2009年7月31日金曜日

早稲田大学教育学部 自己推薦入学の裏側

 わが早稲田大学教育学部には、自己推薦入学試験制度がおかれている。自己推薦入学試験(いわゆるジコスイ)とは、部活の全国大会優勝などの実績をアピールし、受験する試験制度である。早稲田の全学部に自己推薦入試があるわけではない。そのために、「一芸」に秀でた人々は「教育」に興味がなくとも教育学部にやってくることとなる。

 ちなみに「一芸」入試で有名なのは亜細亜大学である。登山家の野口健はこれを使って入学した。彼の著書は『落ちこぼれてエベレスト』。私はそれをもじって『落ちこぼれて亜細亜大』と呼んでいる。

 閑話休題。その早稲田大学教育学部の自己推薦入試であるが、合格してきている人々はどんな「一芸」に秀でているのであろうか? やはり全国大会1位などが多くなるはずだろう。どんな人たちが合格しているのだろうか。

 そう思い、さっそく早稲田大学の教育学部の学部事務所に行った。そして「自己推薦入学のご案内」というパンフをもらった。以下はパンフに載っていた昨年度のデータである。

 なお、下の学芸系とは「全国書道展1位」などの文化系での実績、スポーツ系とは「サッカー全国大会3位」などの体育会系での実績、全校的活動系とは「生徒会長」などの実績で合格した人のことを指す。

 自己推薦試験、志願者は計390名。そして合格者は61名。

 では学芸系での合格者から。志願者128名、合格16名。倍率は約10倍。
 続いてスポーツ系。      志願者175名、合格23名。約8倍。
 最後に全校的活動系。    志願者87名、合格22名。約4倍。

 なんと、最も合格率が高いのは「生徒会長」「生徒会副会長」などの「全校的活動系」の実績で受験した人達なのだ。ときどき生徒会長になることを「大学入試のための点稼ぎ」と悪くいう人もいるが、「確かにそうともいえるよなあ」と思ってしまうデータであった。

 ちなみに、私は高校では生徒会長。ああ、ジコスイを使えば早稲田に簡単に入れていたのか・・・。あんなに苦労しなくても良かったのに・・・。悔やむ心が起きてくる。
 
 ところで、「いない」とは思いますが、これを読んでいる受験生で、かつ生徒会長の方へ。早稲田大学教育学部への自己推薦試験を受けてみることをお奨めします。「教育」への興味はなくて構いません(私も教育学部は第五志望。まさかここへ通うことになるとは)。だって倍率はたかだか4倍なのですから・・・。

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。

 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。

 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。

 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。

 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。


 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。


追記
 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。
 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。
 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。
 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

2009年7月29日水曜日

山本哲士の本

早稲田生協でこの本を買った。

学校それ自体への批判を、山本哲士は積極的に行っている。

あとがき が気に入ったので購入。

「教師として失格であることが、教育的に一番害がない。50%ぐらいの教師がそうなると、教育は必然になくなり、学ぶパワーがとりもどされていこう」

2009年7月27日月曜日

イリッチが『シャドウ・ワーク』で言いたかったこと

『シャドウ・ワーク』においてイリッチは〈制度に縛られない〉生き方の大事さを何度も主張している。少なくとも、一章と二章を見る限り、そうである。

 「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはず。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである、と。近代成熟期には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

 追加すると、イリッチは「理想の社会」と一つのことばで表される社会を嫌っているように思える。コミュニティごとに、「理想の社会」は異なるはずだ。文化環境も、思想・信条も、自然環境も違っているのだから。山本哲士は『教育の政治 子どもの国家』において「社会」と「場所」とを対比的に語る。一元的な「社会」ではなく、その場その場の(ヴァナキュラーの)「場所」を重視すべきだと主張している。
 経済を基にしていると、経済はすべてを一元化してしまう。『シャドウ・ワーク』の「公的選択の三つの次元」のZ軸の定義として、上限が「経済成長につかえる社会」であると示している。その反対側の下限が「生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」というものであった。「経済に基づくコミュニティも多様な選択肢の一つではないか」という意見が聞こえてくることを見越した上での、主張であろう。経済を基にすると、コミュニティの独自性が失われてしまうことをイリッチは嘆いているのだろう。XYZ軸をすべて説明した後に、「当今の政治の概念作用となると、すべてを一次元化してやまない」といっているのは、そのためではないだろうか。

※余談だが、昔読んだリンカーン大統領の伝記を思い出す。サブタイトルは「丸太小屋からホワイトハウスへ」であった。当時の私は丸太小屋、つまりログハウスに住んでいる人は「別荘を持った金持ち」というイメージをもっていた。本来、19世紀初頭における丸太小屋は「貧しさ」の象徴であったのだが、誤解していたのだ。

2009年7月26日日曜日

宮台真司『14歳からの社会学』

 いま私は宮台に夢中である。
 宮台の著書『14歳からの社会学』に、「承認」論が描かれている。社会から、他者から認められ、「自分はこれでOKなのだ」という「尊厳」を得るためには(ちょうどエヴァのシンジのように)、何が必要か?
 宮台は「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。

《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)

 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしてい た自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものでは ない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台 のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」とな る可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。

