2008年6月29日日曜日

仮眠をとること

仮眠をとるとカミングアウトする。

2008年6月28日土曜日

シンドラーのリスト

映画『シンドラーのリスト』。描いていたユダヤ人はみな金持ちである。これは間違いを与える。

2008年6月27日金曜日

漫画の学校

漫画には作者が受けた学校教育のレベル・時代の学校が出てくる。

給食がセンターでつくられかけても、漫画では給食室で作られる。

ソリコミが流行らなくなっても、漫画では主人公がやっていたりする。

ズレは10年くらいか?

2008年6月26日木曜日

研究テーマ

日本の国家試験や検定試験の制度を調べる。

2008年6月25日水曜日

対談集『21世紀への対話』より、教育関連の項目の整理。

対談集『21世紀への対話』より、教育関連の項目の整理。

(上)128項 第三章 知的生物としての人間
1 学問・教育のあり方

(1)教育のめざすもの
・「学問・教育の本質は、実利的な動機に基づくものではなく、宇宙の背後に存在する‘精神的実在’との霊的な交わりを求めること」トインビー
・学問や教育、ある意味宗教的なものにまで迫る。人間としていかにあるべきか、人生をどのようにいきるべきか。
・しかし、実利のみを動機とし、目的とするのは、教育のあるべき姿ではない。現代の技術文明の社会では教育が「実理性の侍女」に成り下がっている。「欲望追求の具」に。
・「教育は、人生の意味や目的を理解させ、正しい生き方を見いださせるための探求でなければならないのです」トインビー

・「知的職業の訓練を受けたすべてのものが‘ヒポクラテスの宣誓’を行うべきです。」「自分の専門的な知識や技能を、人間同胞の搾取に向けることなく、彼らへの奉仕に用いる旨を誓うべきでしょう。」「最大限の利益ではなく、最大限のサービスこそ、知的職業人が目的とし、身を尽くしていくべきものです。」
・現代の教育は、実利主義に陥っている(「宗教的なもの」だから、実利主義は否定すべき、と解すべきか?)
→二つの弊害。
①「学問が政治や経済の道具と化して、その本来もつべき主体性、したがって尊厳性を失ってしまったこと。」
②「実利的な知識や技術にのみ価値が認められるために、そうした学問をする人びとが知識や技術の奴隷に成り下がってしまっていること」→人間の尊厳性の失墜が起こる。
まとめ…「知識や技術に人間が奉仕し、政治や経済に操られるようになった学問・教育を、本来の、人間としての基本的なあり方や人間存在の根本を明らかにする学問、また、それを伝えていく教育へと転換することが、どうしても必要だと思います」

(2)生涯教育について
・「知識が常に増大し、しかもその解釈がたえず変化している今日の世界では、フルタイム(全日制)の青少年教育だけでは十分であはありません。引き続いて、生涯にわたるパートタイム的な自己教育をしていく必要があります。
・学校教育にも、社会との接点を作って人生の経験を踏ませる方法を考えるとか、課外活動や共同生活の経験を持たせられるよう、なるべく多くの機会を設けるべき。
→「現在求められている教育のあり方として、私は、この全体人間を志向した人間教育の必要性を強調したいと思います」
・「成人期に教育を続けることの利点の一つは、成人者は自分の個人的な経験を、学問的に、―つまり間接的に―学ぶ事項に関連付けることができるということです」トインビー
・パブリック・スクールの事例。「年長の生徒たちに実際に権力を行使させ、責任感を養う機会を与えています。」「生徒会長は常に、‘権力は人格の試金石である’というギリシャの格言で戒められていました」トインビー
まとめ…「人間の能力は多種多様であり、これら多種多様な能力はすべて社会的に価値があるものです。各個人がもつ独自の能力というものは、すべて発掘し、育成すべきです。それを可能にするには、学生たちに、実際に経験を積み、それを生かす機会を与えてやらなければなりません。また、理論と実践とが互いに補足し合い刺激しあうような、一体化した教育を、生涯続けることが必要です。(ドイツのディアルシステムは、これに近い。また牧口の『創価教育学体系』の「半日学校制度」も近いといえる)」トインビー


