2008年12月29日月曜日
2008年12月28日日曜日
メール転送
送る側・送られる側相互が相手に《転送》する設定のときどういうことがおこるのだろう。
メールの無限増殖が際限なく続くか、あるいは《スパムメールだ》として排除されるか。いつか実験してみたいものだ。
映画
いままでは洋画中心主義。チャップリンに惹かれて映画を見始めたが故の行動だ。
気軽に映画を観賞できる大学生活の有り難さ。就職活動はいいや、院に行こう。
タバコ
2008年冬の帰省は新幹線自由席の喫煙シート。喫煙所で3時間座り続けることがいかに過酷かよく分かった。頭の働きがかなり悪くなっている実感がある。
もう2度と喫煙シートには座らぬ誓いを立てた。
2008年12月25日木曜日
2008年12月23日火曜日
2008年12月18日木曜日
フィンランドとコーヒーと学力
正解はフィンランド(一人当たり)。一日に5杯以上飲む人もザラだ(『フィンランド 豊かさのメソッド』)。
ピサ調査世界一の学力の秘密もコーヒーの大量摂取にあるのかも知れない。
神秘主義
ときどき教育学の中に「宇宙との一体感を感じる」などと書くものが存在する。シュタイナー教育だけでなく、わりあい´ヒューマン`な教育学理論にも見受けられる。「宇宙との一体感」以外にも「人類みな兄弟」という形で現れることもある。
他人の信仰や主義に対し意見をいう気はさらさらない。意見を言いたくなるのは「さも当然」とばかり神秘主義的価値観を《押し付けて》くるときだ。
「たしかにおっしゃるとおり、そういう考え方もありますなあ。でも私はそうは思いませんよ」
このように言いたくなるのだ。
書評:ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
読まないで本書の書評を書いてみようと思ったが、それはやめることにした。
この本はいわゆるハウツー本でも、トンデモ本でもない。れっきとした文学の本である。そもそも、『読んでいない』といっていながら、《読んだが忘れてしまった本》として著者自身の本を挙げている。
読んでいない本についてコメントしなければならないことは、意外にある。バイヤールはこの行為を否定的に見るのでなく、逆にポジティブに見ていくことを提唱しているのだ。
読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。(中略)読んでいない本についての言及は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。(213頁)
読書とは、もっと能動的であるべきだ。本を通じ、「みずから創作者になること」(217頁)をしてもいいのではないか。『読んでいない本について堂々と語る』時、頭の中で創作作用が始まる。「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、社会的にこれより認知された活動と同じくらい立派な活動なのだ」(217頁)。それはまぎれもなく自分の思考であり、自分自身について語ることになるのだ。
本を読むという行為のために、逆に自分の考えがなくなってしまうことがある。読むことによって、本質が見えなくなることがあるのだ。書評を書くのも然りである。あまりにも読みすぎた本については、何も言えない。著者が何を意図しているか、考えすぎるとかえって何もかけなくなる。学問も同じである。一年生の頃、「教育学って、要はこんなものだ」と恐れ多くも言えていた。しかし、今は「教育学って、結局何なんだろう」と却って分からなくなっている。レポートを書くときにも感じる。あまりにも多くを調査すると、「先攻研究に書かれていないだろうか」と思い、なかなか書けなくなる。思えば不思議なことである。
2008年12月16日火曜日
シェーン、三十郎、Come back !