 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

追記
 宮台はこれからの社会の「勝ち組」像を語る。その人物は、他者とコミュニケーションを自在に行うことができ、自分の示すビジョンの実現のために多くの人々を動員し、実現できる者である。
 コミュニケーション能力こそが、必要となるのだ。
 外に出て、人に会うのだ、石田よ! 
 誰かが「人生において重要なこと」として言っていた。「本を読め、人に会え、旅に出よ」と。私はこれに「映画を観ろ」を追加したい。
 さて。今日も人と会って深い対話をし、「承認」を得られるように努力していきたい。

夏の目標

 眠れない苦痛を逃れるため、過去の投稿を読んでいた。文章の下手さ加減に感心してしまう。「今ならこう書くのに…」。けれど、それに気づける時点で自分の成長が測れるのだろう。

 私の今年のテーマは「人と比べるな、昨日の自分と比べよ」である。過去の自分の文章に駄目出しできることは、過去の自分よりも成長した証しと言える。

 夏休みの私の目標。一日1本映画を観ること、一日1回はブログ更新をすること、『社会学』の厚い参考書を3回読むこと、卒論を「とりあえず」書き上げることである。インプット・アウトプット両方を重視しつつ、自分の成長につながる時間を過ごしたい。

 映画『燃えよドラゴン』解説での、ブルース・リーの言葉。
「自己表現を学べ。自分自身を研究するんだ」
 そんな夏にしたい。

 ともあれ、時間というストックだけは万人に開かれている(梅田望夫『ウェブ時代をゆく』)。ならば戦え、自分よ。目前の時間を価値的に使え、惰眠に使うな! 「生きるとは行動すること」とは誰かの言葉。
 自分に負けるな!

 
 

大二病

人間は社会的生物である。一人暮らしの夏休みほど、それを感じる時はない。

何もすることがないということの悲哀。可処分時間が多すぎると、人は空しさだけを噛み締める。そんなとき、むやみと人に会いたくなる。「まったり」話していると、孤独さから解放される。


Hさんという人と今日の夜、ずっと話していた。
「早稲田に入って、やたら映画に詳しい人によく出会うので、『映画詳しいよ』とうかつに言えなくなりました。だから毎日1作のペースで映画を見ているんです」といった所、Hさんは、
「大二病だね」
とおっしゃった。

大二病とは中二病(中二病の定義は文末を見てほしい)の亜種らしい。自分より遥かに「出来る」友人を見て落ち込み、引きこもり気味になり、その間徹底的に映画を見るなどして自信を付けたがることをいうらしい。

そうか、大学4年生にしてようやく「大二病」になったのか。罹らないまま卒業して方が幸せだったのだろうか?

Hさんの話の中にもあったが、世の大学生は本当に「大学生」たるべき行動をしているのか妙に気になった。軽々しく「ポストモダン」論を語るが、真剣に本を読んで学んだ時期があったのか? 簡単に「もう自民は駄目だよ」というが、真剣に政治学を学んだ時期があったのか? 教育学部生は「教育学」をマスターしているのか? 大学院に行く人間はそれにふさわしいだけの学問を学んできたのか? 

「大二病」に罹ることが出来る方が、「大学生」らしい大学生と言えるのではないかとふと思った。

*Wikipediaにおける、「中二病」

思春期の少年が子どもから急激に大人に なろうと無理に背伸びをして、「(子供の価値観での)大人が好みそうな格好のいいもの」に興味を持ち始め、「子供に好かれそうなもの」、「幼少の頃に好き だった幼稚なもの」を否定したりするという気持ちが要因である。こういった感情から「もう子どもじゃない」、「(格好の悪い)大人にはなりたくない」とい う自己矛盾からくる行動が、実際に大人になってから振り返ると非常にピントが「ずれ」ており、滑稽に感じることが大きな特徴である。

加えて生死宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85

猛省、猛省。

今日も12時まで寝てしまった。その後、映画『燃えよドラゴン』を見つつ寝てしまい、行動開始は16時。何という自堕落な生活だ!

先日中学時代の友人に電話した。彼は上京して現場監督として働いている。電話口の声が疲労で溢れていた。その彼の話を思い出す限り、「大学生」を味わわせてもらっていること自体に申し訳なさを感じる。

アメリカの大学は、大学生が週に45時間勉強することを想定してカリキュラムを組んでいるらしい。授業が15時間あり、残り全て自習という想定。
何故45時間か? それは一日8時間労働×5日+土曜は半日(5時間)労働、という一般企業の労働体系を学問にも合わせているからだ。
「君たちと同い年の人間は、週に45時間くらいは働いている。だから君たちもそれくらいは勉強しろよ」という、考え方なのだ。

アメリカでは一度社会に出てから大学に行くことも多いらしい。そのようなとき、「労働するのと同じくらいは大学で学ぶ」という考え方には納得できる点が多いであろう。

私も、猛省をしなければ。明日は7時に起きて、即行動開始をしよう。

2009年7月24日金曜日

『シャドウ・ワーク』を読む。第2章前半。

●「60年代に、「発展=開発」は「自由」や「平等」と肩を並べる地位を得てきた」(40頁)
→「もっとたくさんの学校、もっと近代的な病院、もっと広く長い高速道路、新しい工場、高圧送電システムを設けること」(同)が重視された。
→際限のない拡大・開発を求め続けてきたのが近代である。1章に「発展=開発と平和を一緒のものと見る」ことへの批判があったが、この章でも「発展」観の見直しをイリッチが訴えている。