(3)教育の資金源について
・「私は、あらゆる国のあらゆる機関が、撤回不能の土地の寄贈を受けて、学生の学費を安く、教職者の給料を高く維持できるようになってほしいと思います。これによって初めて、国家や大企業によるコントロールからの自由が保障されることでしょう。」トインビー

(4)男女共学の得失
・男女教学
メリット
デメリット「性の紊乱」「妊娠の問題があり、生命の尊厳という問題が関わってきます」
・男女別学
メリット
デメリット「同性愛などの性的な問題」
→「二つの制度の長所と短所のバランスをとることは、きわめてむずかしいこと」
まとめ…「私は、学校なり、公共の機関が個人に教えるべきことは、個人の自由な判断を尊重できるような、それぞれの人格を磨くことであり、正しい判断のための素材を与えることだと考えます。個人の判断の結果が誤っていたとすれば、それは学校がその任務を十分に果たしていない証拠であって、個人の自由に干渉することは、自らの無能と怠慢をあらわにすることにほからならないでしょう。理想主義的にすぎるかもしれませんが、私は、学校教育とは、そうあるべきだと考えています。」

(5)教育者と研究者 →むしろ、対談集『学は光』に詳しい?
・「大学教育の役割は、学生に自己教育のやり方を教えるところにあります。私は、これを効果的に教えようとするなら、まず教授陣自らが自己教育を続けていかなければならないと考えます。そして、教職者にとっての自己教育とは、研究活動にほかならないのです」
・「最も想像性豊かな研究者というのは、常に研究を何か他の活動と結びつけてきた人々でした。」
・研究者が、人間の実際生活にふれることによってこそ、生き生きとした力を得て、自分の専門分野の研究を、より豊かに進めていくことができる。
・まとめ…「専門研究というものが、人間の実生活における感情や行動から遊離することによって、研究成果がきわめて危険なものになりうるという傾向を、是正する手がかりにもなろうかと思います。」「非常に専門化された分野の研究者も、自分の研究課題やその結果を学生や一般市民に理解できるように伝達し、あるいは教育しうるようでなければなりません(私は、ドキュメンタリー映画で、教育学の理論を伝えたい)。それによって初めて、自己の研究を人間的な眼で見つめ直すことができ、研究への新しい視点を見いだすことができるでしょう。それがまた、危険への暴走を食い止めるブレーキにもなり、その軌道を正しく修正することにもなると思うのです。」

2008年6月24日火曜日

ロータリー

高田馬場ではロータリーの存在が若者のたむろを駅からおいだせていた。

国分寺はロータリーがないので、駅に溜まるのである。さすればロータリーはただバスのためにあるのみならず、駅を自在に各人が活用する空間を生み出すためのスペースと言えるのではないか。

2008年6月21日土曜日

インド

新宿駅の回りをうろつけば、インドに行かずとも「人間」というものがわかる。特に人間の醜さが。

便所の落書き

便所の落書きによく、「××、あいつは最低な人間だ」とある。公共の施設に落書きする方が最低な人間だと思う。

2008年6月15日日曜日

エセー1より、教育への至言

お子さんの勉学への意欲と愛情とをそそること、これがなによりも肝心なのです。さもないと、たくさん書物を背負わせたロバが出来上がるだけです。


わたしは、人間の学問のうちで、もっとも困難かつ重用なのは、子供をいかに養育し教育するのかを扱う分野であるらしいということぐらいしか、わかってはいないのであります。

われわれが勉学することのメリットとは、それによって、よりよい人間に、より賢い人間になることなのです。

わたしは、世界が、わが生徒さんの教科書となってほしいのであります。

2008年6月14日土曜日

佐藤優『国家論』

佐藤優の『国家論』を読んだ。レジのカウンター待ちだったので「結語」だけ。

"首相になるとかというのはまだまだ小さい目標だ。世界から暴力を無くすというような究極的な目標をもつべきだ。そうすれば大きな視点から現実の問題を楽に解ける。究極的な目標を皆がエゴとなるレベルまで持てば、世界の問題は解決できる。そのためには一人ひとりを尊重しゆく姿勢が重要だ"

私も人がバカにするようなほど、大きな目標をもとうと考えた。究極的な目標を

買ってゆっくりと読みたい、と思った。

コルとグルントウィ

デンマークの教育者・グルントウィ。その後継者、コル。

ホルケホイスコーレという国民高等学校を作った師弟である。「民衆を賢明に」との思いが込められていた。

グルントウィの思想への共鳴者は多かった。しかしそのまま実践に移したのは30も歳の離れたコルだけであった。

誠の教育実践者は数少ない。しかし私はコルの如くありたい。学術界で世界平和を目指すものとして。

2008年6月12日木曜日

きばつなかっこう

子ども用の辞書・三省堂学習国語百科事典。

奇抜、の説明に次の写真。いやっ、これ写真にしなくていいから!

