2007年7月31日火曜日

学問という暇つぶし

夏休み、何もしないのは暇である。一人暮しではなおさらだ。

否定的意味合いが大きいが、逆にプラスの面もある。
古代ギリシャでは「暇=学問」であった。学問の原語のスコレがもともと暇を意味したのだ。

この有り余るヒマを、じょうずに使いたい。学問をするに限る。これは「サヨナラ、学校化社会」で上野千鶴子氏が語ったことでもある。学問は効率のよい暇潰しだ、と。やってもやってもおわりがないからだ。

2007年7月30日月曜日

ヤンキー、やはり議員になる

吉報に一転「ほっと」 当選のヤンキー先生

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007072901000896.html

予想通り、義家先生が当選した。

うーん、今週の義家のラジオ、聞かないとな。

 「ヤンキー先生」で知られ、安倍首相が唱える「教育再生」の看板役を務めた自民党比例代表の新人義家弘介氏(36)は、黒いスーツ姿で東京都千代田区の選挙事務所に姿を見せた。「当確」が一向に出ずに重い雰囲気が一時漂ったが、待ちに待った吉報にほっとした雰囲気に。

 その間、義家氏は複数のテレビ局のインタビューに応じ、選挙戦を振り返って「失業問題、年金問題という雲に、教育問題が隠されてしまった」と答えていた。

(共同)

海外に行こうと思えど

海外にいったことのある日本人とそうでない日本人。どっちが多いのだろう?

私のいる早大では、みな当たり前のように出ていっている。しかし全国的にはいったことのない人も多いはずだが…

ちなみに、私はパスポートを持ってはいない。

本読むバカが私は好きよ

本読むバカが私は好きよ

との名キャッチ。糸井氏が考案したものだ。

本を読むのって、現代という時代から見れば馬鹿な行為かもしれない。他に楽しいものが沢山あるから。勉強もしかりである。

それでも、あえて本を読み、勉強をする。この「あえて」という部分が、自己形成の上で重要なのであろう。何故なら勉強・読書で困難に耐える力を身につけ、強い自分になれるから。世の動きを半ば超越した形で、大きなスケールでものを見れるようになるから。

フランスの「行動する文化人」アンドレ・マルロー。彼は第二次対戦下、いつ空襲が来るかわからない夜道で、壮大な文化論を語った。文化は地中海からヨーロッパ大陸に広まった。次はここから太平洋に文化の中心は移るであろう、と。日常の事柄をはるかに越えた地点からものを見る。そこに読書や勉強の重要性がある。

地下鉄銀座線のフシギ

地下、というのに銀座線の渋谷駅は東急デパート3階に改札がある。地下といいつつ、高架を通る。

何故?

それは東京の山の手と下町で高さが違うから。渋谷はかつての谷にある。だから渋谷と谷の字がつくんだ。そして台地の地下を通る。そのとき当然、渋谷という谷底より上を通るんだ。