●その結果、「外部不経済」や「逆生産性」が現れてきた。
例:「学校や病院の税金負担が、どのような経済も支えきれないほど莫大になった」(40)
  「制度の顧客である多数の貧しい人々は、たえず欲求不満におちいることになった」(41頁)のだ。
  「大多数の人間にとってラッシュアワーにしか使えない交通機関は、自由に選ぶことのできる移動や相互的な接近の機会を減少させて、通勤の乗物に隷属しながら費やす時間を増やすことになる」(42頁)
→つまり、制度の発展によって人間の自由や仕事が奪われるのである。

●「経済成長はすべて不可避的に環境の利用上の大切な価値を衰弱させるのだ」(43頁)
→環境と経済成長の関係。いまよくいわれているようなことである。
→イリッチのこの指摘を解決する方法として、宮台真司は次のように主張する。〈経済発展を皆が目指すのだから、企業のみに「環境に配慮せよ」とはいえない。そうではなく、「環境に配慮した会社が儲かる」ような社会システムを設計することが重要だ〉。その例として炭素税などを宮台は提案する。

●「新たな『満足』を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった」(43)
例:自宅で子どもを産むこと。かつては「普通」だったが、いまでは「エリート層」の人の特権となった。
  新鮮な空気を吸うこと。

「今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである」(43)
→自分の力で何かが出来る人/制度に頼らずに生きていける人が、いまでは特権的なことになった。

「この社会(商品集中社会)では、専門家によって企画・指定され、しかも彼らの管理のもとで生産される商品やサーヴィスの規格化といった観点から、ニーズというものが定義される傾向が強まる」(45頁)
→自分たちが自由にものをつくったり、生活したりしていた中世と違い、近代に入ってから自分の意のままに生活していくことができなくなってしまった。そこでは専門家や企業・政府の意図によって人々のニーズがつくり出されることになる。

●「経済成長」に対立するものとして「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会、を置きたい。すなわち、『ホモ・エコノミクス』の観点から組織される社会にたいして、『ホモ・アーティフィクス』、つまり人間生活の自立と自存にかんして伝統的な仮説を回復した社会を対立させるのである」(46頁)
→経済という「制度」に頼る生き方ではなく、「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える」生き方を志向していくべきなのだ。本人の「自立」「自存」に留まらず、「共同の環境の使用」(あんまり意味が分からない…)を目指していくべきなのだ。

●「現代社会の形態は、実際、これらの独立した三つの軸に沿っていまなお行われている選択の結果である」(46頁)
3つの軸とは?

X軸:「ふつう『右』と『左』ということばで表される問題、たとえば、社会の階層性、政治的権威、生産手段の所有、資源の配分をめぐる諸問題を配置したい」(44頁)

Y軸:「『ハード』と『ソフト』とのあいだの技術上の選択がくる」(同)

Z軸:「特権や技術でなく、人間の満足=欲求充足の性質それ自体が問題となる」(45頁)
Z軸の下限:「商品集中社会」。「経済成長につかえる社会」(46頁)
Z軸の上限:「実にさまざまな社会が、扇形に並ぶ。そこでは、生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」(pp45~46)。「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会」(46頁)

「政治形態への信用の度合いは、三つの選択のそれぞれの組合せに、人々がどの程度参加するかに依存しはじめる」(46頁)

イリッチは「社会のユニークなイメージ、つまり社会の諸部分が明確に分節され、独自に関連づけられているイメージというものは美しい」と語る。

「質素とつつましさという特徴をそなえ、現代的ではあるが手作りであって、小規模に営まれている生活様式というものは、市場化をとおしてのそれ自身の伝播をなかなかゆるさないものである。こういうふうにして、歴史上初めて、貧しい社会と豊かな社会とを掛け値なしに対等の関係に置くことができるようになるだろう」(47頁)
→文化相対主義とも言うべきか。

イリッチは続ける。「このことが本当に実現するためには、開発の視点から国際的な南北関係の問題をみる現在の認識のあり方が、何をおいてもまず破棄されなければならない」(同)。

ここから、『シャドウ・ワーク』というイリッチのことばの解説がはじまる。

「仕事は雇用と同一視され、名誉ある職業は男性に限られていた。就職口と切り離して行われる〈シャドウ・ワーク〉の分析はタブーだった」(47頁)
そして、このシャドウ・ワークは「開発が進めば、そのような労働は消えていくだろう」(48頁)と考えられていた。

※シャドウ・ワークの説明:
『社会学』(長谷川公一ほか、有斐閣)には、「家事労働は資本主義社会を支える相補的労働でありながら、賃労働の影の部分として暗黙に存在するシャドウ・ワークとなり、労働として自覚されなくなっていく。そのように分離された中で、性別役割分業を基軸とする〈近代家族〉は、男性を市場で営まれる有償労働に、女性を家庭で営まれる無償労働に一般に割り当てることになる」(389頁)
→イリッチの本文の記述と近い。イリッチは「家庭内という領域での女の隷属状態は、今日もっとも明らかかなその代表である。家事には給料が支払われない。しかも、昔は女の仕事の大部分は生活の自立と自存をめざす活動であったが、今日の家事ではそうではなくなった」(50頁)といっている。
つづけて「現代の家事は、生産を支えることに向けられた産業的な商品によって規格化されている」(同)と説明する。
「賃金労働者を再生産し、休養させ、賃労働にかりたてる原動力となる役割に彼女たちを押し込めている」(同)

