否定的意味合いが大きいが、逆にプラスの面もある。
古代ギリシャでは「暇=学問」であった。学問の原語のスコレがもともと暇を意味したのだ。
この有り余るヒマを、じょうずに使いたい。学問をするに限る。これは「サヨナラ、学校化社会」で上野千鶴子氏が語ったことでもある。学問は効率のよい暇潰しだ、と。やってもやってもおわりがないからだ。
教育学/社会学ネタメインです。「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」(ルソー)
否定的意味合いが大きいが、逆にプラスの面もある。
古代ギリシャでは「暇=学問」であった。学問の原語のスコレがもともと暇を意味したのだ。
この有り余るヒマを、じょうずに使いたい。学問をするに限る。これは「サヨナラ、学校化社会」で上野千鶴子氏が語ったことでもある。学問は効率のよい暇潰しだ、と。やってもやってもおわりがないからだ。
「ヤンキー先生」で知られ、安倍首相が唱える「教育再生」の看板役を務めた自民党比例代表の新人義家弘介氏(36)は、黒いスーツ姿で東京都千代田区の選挙事務所に姿を見せた。「当確」が一向に出ずに重い雰囲気が一時漂ったが、待ちに待った吉報にほっとした雰囲気に。
その間、義家氏は複数のテレビ局のインタビューに応じ、選挙戦を振り返って「失業問題、年金問題という雲に、教育問題が隠されてしまった」と答えていた。
(共同)
私のいる早大では、みな当たり前のように出ていっている。しかし全国的にはいったことのない人も多いはずだが…
ちなみに、私はパスポートを持ってはいない。
との名キャッチ。糸井氏が考案したものだ。
本を読むのって、現代という時代から見れば馬鹿な行為かもしれない。他に楽しいものが沢山あるから。勉強もしかりである。
それでも、あえて本を読み、勉強をする。この「あえて」という部分が、自己形成の上で重要なのであろう。何故なら勉強・読書で困難に耐える力を身につけ、強い自分になれるから。世の動きを半ば超越した形で、大きなスケールでものを見れるようになるから。
フランスの「行動する文化人」アンドレ・マルロー。彼は第二次対戦下、いつ空襲が来るかわからない夜道で、壮大な文化論を語った。文化は地中海からヨーロッパ大陸に広まった。次はここから太平洋に文化の中心は移るであろう、と。日常の事柄をはるかに越えた地点からものを見る。そこに読書や勉強の重要性がある。
何故?
それは東京の山の手と下町で高さが違うから。渋谷はかつての谷にある。だから渋谷と谷の字がつくんだ。そして台地の地下を通る。そのとき当然、渋谷という谷底より上を通るんだ。
だから地上3階に地下鉄の駅がある。間違いない。
しかし与党圧倒的不利の状況を現出し、演出したのも新聞メインのマスコミであった。
NIEの実践が叫ばれているが、そのもとにするマスコミが一斉に偏った視点を与えるとき、対処しようがないのではないか。
携帯簡単、シンプル、使いやすい、用途が多いといいとこずくめである。
メリット1 メモしやすい
メリット2 膝の上に置けば机がわりになり、本読み・書き物が電車内でもしやすい
メリット3 うちわになる
メリット4 お知らせしたい紙を飛ばないように押さえられる。
その他、多くの使い道が見つかる。だから常に鞄にいれ、使える機会がいつか考察中である。
それにしても、シンプルなものほど使い勝手や用途がいいのは何故だろう。クリップボードは下敷きにクリップが付いただけなのに。
ちなみに、100均でなく、文具店できちんとしたのを買った方が使いやすい。ほとんどの文具にあてはまることなれども。
英国メンタルヘルス財団は23日、小学生の10人に1人が定期的にお酒を飲んでいるというShools Health Education Unit(SHEU)の調査結果を明らかにした。
調査は10~15歳までの生徒6万8千人を対象に実施。10~11歳では10%、12~13歳では19%が少なくとも1週間に1回は飲酒をしていた。 14~15歳の10人中4人が1週間続けて飲酒をしていた。お酒の購入先はスーパーや酒屋。調査マネジャーのデビッド・レジス博士は、「このようなこと (未成年に酒を売ること)は違法」と指摘するが、未成年へのお酒の販売は続いているようだ。
(2007年7月26日発信)
銭湯が減っている。ここ数年で近所の銭湯が2軒なくなり、大変なショックをうけた。わが家ではたまに行く銭湯が、子どもたちの社会勉強の場所でもあったからだ。
そこで他人とのかかわり方を知ることができた。体を洗ってから湯船につかる。立ったままお湯を掛けない。走らない。騒がない。体を仮拭きしてから上がる。それらの公共性を自然に身につけられ、自分の行動で迷惑をかけるひとがいるということを、実体験で学ぶことができた。
勝手に水を入れて湯をぬるくすれば、怒鳴りつけるお年よりもいる。よく顔を会わせる大人たちとは叱ったり叱られたりが許される信頼関係ができる。電車の中 でいきなり知らないひとに怒られるのと、顔見知りに叱られるのとでは大きな違いだろう。地域の子供とかかわりたいのに機会がないという大人だって結構いる ものだ。
子供にとっても、よその大人とふれあうことができる格好の場所ではないだろうか。男の子で あれば、大人の男をそこで学び、女の子もしかり。親としては生活をさらけ出すようなうっとうしさも感じるのだが、家庭内の親子だけの空間で道徳心や公共性 を教えることがどんなに難しいかも、身をもって感じている。しつけがなっていないことを親はせめられてばかりだが、親たちも公共性を学ぶ機会がなかった世 代なのだ。