だから地上3階に地下鉄の駅がある。間違いない。

選挙

国民の声を聞いた、と選挙はいう。

しかし与党圧倒的不利の状況を現出し、演出したのも新聞メインのマスコミであった。

NIEの実践が叫ばれているが、そのもとにするマスコミが一斉に偏った視点を与えるとき、対処しようがないのではないか。

2007年7月29日日曜日

クリップボード

最近、マイブームの文房具がある。それはクリップボードである。

携帯簡単、シンプル、使いやすい、用途が多いといいとこずくめである。

メリット1 メモしやすい

メリット2 膝の上に置けば机がわりになり、本読み・書き物が電車内でもしやすい

メリット3 うちわになる
メリット4 お知らせしたい紙を飛ばないように押さえられる。

その他、多くの使い道が見つかる。だから常に鞄にいれ、使える機会がいつか考察中である。

それにしても、シンプルなものほど使い勝手や用途がいいのは何故だろう。クリップボードは下敷きにクリップが付いただけなのに。

ちなみに、100均でなく、文具店できちんとしたのを買った方が使いやすい。ほとんどの文具にあてはまることなれども。



私のよくやる会話 レストラン編

自分「ここのお勧めは何ですか?」
店員「ミラノ風ドリアが一番人気です」
自分「そうなんですか。じゃペペロンチーノ一つお願いします」
店員「………」

2007年7月28日土曜日

飲酒と小学生

小学生の10人に1人が定期的に飲酒=英メンタルヘルス財団
http://www.jc-press.com/kaigai/200707/072601.htm

 海外は、飲酒に対して甘い。下を読むと、「こいつはひどい」と思われるだろう。
 
 しかし、ビールは酒ではない、という国もある。軽いアルコールはほぼ黙認されているところもあるのだ。

 下の状況、ひょっとすると日本的感覚で「飲酒」にあたる行為が含まれていないのかもしれない。
英国メンタルヘルス財団は23日、小学生の10人に1人が定期的にお酒を飲んでいるというShools Health Education Unit(SHEU)の調査結果を明らかにした。
  調査は10~15歳までの生徒6万8千人を対象に実施。10~11歳では10%、12~13歳では19%が少なくとも1週間に1回は飲酒をしていた。 14~15歳の10人中4人が1週間続けて飲酒をしていた。お酒の購入先はスーパーや酒屋。調査マネジャーのデビッド・レジス博士は、「このようなこと (未成年に酒を売ること)は違法」と指摘するが、未成年へのお酒の販売は続いているようだ。

(2007年7月26日発信)

低脂肪乳

 人の乳房は、脂肪分である。

 ということは貧乳のことを「低脂肪乳」というのだろうか。

銭湯の持つ公共性

【コラム・断 講談師・神田茜】銭湯は教育の場http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070727/wdi070727001.htm

 銭湯のよさを、ここまで語る。でも、下の引用文でいっているのは、「銭湯で公共性を学べる」ことのみであって、「銭湯でないと学べない」と書いていない。
 
 たしかに、教育のためには多くの事物が必要だ。「教育のための社会」にとってなおさらである。が、あくまでこの事物は絶対性を持つわけではない。

 感覚で教育を語っているような気がして、しかたない。重要なことではあるのだが。

 銭湯が減っている。ここ数年で近所の銭湯が2軒なくなり、大変なショックをうけた。わが家ではたまに行く銭湯が、子どもたちの社会勉強の場所でもあったからだ。

 そこで他人とのかかわり方を知ることができた。体を洗ってから湯船につかる。立ったままお湯を掛けない。走らない。騒がない。体を仮拭きしてから上がる。それらの公共性を自然に身につけられ、自分の行動で迷惑をかけるひとがいるということを、実体験で学ぶことができた。

  勝手に水を入れて湯をぬるくすれば、怒鳴りつけるお年よりもいる。よく顔を会わせる大人たちとは叱ったり叱られたりが許される信頼関係ができる。電車の中 でいきなり知らないひとに怒られるのと、顔見知りに叱られるのとでは大きな違いだろう。地域の子供とかかわりたいのに機会がないという大人だって結構いる ものだ。

 子供にとっても、よその大人とふれあうことができる格好の場所ではないだろうか。男の子で あれば、大人の男をそこで学び、女の子もしかり。親としては生活をさらけ出すようなうっとうしさも感じるのだが、家庭内の親子だけの空間で道徳心や公共性 を教えることがどんなに難しいかも、身をもって感じている。しつけがなっていないことを親はせめられてばかりだが、親たちも公共性を学ぶ機会がなかった世 代なのだ。

 最近子供たちへの道徳教育の必要性が叫ばれているが、銭湯こそ子供にとって必要な場所ではないかと思う。流行(はや)りのスパや健康ランドのように、何も地下深くから温泉を汲(く)み上げなくても、近所で気軽に行ける銭湯がまた復活してほしい。(講談師・神田茜)

(2007/07/27 07:43)

ルソーの言葉

「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。」エミールより

ある思想家の言

 政治も経済も、学問も宗教も、社会の一切の営みは「人間」から出発し、「人間」に帰着する。また当然、そうでなければならない。
 しかしあまりにも、しばしば、目的であるはずの人間が手段と成り果てているのが現実であります。その転倒を、本来の「人間中心」の理想に戻し、新たなる社会の建設をしていかねばならない。

2007年7月27日金曜日

民主くん

民主くんをご存知だろうか?