「シャドウ・ワーク」は「経済学の分析の手からすりぬけていた」(51頁)。そのために、下の2つの活動のうち①のみが重視されるようになる。

賃金が支払われない二種類の活動:
①賃労働を補う〈シャドウ・ワーク〉
②本当の自立・自存の仕事

●「コミュニティが人間生活の自立と自存を志向する生活の仕方を選ぶときには、いまとは正反対の仕事観が広がってくる。その場合には開発を逆転させること、消費材をその人自身の行動におきかえること、産業的な道具を生き生きとした共生の道具に変えることが目標となる。そこでは賃労働と〈シャドウ・ワーク〉はそれこそ影をひそめるだろう」

人間を「成長中毒患者」とみるかどうかは、「非雇用」や失業を「みじめな禍とみるか、あるいは有益な一つの権利とみるかの分かれ目を決めてしまう」(49頁)

商品集中社会:「基本的なニーズは、賃労働の生産物によって満たされる」(49頁)
商品集中社会を動かす労働倫理:「給料や賃金のための仕事を正統化し、それと反対に自律的な活動の価値を引き下げる」(49頁)

(本来、まだ続くのですが、できませんでした)

ニール・ポストマン 小柴一訳『子どもはもういない』(1995年改訂1版、新樹社)*原著は1982年

 かつてPh・アリエスは『子供の誕生』において、「子ども」が大人社会の中で認識されたのは近代に入ってからであることを提示した。ポストマンの書いた『子どもはもういない』はアリエスのこの主張をさらに発展させたものである。
 本書の前半で、ポストマンはアリエスや他の思想家が訴えてきた事柄を用い、「子ども」「子ども期」が近代になって生まれてきたことを提示する。どうして「子ども」概念が出てきたか? ポストマンは活版印刷機の登場を用いて説明する。手書きで文字を読み書きしていた時代において、大部分の大人は識字ができなかった。そのため口頭によるやりとりが行われることになる。その中では「子どもに言うべきでない話題」などの「秘密」を隠すことができなかった。現在では「子ども」といわれるような人間も、その秘密をふつうに見聞きしていた。
 活版印刷の発明は、文明のあり方を変えた。人々の仕事において、文字を使用する機会が圧倒的に増えた。役所に提出する文書、契約書などなど、書面で仕事のやり取りをすることも出てきた。活版印刷技術は、人々に読み書きできる能力を必要とする。けれどこの能力の習得には長い時間が要る。まだ文字を習っていない人間を隔離し、「学校」で教えなければ。人々はこう考えるようになり、結果として「子ども」が誕生した。
印刷技術の発明後、子どもは大人になるものとされ、かれらは、読むことを覚え、活字の世界にはいりこむことによって、大人にならなければならなかった。そして、それをなしとげるためには学校教育が必要だった。こうして、ヨーロッパ文明は、(古代以来)学校を再びつくりだした、しかもそうすることによって、子ども期をなくてはならないものにしたのである。(pp59-60)
*(  )内は石田。

 ポストマンは「子どもの誕生」を活版印刷機が元になったと説明する。時代は進む。活版印刷により誕生した「子ども」が消滅するところまで、時代は進んだのだとポストマンはいう。ではそのきっかけとなったのは何だろう? ポストマンは電気による通信(象徴的な意味ではモールス信号)をあげる。この進化系であるテレビが、「子ども」を消滅させてしまったのだと説明するのだ。
 テレビは「子ども」でも理解可能である。識字能力は必要ではない。テレビは「活版印刷」や「活字」が子どもから隠してきた「秘密」を明らかにしてしまう。例えば性、例えば暴力。それにより、もはや「子どもはもういない」といわざるを得なくなってきているのだ。
 高橋勝は『文化変容の中の子ども』の中で「子どもの消滅」についてを説明している。それは子どもが「消費者」として大人扱いされるという点からの説明であった。ポストマンは「メディア」の変遷により、子どもが誕生し、消滅しているのだと説明をしているのである。

 ここで、私の問題意識を提示しておく。子どもの誕生―消滅を「メディア」の変遷によりポストマンは説明した。いま、メディアの世界の主力はインターネットである。ポストマンはこの状況を見てどう思うであろうか?
 当初、インターネットは文字文化の復興をもたらしたように思われた。掲示板の書き込みも、企業のウェブサイトでも、大体は文字情報のみに寄っていた。現在、ニコニコ動画やYou tubeなど、ネット世界は「動画」が重視される時代に入った。インターネットがもたらした効果も、文字中心の時代と動画中心の時代とに分けて、考えることはできないだろうか? また、手軽にインターネットの「メール」ができるようにした「携帯」登場以後について、彼はどういう説明をするだろうか? 気になるところである。

 余談だが、ニコニコ動画などには、「本来、文字で示すべきだろう!」と怒りたくなるような「動画」が公開されている。メッセージを音楽にのせて延々と流し続ける動画がそれである。私はそれを見たとき、文字情報のテレビ化という言葉を思いついた。映画のエンドロールに端を発しているんであろうが、読み取り手の意図・読むスピードに関係なく一律で文字を動画に表し続ける態度にイライラを感じてしまう。