2008年6月11日水曜日

人を大切にする

日本は人口減社会に突入。喜ばしきこと。
何故なら、その分、一人の人を大事に出来るようになるから。

10年前自閉症の人はめったにスーパーで雇われなかった。人手不足のいま、黙々と同じ作業を継続してくれる自閉症の人が注目されている。

かつては人よりも「仕事」が重要であった。

人口減は、プラスの働きもするのである。

2008年6月10日火曜日

碩学の印象

2週間前の日曜、東京シューレ葛飾中学校へいった。1年間の活動報告会だ。

教育学の大家・大田尭先生も来ていた。

90になってもかくしゃくとして、教育のあるべき姿を語る。吾人も、かく老いたし、と感じた。

2008年6月6日金曜日

11年目のサカキバラ

1997年も、神戸が揺れた

 「サカキバラ」事件を、覚えておられるだろうか。漢字で書けば酒鬼薔薇。1997(平成9)年に日本中を震撼させた事件だ。「酒鬼薔薇事件」は通称で、正式名称は神戸連続児童殺傷事件という。1997527日、市内の中学校正門前で小学校6年生児童の頭部が発見される。口には2枚の犯行声明文。1枚の紙には、「酒鬼薔薇聖斗」(さかきばらせいと、という名前があり、もう1枚には次の内容が書かれていた。

「さあ、ゲームの始まりです/警察諸君、私を止めてみたまえ/人の死が見たくてしょうがない/私は殺しが愉快でたまらない/積年の大怨に流血の裁きを/SHOOLL KILL/学校殺死の酒鬼薔薇」

注…shoollschoolの書きまちがえだと言われる。またこの声明文は、さまざまな書籍などの引用から構成されている。

 この事件の3ヶ月前の2月10日と316日。神戸市内ではハンマーによる通り魔事件が起きていた。当初、20代から30代の男性が犯人像であったが、被疑者として捕まったのは14歳の少年。いわゆる、「少年A」とされる人物だ。冒頭の殺害事件と、同一人物による犯行であった。

事件当時、昭和632月生まれの私は小学校4年生であった。郷里は兵庫である。といっても、神戸まで2時間は車でかかる片田舎だ。四方は山に囲まれている。家に鍵をかけずとも、盗みを働く者がいないほど、のどかなところだ。事件が起きることもほとんどない。

それでも、この酒鬼薔薇事件のあと、犯人がつかまるまで、「登下校の際、不審者に十分気をつけること」と注意されていた。防犯ブザーも支給され、集団登校に加え、集団下校が義務づけられた。「まっすぐ家に帰りなさい」としつこく注意を受けた。酒鬼薔薇事件は私にとっても、身近な問題であったのだ。

子どもを見ない教育思想家たち

 この事件から、11星霜。少年Aは成人し、社会にも復帰した。このあいだに、「17歳の犯罪」を始めとする少年犯罪が、週刊誌・ワイドショーを賑わした。少年法の改正も、この11年間の出来事だ。

酒鬼薔薇事件は、教育行政のあり方を再考させるきっかけともなったようだ。どこか心に影を持った存在として、子どもが認識されるようになった。思想界も同様に、子どもへのまなざしが変化した。この酒鬼薔薇事件は重要なインパクトを今なお持っているのである。

教育学者・佐藤学の著書に、『身体のダイアローグ』(2002年、太郎次郎社)という対談集がある。佐藤氏のおこなってきた、さまざまなフィールドの知識人との対談を納めてある本で、何度も対談のテーマになっているのは、本稿で示した酒鬼薔薇事件だ。1997年の事件発生直後の対談も、入っていた。以下は、19971121日の『週刊 読書人』掲載分の写真家の藤原新也との対談だ。