ぱっと見たとき、私はセンスの悪さに驚いたのを覚えている。聞けば鈴木貫という議員が中心に考えたそう。

どうせ作るなら、デザイナーに頼んでもっとクオリティをあげろよ! 突っ込みたくて仕方がない。

これでよいのだろうか…

最近、いろんなことをしている。高校の部活の手伝い、友人との対話、学校ボランティアなどなど。

その中で、いつも「自分はこれでいいのだろうか」と考えてしまう。

自分の行動は、本当に意味を持つのか。人の役に立っているのか。邪魔になっていないか。他にもっとすべきこと・自分に相応しいものがあるのじゃないか。

その度、次のことを思い出す。「目の前の課題から逃げるな」「何もしないより、何かをしたほうがいい」「行動の中で少しずつ直していけばいい」

上記のように、バカボンのパパ的思考法も必要だ。これでいいのだ。なにもしないより、やったほうがいい。失敗は後の成功に繋がる。

とにかく前向きに。とにかく何でもいいから、やっていくべきなのだ。

ガマの油売りとテレビ

昨日、神楽坂の祭にいった。

大道芸・ガマの油売りをしていた。

道行く人を止め、刀パフォーマンスと話術でみせる技である。

喋り方に特徴があった。テレビのCM前同様、何分かおきに前にいったことをのべ、途中から来た人にもわかりやすくしている。

またテレビ的要素は他にもある。この芸のヤマは自らの腕を切る(ようにみせる)ところにあるが、最後の最後まで引っ張り、客を待たせる。

テレビと大道芸、意外に似ているところがある。テレビで大道芸特集をしても同じような構成になるであろう。

英単語「田舎」の覚え方

田舎の子どもはるーらる(rural)るーらると、泣く。

筆記用具による、学習の効率化

小学生は、よくおもちゃのような文房具を使う。キャラクター系のものだ。むろん、勉強が楽しくなるというメリットはある。しかし、いかんせん使い勝手が悪い。消しゴムは字を消せず、シャーペンはよく詰まる。

この傾向、中学飛び越え高校、大学、一般企業でも残る。使い勝手で文房具を選ばない。

文房具は、いわば仕事道具、戦争で言うなら武器である。手入れや選択を誤ること、これイコール死を意味する。時間を殺すことになっているのだ。

だから、勉強しよう、学ぼう、もっと仕事しようというなら、まず文房具を変えるべきである。

自分は、昔から文房具フェチであった。今でも、フラッと文具店に行ってしまう。そして何かしらいい文房具がないか探している。

自分のいま使っている「武器」は、
①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
である。

①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
→3年前から使用。あらゆる4色ペンのなかで、(まだラミー2000を買える境涯でないので、いまのところ)NO.1の完成度であると考える。4色ペンは、齋藤孝教授の『3色ボールペンで読む日本語』以来、使うようになった。4色色分けできると、もう筆箱は不要になる。
 このクリップ・オンには、シャープペンもついている。あらゆるシーンで活用できる。ポケットに1本、これがあるだけで、いつでも学べる。これは大きい。筆箱から色ペンを探す時間も節約できる。
 おまけに、このペンはクリップもこだわっている。金属性クリップだから、どこにも挟め、おまけに強い!
 一度使ってみて欲しい。もう、他のペンを持つ必要がなくなる。
 詳細は↓

クリップオンマルチ
http://www.zebra.co.jp/pro/clipon_multi/index.html


②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
→書き味が、超滑らか。一度使うと、病み付きになる。①とどう併用するか、考察中である。
 ちなみに、字の太さ1ミリタイプがお勧め。太いと引っ掛かりがほとんどなく、ジェットストリームらしさが存分に出ている。
 詳細は↓