 以下は、本文からの引用です。


本と学校が子どもをつくりだしたとき、それらは大人についての現代的な概念をもつくりだしたのである。(p79)


早稲田大学で学べること

早稲田大学にいることで学べることはいくつかある。

1、酔っ払いへの対応の仕方・介抱の仕方が無理なく修得できる。

2、受験秀才というのは大した存在ではないということが自覚できる。

3、相手との話のネタに困ったとき、バイトの話か就活の話を振るという「技術」を身につけることができる。

4、図書館に行くと六法全書を手にした人物が必ず座っており、多くの者はそのまま突っ伏している事実を知ることができる。

5、早稲田出身者は必ずと言っていいほど「授業に出なかった」ことを自慢するということを知ることができる。

6、受験の中で第一志望に受かる人間はほとんどいないのだと気づくことができる。

短編小説・夏屋さん

 少女が街を歩いていると、一人の中年男性に出会った。寒空の下、その男だけは半袖シャツにサンダル履き。周囲から浮いた姿で屋台をやっている。
「おじさん、何やってるの?」
 少女は尋ねた。「おじさん」と呼ばれたその男性は、
「俺かい? この看板見てごらん。『夏屋』をやっているんだ。夏を売って、お客さんに冬を楽しく過ごしてもらうんだよ」
「へー、そんなお仕事があるのね。全然知らなかったわ」
「この仕事、なかなか大変なんだ。お嬢ちゃん、ちょっと夏を買っていかないかい?」
「おいくら?」
「子どもには1分100円で販売してるんだ。どうだい」
「はい、100円」
 男は手元のかき氷機を手早く回し始めた。下に氷がたまっていくのを少女は見ていた。すると、ふいに自分が海岸に佇んでいる心持がしてきた。海に反射する太陽がまぶしい。
 気づくと、再び男の姿が目の前にあった。
「気に入ったかい、お嬢ちゃん?」
「うん、とても」
「その先に屋台があるだろう? そこには俺の女房が店をやっているんだ。『秋屋』と書いてあるからすぐ見つかるよ。そこから先に行くと俺の親父がやっている『冬屋』がある。ちょっと行ってみな」
 少女は男の言う2つの店に寄ってみた。100円を払い、それぞれの季節を楽しんだ。素敵な仕事だと、少女は思うようになった。そして、独り言のようにつぶやいた。
「わたし、大きくなったら絶対『春屋』さんを開くわ。そこでみんなに春を売るのよ」

2009年7月22日水曜日

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』(岩波現代文庫、2008)

 著者は30年間学校の教師をした後、「東京賢治の学校」をつくる。現在は子どもを対象にシュタイナー教育を行っている場所だ。
 執筆した当時、鳥山氏は「うまく育てなかった」大人を対象に「ワーク」とよばれるケアを行っていた。「ワーク」は、その人の心理の根底にある、不安な出来事・辛かった出来事などをその場で「演じて」見ることで、「うまく育てなかった」部分を乗り越えていくという実践だ。
 「どうしても子どもを抱きしめることができないんです」という母親。鳥山氏が「ワーク」を行ったとき、その母親自身が親から愛情を注がれることがなかった・抱きしめられることがなかったことを思い起こす。親にいいたかった思いを、「ワーク」の中で伝える母親。それを見ていた母親の子どもが涙を流して母親の元に抱きついてくる。「ごめんね」と母親も子どもを抱き返す。本書は鳥山氏が出会ってきた多くの家族が「再生」するという、感動的なエピソードに彩られている。
 印象的なのは次の部分だ。

新聞や雑誌には、「学校へ行けない子どもに決して強要してはならない。学校へ行けない場合には、無理やりに学校に連れていってはいけない」とありました。本当に今も、いろいろな本とかカウンセラーたちが、閉じこもっている子を無理やり外に出してはいけないとか、学校へ連れていってはいけないとかいうようにいっています。そして、今も、そういう考えが主流を占めています。困ったことに、これらの忠告や知識は母親が自分の子にていねいにふれて感じながら二人の関係をつくり上げることをストップさせます。(p72)

 「自分の子どもが不登校になった。教育雑誌やネットを見る限り、そっとしておいてあげることが大事だろうな…」。著者の鳥山氏はこういう親の態度に批判的だ。子どもと向き合っていないからである。ひょっとしたら、学校を休むことを通して、「もっと私に関わってほしい」というメッセージを子どもが発しているかもしれないではないか、と。
 私の専門はフリースクールである。日本的文脈において、フリースクールは「不登校の子がいく所」という認識になっている。子どもが不登校になった時、「とりあえずフリースクールに行かせればいいかな」と安易に親が考えるようでは駄目なんだな、と本書を読んで感じた。
 フリースクールの活動はそれ自体は子どもの学習権の保障や、「子ども中心の教育を行う」という意味合いで重要な実践である。けれど、だからといって「わが子が不登校になったら、フリースクールにすべてお任せ」ということがあっては子どもが不幸になる。フリースクールがあるからと言って、親が子どもに関わることを避けていいわけではない。新聞やテレビなどで専門家のいう言葉を鵜呑みにして、子どもと関わることを放棄しては本末転倒なのである。自分で考えて、自分から向き合っていくことを忘れてはならない。
 「フリースクールに行かせれば何とかなる」という判断は、あくまで子どもと向き合った上で行うべきなのだ。そうでなければ、イリッチの言う「価値の制度化」が起きてしまう。
 親として、子どもと向き合うことから逃れてはいけない。そういう強烈な主張を受け取った。


