私は学校に気持ち悪さを感じているが、周りに聞いてみると「学校を楽しいと思っている人もいる」事実に気づいた。この人たちは学校の「気持ち悪さ」「不愉快さ」を貨幣として扱っているのではないだろうか。
「学校が楽しい」という人も、どこかで学校的あり方に気持ちの悪さを感じているはずだ。けれど、「友人と遊ぶためには、しかたない」と考えているのではないか。学校のもつ楽しさを享受するためには、「気持ちの悪さ」の代償も味わわないといけない。
私はよくラーメン屋に行く。人気店は何十分と並んで待たないといけない。外は暑いし、腹も減る。でも、その「不愉快さ」を支払うことで、ラーメンの味を楽しめるのだ。「学校が楽しい」という人も、このラーメン屋と同じではないだろうか。
吉本隆明は山本哲士との対談『教育 学校 思想』(日本エディタースクール出版部)において、次のように語っている。
小学校でも、学校は何が面白かったかといえば、そのなかでクラスメイトと遊ぶ遊び時間が面白かった。友達と遊ぶとか、いたずらするとかいうこと。授業時間はいつだって、きつい、かた苦しい、重苦しいという感じがあって、授業時間以外の休み時間とか、昼休みとか、放課後とかいうことで、友達と遊ぶ。学校で遊び切れないときは、それを家へもって帰って、近所までもち越して遊ぶ、それがぼくの学校のイメージなんです。(5頁)社会学者の上野千鶴子は、〈学校化社会は,誰も幸せにしない制度といえます〉(『サヨナラ、学校化社会』)と語る。学校が「楽しい」といっている人間も、結局は何らかの形で「気持ち悪さ」を感じているのではないか。それでは、学校は一体何のために存在していると言えるのであろうか?
イリッチが数ある文献で訴えていたのは、文明が「制度」に頼ったものになっていく危険性であった。この「制度」は「専門家依存」ということでもある。「学校」も一つの制度であると相対化していく視点が必要であろう。
1980年代に、数学者・森毅はこんなエッセイを書いていた。それは塾が自らの独自性を訴え、塾が学校と子どもを奪いあうようになる社会が必要だ、という内容のものである。のちに「不登校新聞」のインタビューに出ることになる森は、当時フリースクールの存在を知らなかったからこそ「塾」と書いていたのであろう。ここでいう「塾」を「フリースクール」として見るならば、時代が段々と森の訴えに近づいているように思える。
教育という存在が、「学校」という制度に押し込まれたあり方を、変えていく必要があると思える。
2 件のコメント:
学校の抱える「気持ち悪さ」が社会的必要ゆえに維持されるべきなのか、それとも、自己都合の悪さゆえに排除・改善されるべきなのか。
両者のバランスという点で、難しい議論になるのは間違いないかもしれないけれど、少なくとも学校の「気持ち悪さ」をこのまま議論せずに放置する、いわゆる現状容認に走るのは、将来的に個人単位でも社会単位でも良い影響はないと思う。
情報化社会で価値観が多様している中で、昔よりもより現在の価値観が画一的な学校に「気持ち悪さ」を感じる子どもはもっと多くなるのではなかろうか。そんな中でフリースクール等の新しいタイプの学校は注目に値すると思う。
しかし、フリースクールが、資金助成を受けない、公教育の質のばらつきを生じさせるというデメリットもある。資金助成を受けたとしても、どう私立学校との兼ね合いを説明するのか、少子化の中で、かえってフリースクールを乱立させることになりはしないかという問題もある。
出口の見えないテーマですね。
3教の帽子メガネっ子より。
コメントありがとうございます。
フリースクールと公教育というテーマは難しいものなんですよね。
もう少し、思索してみます。
コメントを投稿