歌って満足する。私も酒が好きなので誘われれば同行するが、「スクラム組んで都の西北」には、どうしても参加できない。
とは言え、母校の校歌が嫌いなのではない。全国の校歌の中で最も素晴らしいと信じているし、運転中やアパートでは一人口ずさむほど好きである。だのに、彼らと一緒には歌えないのだ。彼らはやるべきこともしないで、「都の西北」さえ歌えば全て免罪されると考えていると思われてならなかった。私の好きな校歌を免罪符扱いすることには、どうしても我慢ならなかった。(178頁)
『間違いだらけの教育論』において諏訪哲二は、映画『奇跡の人』に描かれたヘレン・ケラーとサリヴァン女史の関係を元に教育論を語る。「野生」的本能丸出しであった少女ヘレンに、サリヴァンはスプーンとナプキンを使うことを強制させる。ヘレンにとってそういったものは「不合理な文化(外部)」であった。
それでもサリヴァン先生は執拗にちからずくでその方式をヘレンに押し付ける。固体の外部に構築される文化(作法)は、個体にとって合理的ですらないのだ。その不合理な文化(外部)を受け入れさせられることによって、ひと(個体)はひと(個人)になるのであろうか。ここが「啓蒙」としての教育の出発点である。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、10頁)
これにより「ヘレンは生まれてはじめて外部を積極的に認めざるをえなくなった」(同11頁)。ここから「奇跡」が始まり、ヘレンの人間的成長が始まっていく。
この後、諏訪は「『啓蒙』の教育は上下関係のないところで成立するはずがないのだ」(同17頁)と述べる。教師-生徒という上下関係があるからこそ、子どもが近代的理性をもった近代人に「啓蒙」されるのだ、と説明している。
日本の子ども・若者たちのある特徴的な人たちは、物理的に「見えて」「聞こえて」「しゃべれる」にもかかわらず、ヘレン・ケラーのように外部や文化やルールを受容する手立てを精神的に奪われている。外部に一度屈服していないから、全能感的な「この私」的な自己感覚の支配下にあり、外に表示し生活する「私」(近代的個人)になっていない。彼らを取り巻く環境に「啓蒙」としての教育が強力に働いていないとも言える。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、25頁)
ここまでが『間違いだらけの教育論』の「序論」に書かれている。近代的理性をもった近代的個人を生み出すのが学校の役割であるとして、諏訪は論を展開していく。
「おわりに」において諏訪は言う。
識者の多くが教育論において躓くのは、子どもが自ら学ぶ主体としてそこに「いる」ことから議論を始めてしまうからです。ひとは学ぶべきもの、子どもは本来的に学ぶことを望むものと固く信じているからなのでしょう。(…)学ぶ者となるためにはまず「啓蒙」としての教育の局面が理屈ぬきに必要です。そこから子ども(ひと)は「文化」としての教育、そして、「真理」としての教育に進んでいけるのだと思います。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、229頁)
この「啓蒙」としての教育が、ヘレンがサリヴァンから受けた「外部」の存在に自覚し、「学ぶ」という意欲を持ち始めることなのである。諏訪のいう「啓蒙」としての教育も、ある意味でナショナルミニマムとしての義務教育に入るであろう。
ただ、フリースクールを専門に研究している学徒として、筆者は諏訪の語りに疑問を持っている。この「啓蒙」を行う場所としてフリースクールを想定してもよいはずだが、諏訪は学校で教師が行うことに固執している点である。
さらに気になるのは、本書の帯が観である。「小林よしのり氏推薦」として「彼らこそ、日本を貶めた5人の教育家だ!」とし、齋藤孝・陰山英男・義家弘介・寺脇研・渡邉美樹の5氏を名指ししている。本文を見ても、作者の諏訪は5人に「日本を貶めた」と言及する点はどこにもない。それに、本書は識者の教育論がいかにデタラメであるかを説いた本なので、「貶めた」はイイスギである(受験現代文の参考書では、よくこういう書き方をする)。また、本文ではこの5人に内田樹をプラスした6人を批判しているため、「貶めた」発言のためにはあと一人多く書かなければならないだろう。
このような決め方をするのは、学びとは何をどのくらい、どのように学びたいかを、自分で決めるものであって他人が押しつけるものとは考えていない、という学習感があるからだ。また、やりたい、学びたいというものに取り組むのは、学習がすすみやすいが、やりたくないもの、なぜやるかわからないものをやらされるのは意味がなく、マイナスを生むということもある。うんざりしたり、学習ぎらいになるくらいならやめた方がよい。興味、関心を大切にすることを軸にしていくことをシューレでは原則にしている。(153~155頁)
探究心が育つとか、行動的な子になるから自由は大切だというような、教育的見地で、自由にさせているということではない。目の前にある時間を、必ず目的をもって行動しなければならないのはおかしいし、息苦しい。安心してなんとなく過ごせる場、たわいなく暇つぶしのできる場でありたい。(・・・)何でもやれる自由、何もしない自由。シューレのなかで、時間の流れは人さまざまだ。(172頁)
(フリースクールなどで)人と会話をしているだけで学びがあります。人と話していくなかで自分自身も見つめられるようになり、いまの私があるのもすべては会話から生まれたもので、人にとって聞く、話すということはとても大切で、たとえそれがテレビや音楽のことでも決して無駄な時間ではないことがよくわかりました。これからもたくさんの人と話し、自分を広げていきたいと考えています。(211~212頁)
やりたいことを見つけるには時間がかかる。しかし、自分の好きなことをやっていこうと思ったときが出発点である。何歳になっても、学校に行くことも、働くことも、ボランティアも始められる。ただ、不登校である自分を肯定していないと、いつまども苦しいプレッシャーにとらわれてしまう。それには、やはり親やまわりの理解であり、ゆっくりと過ごす時間がとても必要なのだと感じる。(233頁)
私はフリースクールでボランティアを週一の頻度で行っている者です。貴団体の教育の政策提言なのですが、すべて「学校」での教育のみに片寄っているように感じられてなりません。 日本の教育をよくするならば、学校を変えるだけでよくなることはないはずです。学校が合わないと訴える不登校の子どものための教育政策が必要だと思います。その教育政策は〈再び学校に行けるよう、学校を魅力的にする〉だけでは意味がありません。学校という存在それ自体が合わないと考える子どもは、現に存在しているからです。学校とは違う教育機関をも対象に入れた教育政策の提言が必要であると考えます。 いま、フリースクールに通う子ども達には、通学定期券以外、ほとんど行政からの支援をうけることができません。やろうと思えば、政策提言にあった奨学金制度の拡充をフリースクールに通う子どもも対象に入れることが可能だと思います。そのような「フリースクール等の学校外教育機関に通う子ども達」の利益も考えた教育政策こそが、いまの時代に必要であると考える次第です。 昨日、フリースクールに通う子ども達が中心になって「不登校の子どもの権利宣言」が発表・採択されました(「2009不登校を考える全国合宿」)。その中に、「不登校をしている私たちの生き方の権利」というものがあります。「おとなは、不登校をしている私たちの生き方を認めてほしい。私たちと向き合うことから不登校を理解してほしい。それなしに、私たちの幸せはうまれない」と書かれています。不登校の子ども達へのまなざしを忘れない教育政策が必要であると考える次第であります。