 …けれど、この本は人々を不安に陥れる恐ろしい本でもある。一見、うまく行っている家庭であっても、親の「うまく育つことができなかった」点のために家族が崩壊していることがある、という事例を多く提示するからだ。家庭の様子は外と比べることが少ないだけに、問題はなかなか表面化しない。
 昔の映画に『家族ゲーム』があった。名優・松田優作の遺作である。奇妙な性癖を持つ家族の日常を描いた映画だ。その家では、細長い机に横一列になって座 り、食事をする。飛び回るヘリコプターの騒音のBGMが、どことなく不安定な一家の姿を暗示している。けれど、この家族の中ではこれが当たり前の姿なの だ。
 『家族ゲーム』を奇妙と言えるのは、この家族の外部に自分がいるからだ。『家族ゲーム』の中の家族にとっては、これが当たり前の姿。何の疑問も提示されない。自分が育ってきた家庭環境は、外部から見ると映画同様に奇妙に映っているのかもしれない。
 『居場所のない子どもたち』を読みながら、「自分は大丈夫なのか?」「きちんと育つことができたのか?」、と何度も不安に感じる。だって、『家族ゲーム』の奇妙さは、外部の人間にしか分からないのだから。自分の育ってきた環境は、外部から見ると「奇妙」としか言いようがないことがあるのだ。それゆえ、不安に駆られる。
 読み終えたときには、「人間がきちんと育つことなんて、本当にあるのだろうか? この著者は不安をあおっているだけではないのか?」と強烈に感じる本である。
 

2009年7月21日火曜日

幸福実現党の適当さ

高田馬場で幸福実現党のビラを配っていた。

2030年に人口3億人・国内総生産世界一を実現、と謳う。別に魅力を感じもしない。

もっといいプランを示せないのか?

2009年7月17日金曜日

映画『マトリックス』(1999年)

映画『マトリックス』(1999年)

監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーヴス

 表面上は1999年の社会。けれどそれは機械が人間に見せている虚構の現実であった…。主人公・ネオはモーフィアスの助けでその事実に気づく。機械用の生体熱エネルギーを得るために、人間が「栽培」される世界。これが「現実」の世界だったのだ。ネオのことを「救世主」と信じる仲間と共に、ネオは機械への戦いを開始する。こんなストーリーの本作、多くの方はもう見ておられるのではないだろうか?

この映画は社会学者・ボードリヤールの理論を基にして作られた。それだけに、非常に哲学的かつ学問的内容の示唆が多い映画である。見ていて、非常に勉強になった。少なくとも、あと2回くらいは観ると思う(ツタヤはそれまで待ってくれないが…)。
 箴言として残しておきたい文章も多い。「入り口までは案内した。扉は自分で開け」・「救世主であることは恋愛と同じ。それは自分でしか分からない」・「道を知ることと実際に生きることは違う」。
 特に気に入ったのは「マトリックスの正体は人から教えられるものではない。自分で見るものだ」との台詞。教育学に通じるものがある。思想家・イリッチは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」現象を批判した。教えられるのでなく、「自分で見る」こと・自分で「学ぶ」ことの大事さを語っているように思う。
 もう一つあげるなら、「人生は自分で決めるもの」という言葉であろう。ネオも「予言者」も語ったこの言葉は、本作のキーフレーズである。本作ではネオは何度も選択を迫られる。真実を知るか否かも、ネオが自分で決めたことなのだ。

 本作のテーマは、機械に〈生かされる〉社会から、人間が〈生きる〉社会への転換の必要性についてである。真実を見つめず、〈生かされる〉生き方をするほうが容易である。けれどそれは人間の本来生きるべき道ではない。たとえ困難であったとしても、人間として〈生きる〉生き方をこそ選ぶべきなのだ。そのためには行動しなければならない。どんなにキツイ戦いになったとしても。真実を知ることには、行動する義務が付きまとうのだ。
 けれど、真実を知ることは辛い。途中でやっていられなくなる。ネオ達を裏切ることになるサイファーがいい例だ。寒くて食事も不味く、楽しいこともない現実社会を生きるくらいなら、仮想現実の作り出す夢の世界を生きればいいじゃないか。そして彼は「無知は幸福」と言ってのける。
 たとえそうであったとしても、現実から逃げないで戦い続けるべきことをネオ達は示している。宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』がある。現在は輝ける未来もなく、かといって世界の終焉もなく(ハルマゲドンは存在しない)、いまと同じ日常が延々と続く時代である。けれど、そうであったとしても生き続けなければならない、と主張する本だ。
 『マトリックス』の世界は、宮台の言っているような社会であるように思う。現実社会はキツくて辛い社会である。仮想現実の夢に戻りたくなるけれど、それでもネオ達は生き続けなければならない。

 現実が暗くてキツくてショボいなら、仮想現実の夢を見たくなる。あるいは現実から逃避(引きこもり、自殺など)したくなる。それであっても、生きなければならない。そんな現代の困難さを実感した映画であった。

