もともと教育は学校以外の場所で実際に多様におこなわれていたんじゃないか。その場合の教育は、いわゆる文化の伝達であったり、知識の伝達であったり、父親、母親の生活や知恵の伝達とかさまざまな形があったとおもうんです。そこへ教育という文字どおり諸個人の潜在的な能力をひきだす機能と、教化(教え込む)という機能と、社会的に人間を選択、選抜していく機能と、もう一つは子どもの世話をするという、四つの機能、この機能は近代的な組みたてをこうむった機能なのですが、それを学校が集中化して、中央集権的な学校の制度をつくり出していったといえるわけです。(7頁 山本の発言)
どうでもいいが、この本の編集者は句点(、)だけでなくナカグロ(・)も活用したほうがよいと思う。読みづらくて仕方ない。詳しくは『日本語の作文技術』(本多勝一)を参照。
続いて、吉本の発言。
人間が獲得している現在のもっとも高い水準まで知識を獲得していかせようという衝動、学校というものの衝動の在り方として、詰め込んでいったと仮定すれば、イリイチがストップをかけている標識があると、山本さんの本を読んでぼくは理解したんです。知識を詰め込む教育自体がやっていることが、どんどん詰め込んでいったら、その生徒の五〇%以上がそれにくっついていけなくなったときには、それはやめなければいけないといっていると受けとったんです。そこらのところが感心したところなんですね。(64頁 吉本の発言)
ベネッセの第4回学習基本調査・速報(実施2006年)によれば、高校生の「数学」内容を「ほとんどわかっている」「70%くらいわかっている」と答える生徒は3割程度。細かく言えば、1990年の第1回調査から一貫して30%台である(微増はしているが)。詳細はhttp://benesse.jp/berd/center/open/report/gakukihon4/sokuho/soku_2_01.htmlを参照。
もっとも、この調査では「そもそも、各教科が『わかる』とはどのレベルの話か」は見えてこない。数学でいえば数研出版の青チャート(『基礎からの数学』)の例題が解けるレベルなのか、それとも公式を暗記する程度のレベルなのか。「そもそも論」になるが、ベネッセの調査も吉本隆明の発言も、「各教科が『わかる』とはどういうことか」との確認が必要になるであろう。
再び、吉本。
ぼくはたいへん感動して(注 山本の本を)読んだんですが、明日の社会のため、国家のために子どもをどうするのかとか、どうしたら子どもはよくなるのかといったことを主張する教師、教育者などはいなくなったほうがいいんだ。そういう連中がなくなることがきわめて重要なんだといわれていますね。そこでいわれている山本さんの主張は、おしつめていきますと、学校というのは消滅すべきものだ、あるいは、教育ということ自体が消滅すべきものだということが含まれているようにおもえたんです。(76頁 吉本の発言)
「明日の社会」や「国家」のために、教育をいじろうとする。その取り組みは、子ども個人への身勝手な要望といえるのではないか。
最後に山本。
たとえばイリイチによる学校化批判の攻撃をうけたあと、学校を制度的に変えようという三つの流れがあるといわれます。一つは、学校化をそのままにして再編・改革しようというリスクーリング(reschooling)、第二は、以前からあるフリースクーリング(free-schooling)。学校化の枠の外で、子どもを自由に育くむ場をつくってあげようという自由学校などです。そして第三は、学校をなくそうとしうディスクーリング(deschooling)です。(185頁 山本の発言)
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