ジェットストリーム
http://www.mpuni.co.jp/product/category/ball_pen/jetstream/index.html

 長くなってしまった。要は自分にあった文房具を探し出し、使ってみよということだ。
 文房具はいつも使うものだ。自分に合うものを使うほうが、ストレスなく使える。

このブログ、新たな方向性

別に「教育メイン」といっても、教育論だけというわけではない(もとからそうだ)。

これからは、「勉強法」についても書いていきたい。

2007年7月26日木曜日

リストカット

99ショップで買ったお菓子である。よく買う。

しかし、考えてみよう。

リスカって…

リストカットの省略形だ。
こんなのを社名にするのはセンスを疑う。

ヤンキー先生は議員先生になるか

昨日、高田馬場駅前でヤンキー先生こと義家氏が演説していた。

普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。

「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。

しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。

義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。

だから結果を残すだろう、とは思う。

「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?

握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。

ある思想家の言

人間の生命には「善」もあれば「悪」もある。ゆえに人間は教育によって、善にもなれば悪にもなれる。日本の軍国主義教育がそうでした。悪を引き出し、戦争の道を進んだのです。ゆえに徹して、「人間のための教育」でなければならない。「人間の幸福と平和と自由のための教育」でなければならない。

ある思想家の言

「有能な人は、常に学ぶ人である」(ゲーテ)
(中略)
学ぶ人は偉大である。
学ばない人は卑しい。
そして、学ぶ人は'表現する人'でもある。充電と放電の関係といってもよい。貪欲に学ぶからこそ、沸騰するがごとく表現を欲する。

2007年7月25日水曜日

夏目漱石の言

「学問は綱渡りや皿廻しとは違ふ。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。」
→学問は、人間形成のためだ!


「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは10年20年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。」
→自分にもっと適した仕事があるのではないか、と迷うことがある。そのためにあちこちうろうろする。結局、何も掘り当てることなく貴重な人生を費やしてしまう事が多い。だからこそ目の前の課題から逃げず、前進することが必要だ。

電車

電車内では異様に本が読める。逆に自由時間が沢山あっても本はあまり読めない学習も出来ない。

「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。


2007年7月24日火曜日

渋滞2割削減。一体どんな渋滞から削減されるのか。

数値化は確かにわかりやすい。しかしどうやって数値化しているかよくわからないことも多い。

何でも数値にすることは出来ない、との自覚も必要だ。 

教育はとくにそうである。学力低下論争も、学力がそれほど変化していないデータを使わない(そもそも学力は数値化可能かもわからない)。

2007年7月23日月曜日

朝に勝つと気持ちがいい。陰山英夫氏が

早寝・早起き・朝ご飯

を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。

陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?

2007年7月22日日曜日

対話

今日一日、誰とも話さなかった。

何と言うか、ひたすら虚しい。これが1週間続けば気が狂ってしまう。

人のことを人間と書く。もとは「じんかん」とよんだらしい。文字通り、人が社会的存在であることを示す文字であると言えよう。人の間、と書くのだから。

その社会を成立させているのは、人と人との会話・対話である。

今日が虚しい理由は、対話不在にある。

現在、社会のあらゆるところに対話の不在を感じる。対話が不在のとき、空虚さを感じるわけがわかった気がする。

2007年7月21日土曜日

理性

腹が減ると、理性が麻痺する。

ひとり暮しをして、実感したことだ。

よく我々は

恵まれない子どものため、寄付を!