『シャドウ・ワーク』第1章から。

それぞれのコミュニティが、地域に生きる民衆の草の根の声として「平穏に暮らしたい」という主張をいかに表現することになるだろうか、私にはわからない。たしかなことは、どの主張も、それぞれのコミュニティにおいて固有かつ独自なやり方で明示されねばならないだろうということである。(pp37-38)
 イリッチのこの文章が印象的であった。
 平和には一つの形は存在しない。外部から「これが平和だ」と押し付けられるものではない(9・11後のイラク戦争で平和をもたらすことはできなかったことを想起されたい)。外発的な平和ではなく、内発的に人々の発意によって成立した、コミュニティ独自の「平和」を目指すべきなのだ。一つではない平和、つまり「多様な平和」とでもいえようか。少なくとも言えることは、「こうすれば平和になる」という処方箋は存在せず、コミュニティの中で「これが平和だ」といえるものを考案していかなければならない、ということだろう。
 この章の始めにも、次の言葉がある。
民衆に平和を取り戻させるには、経済開発にたいして草の根からの民衆の手で制限を加えることが重要なことと考える。(p19)
 「草の根から」の平和運動、それも「経済開発にたいして」「制限を加える」運動が必要となってくる。この文章の後、イリッチは国連の創設以来、「平和は徐々に『発展=開発』と結び付けられてきた」(p26)ことを主張する。この意見は非常に開明的だ。私も無意識的に「途上国が開発を行うことで、人々は平和になる」と考えていた。けれど経済開発により、人々に本当の平和がもたらされるかというと、そうではない。文化やアイデンティティ・言語の喪失、環境破壊など平和とは逆行してしまうことも多い。そもそも、「発展」や「開発」が他からもたらされるものであるなら、そこに住んでいた人々に「これが平和だ」と理想の平和像を押し付けることになってしまう。

 イリッチは意識していないと思うが、このような「多様な平和」という概念は多文化社会やグローバル社会においてこそ必要となるであろう。現在は価値観が多様な時代である。何をもって「平和だ」と意識するかも人それぞれ・コミュニティそれぞれに違ってくる。コミュニティ外の人々は、「これが平和だ」と押し付けることがあってはならない。
 「これが平和だ」と同じ構造を持つのは「あれは平和ではない」「あれは暴力国家だ」という言説である(と思う)。私が不思議に思うのは、北朝鮮の内情を見たわけではないにも関わらず「北朝鮮は反社会的国家だ」と糾弾してよしとする人々の姿勢についてである。案外、北朝鮮の人々は平穏に暮らしているかもしれない。北朝鮮の対外政策では拉致被害者やミサイルが話題になるが、ソ連時代にも似たような事件はあった(少なくとも、発生可能性はあった)。けれどソ連の人々が皆悲惨な生活をしていたとはいえないはずであろう。平和を満喫できた人々も結構いたはずだ。勝手な決め付けは真実を見えなくさせることがある。北朝鮮問題の真実を私が知っているわけではないが…。

2009年7月15日水曜日

岩波現代文庫『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』

本書はイリイチを玉野井芳郎・栗林涁が訳した。

目次。
1 平和とは人間の生き方 17
2 公的選択の三つの次元 39
3 ヴァナキュラーな価値 79
4 人間生活の自立と自存にしかけられた戦争 123
5 生き生きとした共生を求めて 民衆による探求行為 161
6 シャドウ・ワーク 205

ちなみに、本書のカバーにはこんな言葉が書かれている。

家事などの人間の本来的な生活の諸活動は、市場経済に埋め込まれ、単なる無払い労働としての〈シャドウ・ワーク〉へと変質している。そのような現在の生活からの脱却を企て、人間の生き方として、言語・知的活動から、平和の問題までを縦横に論じる。鋭い現代文明批判で知られるイリイチの思想理解への格好の書。

「格好の書」になるといいな。

2009年7月13日月曜日

フリースクールに大事なもの、ミーティング

フリースクールにおいて重要なものは何か。あまり知られていないが、それは「ミーティング」である。

フリースクールの運営について、子どもとスタッフが話し合う場。次のイベントの企画や、フリースクール内でのルールについて等。実際の所、「フリースクールの命」とも言えるものであるのだ。

平等な立場で議論をする。いわば「平等」権をもとにした制度だ。フリースクールというと「フリー」の語に引っ張られ、「自由」のみが重視されるきらいがある。けれど、そうではない。フリースクールの「フリー」とは無条件の自由を意味するのではなく、設備や他者との折り合いの上での「自由」である。利用可能な資源の中で、有効な使い方を考える上での「自由」なのである。

ミーティングの存在は、フリースクールを語る上で欠かせないものである。フリースクールの子どもたちはこれを通じ、コミュニケーションスキルを向上させていく。

イリッチは「脱学校化」した後のフリースクール的なものに対し「学び」を求める。イリッチは、たとえば語学などの教材を学ぶという「実質陶冶」の学びを主張する。教材に頼るイリッチよりもミーティングを行うフリースクールの方がより「形式陶冶」を行っていると思われる。

※『教育学用語辞典 第四版』には、次のようにある。「形式陶冶は、(中略)知識それ自体よりもこれらを習得するのに必要な推理力や想像力などの訓練を重視する立場である。これに対して実質陶冶は、心理的ないし精神的諸能力よりも児童生徒が教材内容を習得することで客観的な知識や技能を獲得することを教育の目的とする立場である」(186頁「陶冶」貝塚茂樹の文章)