最近子供たちへの道徳教育の必要性が叫ばれているが、銭湯こそ子供にとって必要な場所ではないかと思う。流行(はや)りのスパや健康ランドのように、何も地下深くから温泉を汲(く)み上げなくても、近所で気軽に行ける銭湯がまた復活してほしい。(講談師・神田茜)
(2007/07/27 07:43)
ぱっと見たとき、私はセンスの悪さに驚いたのを覚えている。聞けば鈴木貫という議員が中心に考えたそう。
どうせ作るなら、デザイナーに頼んでもっとクオリティをあげろよ! 突っ込みたくて仕方がない。
その中で、いつも「自分はこれでいいのだろうか」と考えてしまう。
自分の行動は、本当に意味を持つのか。人の役に立っているのか。邪魔になっていないか。他にもっとすべきこと・自分に相応しいものがあるのじゃないか。
その度、次のことを思い出す。「目の前の課題から逃げるな」「何もしないより、何かをしたほうがいい」「行動の中で少しずつ直していけばいい」
上記のように、バカボンのパパ的思考法も必要だ。これでいいのだ。なにもしないより、やったほうがいい。失敗は後の成功に繋がる。
とにかく前向きに。とにかく何でもいいから、やっていくべきなのだ。
大道芸・ガマの油売りをしていた。
道行く人を止め、刀パフォーマンスと話術でみせる技である。
喋り方に特徴があった。テレビのCM前同様、何分かおきに前にいったことをのべ、途中から来た人にもわかりやすくしている。
またテレビ的要素は他にもある。この芸のヤマは自らの腕を切る(ようにみせる)ところにあるが、最後の最後まで引っ張り、客を待たせる。
テレビと大道芸、意外に似ているところがある。テレビで大道芸特集をしても同じような構成になるであろう。
普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。
「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。
しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。
義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。
だから結果を残すだろう、とは思う。
「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?
握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。
「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは10年20年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。」
→自分にもっと適した仕事があるのではないか、と迷うことがある。そのためにあちこちうろうろする。結局、何も掘り当てることなく貴重な人生を費やしてしまう事が多い。だからこそ目の前の課題から逃げず、前進することが必要だ。
「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。
早寝・早起き・朝ご飯
を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。
陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?
何と言うか、ひたすら虚しい。これが1週間続けば気が狂ってしまう。
人のことを人間と書く。もとは「じんかん」とよんだらしい。文字通り、人が社会的存在であることを示す文字であると言えよう。人の間、と書くのだから。
その社会を成立させているのは、人と人との会話・対話である。
今日が虚しい理由は、対話不在にある。
現在、社会のあらゆるところに対話の不在を感じる。対話が不在のとき、空虚さを感じるわけがわかった気がする。
ひとり暮しをして、実感したことだ。
よく我々は
恵まれない子どものため、寄付を!
というが、このようなとりくみも、実感として餓えた経験がもとになっていないと、「先進国としてのエゴ」に犯されるのではないか。どんな崇高な取り組みも、「何のため」という活動の根本がズレたとき、方向性が悪くなる。
飢えた実感が、正しい援助につながる。今一度、自分の在り方を振り返りたい。
「私が見て来た人の中で、多くの人間が堕ちている。私が人材と思ったうちの半分は女で堕ちた。
残りのうちもう半分は金で堕ちた。残りのさらに半分は仕事で堕ちた。」
人材は数少ない。まして学園を出てから人材として、人生の終までいられる人はかなり少ない。
皆がやっているなら、追い風なら誰でも戦える。ただひとり、逆風で戦えるのは数少ない。
自分も師弟を貫いて行きたい。
教育とは未来を作ることだ。
しかし教育は権力だ。
教育は人のコントロールの異名だ。
教育は洗脳だ。
おまけに教育は無力だ。
それでも
教師は教育を信じるしかない。
教育は無限の可能性を持っている。しかしそれもうまく働く時のみだ。
人権侵害と
洗脳の狭間、間一髪の所にあるもの
それが教育であるのだ。
研究室でも
会議室にも
教育はない
あるのは
教師と生徒
親と子ども
人と人が出会うところ。
人と人との交わり、
それが教育でもある。
ともあれ
教育とは何か
との問いは
答えることができぬほど
難しい
それでも僕は
その答えを探したい