というが、このようなとりくみも、実感として餓えた経験がもとになっていないと、「先進国としてのエゴ」に犯されるのではないか。どんな崇高な取り組みも、「何のため」という活動の根本がズレたとき、方向性が悪くなる。

飢えた実感が、正しい援助につながる。今一度、自分の在り方を振り返りたい。

ここにいたのか、寺脇氏。「ゆとり教育」の顔。

「ゆとり教育」と教育改革の行方:1(寺脇教授)http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200707210220.html

 寺脇氏。文科省でゆとり教育を進めた人物。そして失権した人物。いま、大学教授をしていたとは思わなかった。
 
 彼は「単純に学力が低下したといってはいけない」というような発言をする。私も、確かにPICAの点数が下がったくらいでびくついていては、確固たる人間形成を教育でおこなえないと思う。また、確かに教育はそんなすぐに結果の出るものではないとは思う。
 しかし、寺脇氏の見方も、浅はかである。氏は、「ゆとり教育で、全員に百点を取らせて見せます。そうできなければ先生方の教え方がまずいといえます」などと発言していた。が、やがて前言を撤回している。
 単純に、教える量を減らせば子どもは学ぶようになる、という驕りが、寺脇氏に感じられてならない。子どもはそんなに単純な頭脳構造をしているわけではない。また学びの習慣化は、そんな簡単に発生するわけではない。佐藤学氏のいうように、子ども一人では理解の及ばない教材でも、他者とのふれあいの中で急速に学力が向上することもある。教師の言を聴けば、もっと手っ取り早く、「教える量の削減≠学びの習慣化」であると分かるはずである。
 寺脇氏には、ずるさを感じる。自分は正しい、という姿勢を崩すべきである。教育行政の実験台にされた子どもたち(いま大学2年の私もそうだ)がかわいそうではないか。一国の教育行政を背負っていた人物であるなら、もっと自分の行動に責任を持つべきだ。
 結論。教育行政は、早急に方向性を決めていいわけではない。また、この行政がきちんと子どものためになっているのか、考えていくべきである。失敗から学ぶ、とはきれいごとである。子どもの子ども時代は、二度と帰ってこない。新たな教育政策をするなら、「本当に子どもたちのためになるのか」よく考えてから行っていくべきである。

妹を食べる話

サントリー烏龍茶の広告。
萌えブームの中で見ると、危ない話にしか見えない。大手企業が新聞広告でいうほどのことなのか?

インディアン

努力、ウソつかない。

インディアン、ウソつかないのもじり。


不良言葉

勉強しねーと、見えねーもんがあんだよ。

不意に頭に浮かぶ。しかし本質をついてはいる。

河合氏、死去と兵庫県の反応

教育で先駆的取り組み 博学、ユーモアたっぷり
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000471677.shtml

 河合隼雄さんが、19日に死去。自分は兵庫出身ながら、河合氏が兵庫出身だと知らなかった。自分が中学時代に経験したトライやるウィーク(中学校での体験学習。地域の商店や企業に行き、職場体験を行う学習形態。兵庫県から実施)についても、かかわりがあったとは。

トライやるウィークって知ってますか?http://www.wmstyle.jp/archives/2004/11/29_102343.php

 人間、死んでから初めて「あ、あの人こんなことしてたんだ」と気づかれることがあると実感。

 教育界にも業績のあった、河合氏。しかし、何も知らない人に「ハヤオさんが亡くなった」といえば、宮崎駿を意味してしまう。…不謹慎ながら。

重複・大量、1人で73人分の合格実績。

73人分合格、実は1人が受験・大阪の私立校、優秀な生徒に依頼 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070720STXKF052720072007.html

 確かに高校の受験実績の「~人」って、案外一部の生徒の実績だったりしますもんね。これを学校側が組織的に行っているのは、面白いことです。
 開成高校とかでやると、全校生以上合格者が出て、もっと面白いことになるかもしれません。すでに開成だとこうなっているのかもしれませんが。