佐藤:中学生、高校生の多くは、この事件を他人事と考えていません。とくに「透明な存在」(藤本注 酒鬼薔薇が自身の説明の中で使った言葉)というのは人ごとではない。一触即発すれば、自分たちの中でも起こりうる事件としてとらえている。教師たちは、その部分をある程度感じ取ってはいるんだけれど、どう受け止めていいかとまどっている。(34項)

この部分を良く見てほしい。「中学生、高校生の多くは、この事件を他人事と考えていません」とある。どの中学生・高校生も、少年Aのような行動に走る可能性があるということを、中高生たちが自覚している、というのである。このような論調は、「まじめそうな子がキレると、何をするかわからない」などと、ほかの多くの少年犯罪報道でもいわれている。

ところで、酒鬼薔薇事件があった当時、いまの大学生は小中学生だった。酒鬼薔薇のすぐ下の年代だ。つまり、当時の知識人にとって、我々の世代は「誰もが酒鬼薔薇になりうる存在」、と見られていたのである。

けれど、本当に自分たちは当時、「酒鬼薔薇は他人事でない」と考えたであろうか? 私には、そんな記憶がない。周りの友人に聞いてみても、いなかった。私は、「酒鬼薔薇事件は酒鬼薔薇本人、つまり『少年A』という一人の異常者が犯行を行っていた」ものと考えていた。自分が酒鬼薔薇と同じ要素を持つとは、考えたこともない。しかし、佐藤学や彼の対談者は、“今の子どもたち皆に、少年Aの要素がそなわっている”と考えているようだった。

 この佐藤学と同様の主張をした人物は、多くいた。1997年のニュース番組内で、佐藤学同様か、それ以上の主張をした者もいるのである。いわゆる知識人の、ラジカルさを思う。たった一人の例から、多くの人々に敷衍させる。少年Aという「異常者」の犯行を見て、「子どもは皆、少年Aになりうる」と考えてしまう。

 実際、酒鬼薔薇事件を見て、当時の知識人たちは気味の悪さを感じたのだろう。「いまの子どもは変だ」、と。しかし、早急すぎる発想ではないか。私という、酒鬼薔薇事件を「『自分たちの中で』『起こり』えない事件だ」と考えた子どもがいたのだから。

異常者の行動が、世に広まる時代

なぜ、思想家をはじめとする知識人は、ラジカルに子どもを見てしまうのか。私は、マスメディアの発達(特にテレビジョン)が理由であると考える。

私の認識の中では、異常者は常に社会にいた。けれどかつてはマスメディアの発達が無く、その異常者のおこした犯行が世のなかに知れ渡らなかった。日本国内の一地方の事件が、日本津々浦々まで浸透することは、マスメディアの発達するまでなかったはずである(赤穂浪士レベルならあるかもしれない)。近年のマスメディアの発達により、1人の異常者の行動が、日本中に知れ渡るようになった。そのため、通常ならば「少年Aが異常だった」となっていたものを、「今の子どもたちは、どこか心に闇をもっている」と大人たちが考えるようになったのではないか、と思うのである。

日本において、もっとも少年犯罪が多く、凶悪であった時代はいつかご存知だろうか。1997年? 違う。現在? ノン。正解は終戦直後。少年による万引きはもちろん、放火・強盗・殺人などが、現在の基準よりはるかに多かった。それだけを見ても、少年犯罪が凶悪化しているとはいえないはずである。「生きるために必死だった」といえばそれまでだが、「最近、少年犯罪は凶悪化している」「少年犯罪の数が増えている」というとき、人々は終戦直後のことを考えていない。凶悪な一部の少年犯罪を何度も報道することで、いまの子どもたち皆が凶悪に見えてしまうのである。

ともあれ、知識人による「最近の子どもたちは、酒鬼薔薇を人ごとだと思っていない」というラジカルな認識は、マスメディアの発達が支えているのである。

 

ひとりを見て、勝手に全体を判断してはいないか?