黒澤映画『用心棒』(1961)と『椿三十郎』[1](1962)はリンクしている。もともと『椿三十郎』は「『用心棒』の続編を撮れ」との東宝の依頼で作ったため、当然といえば当然である。黒澤は続編にはせず、別の映画として撮った。しかし、主人公のキャラクターや設定は同一なのだ。[2]三船敏郎(三船美佳の父である)演じる桑畑三十郎(『用心棒』)と椿三十郎(『椿三十朗』)はどちらも≪フラッと来て、問題解決をし、フラッと去っていく≫点でつながりがある[3]。
アメリカ映画『シェーン』(1953)も、『用心棒』・『椿三十郎』と同じく≪フラッとやってきて、問題解決をし、フラッと去っていく≫図式の映画である。今回は、ここで示した3作品の共通点・相違点を見て行きたい。
どの作品も、≪フラッと来て≫、〈正義〉[4]の人にお世話になり、〈悪者〉一族を倒し、〈悪者〉の中で特に腕が立つもの―いわばライバル―を1対1で倒し、そしてフラッと去っていく点で共通である[5]。
共通するそもそもの疑問として、なぜ主人公が旅をしているのか、という点が浮かぶ。主人公は腕の立つガンマンや侍であるのだが、どうして一匹狼・風来人になる必要があったのか。映画では全く描かれない。しかも利益を目的としているのでなく、任侠心からボランティアで、命の危険を冒して〈正義〉を助ける。現代風にあらわすなら、《大企業の妨害行為により、倒産寸前となった零細企業を、フラッとやってきた主人公が建て直しを図る》[6]とでも示せるであろうか。利益のためでなく、《自分の力を社会に役立てたい》との思いから行動しているといえるのであろうか。
下に、三作品の比較対照表を作ってみた。参照していただきたい。比較してみると、時代設定や場所こそ違えど、共通する要素の多いことがお分かりになるであろう。
この≪フラッと来て、問題解決をし、フラッと去っていく≫図式のように、ヒットする映画にはある程度の型や図式があるように考える。これから、そういった図式を見つけていきたいと思う。
[1] なお、『椿三十郎』は角川がリメイク版を2007年に出している。
[2] ほかに、『用心棒』・『椿三十郎』はBGMが同じであるという共通点がある。
[3] 『用心棒』は桑畑三十郎が農道を歩くシーンから始まる。その際、三十郎の背中が写るところから始まる。『シェーン』とも共通しているシーンだ。『シェーン』では馬上のシェーンを背中越しにアップするところから始まる。対して、『椿三十郎』では神社の境内で話し合っている武士集団の話を、三十朗が隣の部屋で盗み聞く場面から始まる。『椿三十郎』は≪フラッと来て≫とは言いがたいが、偶然いざこざ(これは主人公が世話になる〈正義〉の集団あるいは個人と、〈悪者〉間のいざこざである。各映画との対応は表を参照のこと)に巻き込まれる。
[4] あくまで、主人公や映画鑑賞者からみて〈正義〉である、との意味で〈 〉を付けている。〈悪者〉も同じである。〈悪者〉から見れば、シェーンや三十郎は《突然やってきて、敵方に味方する、よく分からない変な奴》にしか見えていないのだ。
[5] ほぼ無傷で去る『用心棒』や『椿三十郎』と違い(どちらも「あばよ」と告げて去っていく。背中のアップと共に終わる)、『シェーン』は傷だらけで去っていく(例の「シェーン、カム・バック!」との男の子の声と共に、ふら付きながら馬で去る。死を暗示しているとの見方もある)。
[6] この設定は伊丹十三の『スーパーの女』(1996)に共通している。食品スーパー「安売り大魔王」に押される、「正直屋」の社長・小林五郎のもとに、幼馴染の井上花子がフラッとやってくる。そして彼女の主導の元に「正直屋」を建て直し、「安売り大魔王」に打ち勝つ。最後は彼女と「正直屋」社長との結婚が暗示されるところで終わる。主人公が〈正義〉と一緒になる(ここでは結婚するということ。風来人が〈正義〉と一体化する、ということを意味する)点はシェーンや三十郎と違うが、≪フラッと来る≫点と《別に頼まれてもいないのに、〈正義〉に協力することになる》点は共通している。
2008年12月13日土曜日
映画『椿三十郎』
最近、黒沢映画が面白くてたまらない。
見ないで死ぬのは勿体ない。
いきなりの緊迫シーン。
懐手で歩く時肩を揺らす。このスタイルの格好よさ。
常に落ち着く・堂々とすることの大事さを知る。
椿三十郎の台詞は全てをメモしたくなる。