2007年7月20日金曜日

人材

私の高校の先生はこう言った。

「私が見て来た人の中で、多くの人間が堕ちている。私が人材と思ったうちの半分は女で堕ちた。
残りのうちもう半分は金で堕ちた。残りのさらに半分は仕事で堕ちた。」

人材は数少ない。まして学園を出てから人材として、人生の終までいられる人はかなり少ない。

皆がやっているなら、追い風なら誰でも戦える。ただひとり、逆風で戦えるのは数少ない。

自分も師弟を貫いて行きたい。

2007年7月19日木曜日

甘え

 自分は、ひたすら甘ちゃんだと思う。少しのことで、「自分はすごい」と思い、少しのことですぐに落ち込んでしまう。『タイゾー化する子どもたち』で原田武夫が嘆いた若者になりつつあるようだ。
 甘えを排するにはどうするか。強き一念を定めることである。自分はこれをやるのだ、と強く決意することである。
 

院のあと

 大学院に行ったあと、どうするか。道は、3つ考えた。

 1、教師になる。
 2、教授になる。
 3、国家1種をとり、文科省に入る。

 1以外の2と3は、かなり難しい。教師になれる数と、教授や文科役人になる定員は限られているからだ。他に家庭裁判所調査官というものもある。僕は一体何をすべきなのか。

大学院に、何故いきたいのか。

 教育に関する本は非常に多い。しかし、どこにも「教育とは~~だ」との、明快な答えはない。教育において、長井秀和のネタは成立しないのだ。間違いはたくさんある。

 教育、教育、教育。たしか、ブレア首相の就任演説も教育の連呼だったらしい。答えはよく分からない。それでも、延々と答えを求め続けるしかない。教育とは、そういうものかもしれない。それなのに、私は大学院に行きたいと考えている。何のために? 教育について考えるため? 教育の定義づけのため? よくは分からない。しかし、ただ研究したい。学びたい。深めたい。何か教育学上で、自分の努力を貢献したい。教育について、専門的な立場から話をできる人間になりたい。高等教育を受ける以上、受けられなかった人たちに恩返しをしたい。

 いろいろ、深めていきたい。

人のありがたさ

 一人暮らしをすると、人のありがたさがよく分かる。特にTVもないと、人のありがたみがよく分かる。
 究極の暇つぶしの道具は、他者である。未知の存在、どこまで掘っていっても、完全に相手をすべて分かってしまうことはない。人生経験がまるで違うのだ。どこまでいっても、完全には分かり合えない。しかし、そこが人付き合いのいいところである。

アマラとカマラ

 教育学の本に必ず出てくる、アマラとカマラ。インドで発見された、いわゆる「オオカミ少女」。アマラとカマラは、狼に育てられたらしい。しかし、本当のところ、よく分かっていない。狼の乳には人間には消化不良なものがあるから、らしい。

 真実が分かるたび、ロマンがなくなる気がする。

 でも、原作だとアマラとカマラの「母親」たるメスオオカミや他のオオカミの子どもたちは、射殺されちゃってるんですよね。これって、本当にいいの? こう思ってしまいます。

 原作にある写真。何故かアマラとカマラは、ふんどしをしている。当時のインドの風習なんでしょうか。

本が読めない!

 どうしようもなく、本が読めなくなるときがある。めがねの度があっていないのか、疲労困憊なのか、理由もなくそうなっているのか、よく分からない。しかし、いま私は当にその状態にある。
 理由はなんだろうか。3点思いつく。
 1点目、テスト前だから。期限が近づくほど、何故か勉強したくなくなるときはある。
 2点目、ダンテの『神曲』を読んだから。分からなさ過ぎて、本を読む感動が沸かなくなったから。
 3点目、頭の中がマンネリズムに陥ったから。私の読む本は教育に関するものが多い。そのため、頭脳の中がいっぱいいっぱいになっているのではないか。
 
 こういう時は、量が少ないのに、一冊の本の形式をきちっともっている、中谷彰宏の自己啓発本がいい。
 中谷彰宏の本は、何もしない価値、何度も同じものを見る価値など、近代思想が取りこぼしてきたものを再評価する本が多いような気がする。いわば、童話『モモ』的価値といえよう。ポストモダン的発想といえなくもない。睡眠時間を削る、という表題の本がはやる時期に「やっぱり寝るほうがいいよ」といったり、「早くしなきゃ、早くしなきゃ」とあせる人に、「集中力をつけるには意識的にゆっくり動かなきゃ」と諭す。うーん、これはすごいことだ。