たった1人を見て、全体を判断する。酒鬼薔薇事件において、知識人たちが使った発想である。「酒鬼薔薇と同じ要素を、いまの子どもは皆が持っている」、と。一度考えてしまうと、もうこの発想から離れられなくなる。子どもを薄気味悪く感じるようになる。発想の「例外」にあたる人物が多いときも、「例外」が見えなくなってしまう。一人ひとりと会って、話さなければ分からないことが現実には多いにもかかわらず、一度決め付けてしまうと、すべてがそう見えてくる。「実際に子どもたちと話して、確認してみよう」とは思わなくなる。

 私は別に当時、少年Aに心引かれることも、あこがれることも無かった。心に闇を持っていた記憶がない。というより、あれだけ1997年は酒鬼薔薇事件がとりただされたにもかかわらず、少年Aと同じ世代が普通に成人を迎えている昨今に、「いまの20代の若者は、心に闇をもっている」という言説を聞くことが無い。

 知識人たちは、何かと子どもを悪者や「劣ったもの」と見る傾向があるのではないかと、感じる。少年Aひとりから、今の社会の子どもたちみなを推し量ることはできないはずである。けれど、どうも知識人という人々は直に子どもたちと会って、「酒鬼薔薇って、どう思う?」と聞きに行かないようである。

参考文献:

佐藤学著『身体のダイアローグ』(2002年、太郎次郎社)

『無限回廊』WEBサイトhttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/koube.htm

「羅生門的アプローチ」は、「藪の中」に潜んでいるのか?映画『羅生門』(1950年)

 日本にクロサワあり、と西欧に知らしめた作品、それが映画「羅生門」。映画「羅生門」は、芥川の小説『羅生門』(きっと国語の教科書で習ったことがあるはず)の設定から「羅生門の下で話をする」部分だけ借りてきている。そして男たちが門の下で話す内容が芥川の別の小説『藪の中』のストーリイなのである。なかなか、ややこしい話ではあるが、要はこの映画の原作は芥川の『藪の中』なのだ。

 この作品、日本ではあまりはやらなかったが、海外の映画祭で絶賛(ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞)された。教育界にも影響があり、教授法として「羅生門的アプローチ」と命名されているものがある。この命名、私も教育学部に入ってからの疑問であったが、ようやく晴れた。「人によって見方が違う、やり方が違う」ということを、非常に比喩的にまとめた言葉であったのだ。

 

映画の内容。山奥で、男の死体が見つかる。この殺人事件に関わった人物が、検非違使、今でいう裁判所で、次々証言していく。「私が男を殺した」という人物が二人もいる。ありえないことだが、「殺された男」までも、霊媒師の口を借りて証言するのだからレベルが高い。そしてその証言が、互いに食い違う。丁寧に、その証言に合わせて映像を作っている。事件関係者の性格が、語る人次第で別のものとなる。

原作では「殺された男が真実を語っている」ように読めるのだが、映画はもっと凝っている。「人間は自分自身にさえ、白状しないものだ」、「人は都合のいい嘘を本当と思う。そのほうが楽だからだ」等々、登場人物たちの発言も面白い。案外人間の記憶はあてにならないことが示されていく。

果たして男を殺したのは誰なのか。そしてどういう経緯で犯行がおこなわれたのか。真実が明らかになった後、事件関係者たちの発言を振り返れば、どの人物の発言にも一定の真実があったことに気づける。

検非違使の法廷で関係者の聴取が行われる際、後ろに「目撃者」2人が常にじっと座っている。特に動きもしないが、とにかくじっと座っている。真っ白い庭に2人が常に事件関係者を見つめているという構図が、非常に印象的であった。

 

実はこの映画、最後まで見れなかった。中央図書館のAVルーム使用時間が来てしまい、再生開始80分目でストップがかかった。WEB上のレビューで見る限り、ラスト8分で人間への希望(この映画では人間の醜さが、美しい映像の中で描かれていた)が語られるとのこと。早く観てしまいたい。これほど、58年前の映画に引き込まれるとは、思ってもみなかったからだ。