「岡目八目ずばりだ。見てみな」
「十人だ! てめえらのやることは危なくて見てられねえや」
「間抜けな味方の刀が敵の刀より危ない」
「俺だ、開けろ」
緊迫した合間に、ユーモラスなシーン。
せっかく散々助けてやっているのに、味方が三十郎をうたぐる発言。人間の忘恩を思う。
2008年12月10日水曜日
2008年12月9日火曜日
映画評論 黒澤明『蜘蛛乃巣城』(1957年)
鷲津武時(わしづ・たけとき)という武士が、討伐からの帰路、森の中で「物の怪」(もののけ)に会う。老婆の姿で、物の怪は≪あなたは北の舘の主となり、蜘蛛乃巣城のお城主様になる≫と鷲津に語る。同行していた親友の三木義明に対しても、物の怪は≪あなたは一の砦の対象となり、息子が蜘蛛乃巣城のお城主様になる≫と語った。城主のもとに帰った際、二人は予言の通りの役職に新たに任命される。大して予言を信じていなかった二人の顔が、はっきりと変わる。
鷲津自体は「北の舘の主で十分。城主を狙うなんてとんでもない」というが、妻の浅茅(あさじ)にそそのかされ、城主を討ってしまう。三木の息子を次の城主にしようとするが、またしても浅茅の説得に負け、三木とその息子を殺そうとする。三木本人は亡くなるが、息子は逃走した。
城主と親友を殺してしまった鷲津。予言どおり、蜘蛛乃巣城の城主となるが、精神的に不安定になってしまう。部下たちをスパイと疑い、何人も斬ってしまった。
最終的に、蜘蛛乃巣城を前城主の息子・国丸と、三木の息子・義照の軍勢に囲まれた中、鷲津は家臣たちに雨のように矢を放たれ、殺されてしまう。
この物語では、鷲津の妻・浅茅がキーパーソンである。はじめ、鷲津は自分の名誉欲を「主君への忠誠心」で抑えようとした。しかし浅茅によってそそのかされ、主君に槍を刺してしまう。主君のみでなく、自らの出世の妨げになると考え、親友の三木すらも斬ってしまう。人間は周囲に翻弄されてしまうものであるのだ。
確固たる意志がなければ、人間は不幸になるのかもしれない。鷲津は城主になるという、当初思っても見なかった願望をかなえることができたが、親友を殺し、家臣に信頼をおくこともできなくなってしまった。結局は家臣の手によって放たれた弓に刺されなくなってしまう。これは悲劇である。
自分は何のために生きるのか。自分なりに考え、答えを求めようとすることだ。鷲津は意志の固い男であるが、浅茅にそそのかされると良く考えもせずに動いてしまった。短絡的行動は、時として自らの破滅を招く。常に自分をメタ認知し、可能な限り考える姿勢を保っていくべきであろう。
[1] シェークスピアの生没年は1564~1616年なので、年代的には日本の戦国時代にあたる。そのため、シェークスピアの物語とこの『蜘蛛乃巣城』は同時代性を持っている。
就活できる幸せ
私の中学の友人は、高卒あるいは高校中退で、結構働いている(世間的にはフリーターな友人もいるが)。
いくら不況でも、仕事はある。そうでなければ求人雑誌は廃刊してしまう。
仕事はあるのだ。「選んでいる」からみな苦労して就活をしている。それで鬱になっている。
むしろ、「仕事を選べる」幸福を考えるべきではないだろうか。
プラス思考の有無で、人生は大きく変わるという。ならば、就活もそうである。俺は大学院の準備をしているが、プラス思考と「選択できる贅沢な悩みを持つ幸せ」を噛み締めていくべきだと自分自身に思う。
社会貢献の道を考えていくべきだ。浜口直太の本に(『勉強のルール』)「世のため・人のための思いで学べ! その人が一流になる」とある。よく自己啓発本には「自己実現こそが人生の目的」とあるが、それはおかしい。人生の目的は、どれだけ他人のために尽くせたか、他人のために行動できたかではかられるべきだ。
私も、浜口と同じ決意で、人々のために役に立つ教育学者になる。そして私の師匠にお応えをするのだ。断じて、戦いきるのだ!
教育にゴールはあるのか
学校教育で完璧を目指す事はできず、個人が「他人のために行動しよう」という意識を持ち、「そのために、学ぼう」としていけるかが大切だ。
皆、ベルトコンベアー式に、「こんな子どもに作り上げたい」と考えるが、それは無理な話であるのだ。
2008年12月4日木曜日
自己の弱い命と向かい合え!
日蓮の権力との戦いは、それはそれは熾烈であった。
日蓮の文章を学ぶにつれ、自己の弱い命と向かいあう必要性を感じてくる。
もっと、強くなる!