 早く、本を読む生活に復帰したい。ちなみに今日私は『神曲』の地獄編、読了しました。すごい本です。ソクラテスやプラトンが地獄にいるんです。それも、神を信仰しなかったために。当時のローマ教皇も地獄に落としています。聖物売買の咎で。なんともすごい本です。大学時代に読めて、よかったと思います。余り理解は及びませんでしたが。

専門書を捨てよ、教育の場に出よ

 教育ボランティアで、ある高校の寮のお手伝いをしている。男なのに、寮母という立場である。なかなか、楽しく、かつ大変な仕事である。
 教育って、結局は人と人とのかかわりによってできるもの。教育学の専門書では見えてこないものである。

 教師になりたい学生はたくさんいる。熱意溢れる人たちもいることは、私の友人を見ていても思う。その学生たちは、すぐに何らかの形で教育に関わったほうがいい。より深く、より本質を突いて学ぶことができる。どんな大人も、子どものカリスマティックアダルトになれる、との言葉がある。自分でしかかかわれない子どもは必ずいるのである。だとすれば、目の前の子どもに、私たち大人はかかわりを持っていくべきである。

 モモは村人の話をひたすら寄り添って、聞いていった。教育は促成栽培ではないので、モモの視点を忘れず、関わっていくべきである。教職に志す人たちには、この視点で関わっていただきたいと思う。

やる気がしない。

 何か、非常にやる気がしない。どうしてだろうか。
 テスト前の喧騒、一人暮らしの静けさ。何かしないといけないのであるが、何をすべきか分からない。「旅人よ/いづこより来たりて/いづこへいかんとするか」との言葉がある。人は自由すぎるといろいろ迷ってしまうのではないか。そう思う今日この頃である。

2007年7月17日火曜日

教育とは

教育とは夢だ。

教育とは未来を作ることだ。

しかし教育は権力だ。

教育は人のコントロールの異名だ。

教育は洗脳だ。

おまけに教育は無力だ。

それでも
教師は教育を信じるしかない。

教育は無限の可能性を持っている。しかしそれもうまく働く時のみだ。

人権侵害と
洗脳の狭間、間一髪の所にあるもの

それが教育であるのだ。

研究室でも
会議室にも
教育はない

あるのは
教師と生徒
親と子ども
人と人が出会うところ。

人と人との交わり、
それが教育でもある。

ともあれ
教育とは何か
との問いは
答えることができぬほど
難しい

それでも僕は
その答えを探したい

待つこと・見つめること

 最近、「待つ」こと・「見つめる」ことの重要性に気づいてきた。 
 すべてを教えるのは、よいことではない場合がある。相手が学ぼうとしていないときに教えるのはかわいそうだ。子どもが失敗し、そこから学ぶのを防いでも意味はない。齋藤孝は自著の中で、ハンマー投げの室伏の父は、じっと彼の投げを見つめ、ついに何も言わない日がいつもであり、ためにボソッと「よくなった」といったらしい。教師はついつい教えたがるが、それで自分と同じレベルにはできても、自分以上の人材にすることができない。
  子どもは未来からの留学生である。前に田中さんもいっていたように、教師以上に実力のある子ども・知識のある子どももいる。その子たちに子どもだましの知識を与えることはできない。
 子どもたちは、自分の存在に関わらず、存在する。教師が存在しなくても、生徒は存在する。だとしたら、自分が彼らを拘束してしまっては、彼らの可能性を閉ざすことになる。  言うべきことはきちっといい、相手のいい点は自由に伸ばすこと。これが必要なのだと思う。

2007年7月3日火曜日

パルシステムの牛はずばりドナドナだ!
配送トラックに描かれた絵は人々に助けをもとめているんだ!

2007年7月2日月曜日

松屋のCMには外国人をつかわない。