追記

●ブログで過去の自分の記述を見ると、いささか気恥ずかしくなる。

「よくもまあ、こんな文章を人様の前に晒す気になったものだ」と感心してしまう。

●実際に『羅生門』のラストシーンを確認してみる。「ヒューマニティー溢れる」内容ではあった。けれど、その前段階で終ってしまっても良かったような気がする。

ラストを見逃した映画。ラストを見ない方がよいこともある。

自殺・じさつ・ジサツ 映画『The Bridge』(2005年)より

 郷里・兵庫の八千代町。この隣町に、湖があった。名を翠明湖(すいめいこ)という。陸上部時代、この湖の周辺を走っていた。巨大な橋が、湖を横断している。その上を走るとき、なぜかしら寒気がしていた。立ち止まり、覗き込めば吸い込まれそうになる。この「巨大さ」がもたらす怖さと相まって、この橋からひとが何人も身を投げた、という事実が私に寒気をもたらしたのだろう。小学校時代の先輩も、この橋から飛び降り、命を絶った。どういう事情だったかは未だに知らない。映画『The Bridge』は忘れかけていた、私の中学時代の記憶を呼び戻してくれた。

 アメリカ・カリフォルニア州・サンフランシスコに架かる、ゴールデン・ゲートブリッジ。「太平洋からサンフランシスコ湾に入る通路をなす海峡」(『広辞苑』第5版)、金門海峡の上にある。年間900万人が観光に訪れる。2004年はそのうち、24名が橋から身を投げた。この橋で命を断った人の数は、1250名になる(映画より)。水面まで67メートル。即死。世界最大の自殺の名所、と映画では言っていた(私は東京のJR中央線だと思う)。

 ゴールデン・ゲートブリッジに設置した4台の定点カメラが、橋を写し続けた。映画は、定点カメラ映像と、自殺者に近しい人たちのインタビューから構成されている。映画冒頭、中年男性がいきなり橋の欄干を飛び越え、落ちていく。あまりにショッキングだ。午前4時に映画を観ていると思えぬほど、衝撃を受けた。

 観ていて気づいた点。よく晴れた日に、人びとは自殺している。カリフォルニアに晴れが多いから、当然といえばそうであるが、インパクトがある。自殺はじめじめした、暗い天気の日にやるもの、というイメージが私にあった。まさに飛び込む瞬間を見ていた人のコメントに、‘笑顔で飛び込んでいった’とあったことも印象的であった。 
 気づいた点の2つ目。自殺者に近しい人たちは、自殺前に、何らかの兆候を受け取っているようだった。たとえば‘俺はもうすぐ自殺する。ピストルでは汚れてイヤだ’などの直接的な表現。これが数年前から続いていた。回想し、「もっと愛があれば…」など、近しい人たちが後悔の念を吐露するシーンもあった。

 「本作の目的は自殺問題に答えを出すというより、我々の社会と自殺について問題提起をすることなんだ」とは、DVD収録・監督来日インタビューの言葉である。自殺は身近にある。にもかかわらず、人びとの関心をあまり引かない。日本では交通事故死は年間5000件程度。自殺は3万人。「自殺に悩む人がオープンに話せる環境づくりや彼らをポジティブに支援する方法が必要だ」とも監督はいう。

 カリフォルニアの快晴をバックに、何人も海に飛び込んでいく。しかし、我々は自殺を暗闇で、ひっそりと行われるもの、と考えている。自殺を考える人は、別の世界にいる、というように。無論、人が観ていないところで通常は自殺が起こっている。物置で、自室で、森の中で、自殺はひっそりと行われる。けれど、自殺は陰に隠すべきものではない。交通事故と同じく、あるいはそれ以上にありうべきことである。社会でも対策を採っていくべきだ。「自殺」というテーマを広く社会で議論しあっていくべきだ。カリフォルニアの太陽のように、白日の下に晒すのだ。「現実や真実を見ることを拒否するのは、助けやケアを必要としてる人びとに対しひどい仕打ちをすることになるんだ」(監督インタビューより)。

 ドキュメンタリーの目的は、現実の問題点を多くの人びとに知らしめることにある、と私は考える。編集の仕方によって現実が歪められる可能性はあるものの、ドキュメンタリーでしか伝えられないことがあるはずだ。「知らない」ということは、ある意味で幸せである。「知る」ことには、義務を伴うからだ。知ってしまった以上、何らかのアクションを起こさないことには、被害者に申し訳が立たなくなることがあるのだ。