…今回は、書いてて自分自身よく分からなくなりました。忘れてください。

2009年7月10日金曜日

現代人

荒川の駅。

出口の無い、切羽詰まった現代人の内面をえがいているようです。

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)

●ギリシャ神話の「パンドラの箱」。パンドラとは「すべてを与えるもの」。
●「はびこっている諸悪の一つ一つを閉じこめようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰退し、期待が増大してくる歴史である」。
●希望と期待の区別の再発見の必要性。
希望:「自然の善を信頼すること」「われわれに贈り物をしてくれる相手に望みをかけること」
期待:「人間によって計画され統制される結果に頼ること」「自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むこと」
●「プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している」「人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている」
●原始時代、人類は希望の世界に生きていた。古代ギリシャ時代から、希望を期待に置き換えることをはじめた。
●プロメテウスとエピメテウスの二人の兄弟。
●ギリシア人は「合理的で、権威主義的な社会を築いた。人々は、はびこる悪に対処するつもりで制度をつくり上げた」
●「彼らは、自分自身の要求や将来における子供たちの要求が、人為的につくられたものによって形成されることを望んだ」
●原始時代:個人を儀礼に神話にしたがって参加させることを通し、社会の慣わしや知識を個人に教えていった。
古代ギリシア人:教育によって、前の世代の人々がつくりあげた制度に自らを適応させる市民だけを真の人間として認めた。
→夢が「解釈」される世界から、神託が「創ら」れる世界への移行を反映している。
●「人々は、彼らの生活を規定する法律をつくることや、環境をおのれのイメージに合わせてつくることに責任をとった」。「神話的生活への原始的な導入の儀礼は、市民の教育に変えられていった」(p194)
●「運命、事実、および必然性によって支配」されていた原始の人々。
   ↓
プロメテウスは神から火を盗む。「事実とされていたものを問題とし、必然性とされていたものに疑いをさしはさみ、運命に戦いを挑んだのである」
   ↓
「運命として与えられた自然環境に挑むことはできるが、そのためには自分自身に危険のふりかかることを覚悟していなければならないことを知っていた」
   ↓
「自分のイメージにあわせて世界をつくり、全面的に人工でつくられた環境を築き上げようとする」「しかし(中略)それはむしろ環境に自分自身を適合させるよう、たえず自分を作り変えるという条件のもとでのみ可能であることに気づく」
   ↓
結果として「今、われわれは、人間というもの自体が危機に瀕している事実を直視しなければならない」
→要はどういうことか。自然を作り変える・手を加えることで現在の文明が成立した。しかしそれに伴い、人間自体も変化させられることとなった。人間も自然の一部であるゆえ、自然に手を加えるならば何らかの形で自分自身にも手を加える結果となるからだ。それが環境破壊や環境ホルモンの問題として現れてきている。だからこそ「人間というもの自体が危機に瀕している」といえるのではないか。
→「自然に手を加えよう」とする思いが、プロメテウス的人間の行動だといえるのではないか。「ありのままに任せていこう」という思いがエピメテウス的人間といえるのではないか。
●現在は「欲望と恐怖までもが、制度によってつくり出される」。価値の制度化が進んでいるのだ。(p195)「学習自体が、教科内容を消費することと定義される」
●「望ましいのものはすべて計画されたものなので、都市の子供はやがて、人間は人間のどんな欲求を満足させるためにも、そのための制度を作れると考えるようになる」(195頁)
→本当に必要なものではなく、社会が私に「この商品が欲しい!」と思わせるのではないか。つまり、社会が高度になるほど、社会が人々の需要を作り出す。社会のことをイリッチは「制度」と言い換えていると考えるのであれば、制度が価値を定める、価値の制度化がいたるところで成立することになる。その例が「月への乗り物が考案されれば、月に行くという需要もまた作りだされるということになる」(196頁)ということである。
 その結果、「たえず需要の増大する世界は、単に不幸というだけでは言い尽くせない。―それは、まさに地獄にほかならないのである」(196頁)。
●「人は、制度が自分のためになしえないことがあるなどとは考えることができないので、何でも求めるという欲求不満の原因になる力を発達させてきた」(197頁)。悪文。要は、人々の欲求不満が増大してきたということだ。プロメテウスが火を神から盗んでくるまで、自然というものに対し、人間には「あきらめ」があったはずだ。動物が捕れないならばあきらめて死ぬしかない。どんなに上手くない魚を釣ったとしても、空腹ゆえに諦めて食べるしかない。その世界は諦めで満ちている反面、幸福を感じることもまた容易だったのではないか。ほかにモノがないのだから、きちんと食事ができ、元気に一日を過ごすことができれば、それだけで幸福だったはずだ。
 現代は衣食住すべて揃い、体調も良好であったとしても「欲求不満」が増大するゆえに人々が不幸になる社会である。
●冷戦の影響を受けてか、『「原爆発射のスイッチ」は、今や「地球」の生死を制することができる』という書き方をしている。
●「われわれの制度は、それ自体の目的を作り出すばかりでなく、それ自身、およびわれわれの生存にも終わりをもたらす力をもっているということである」
→この例として、イリッチは軍隊を出す。「軍事用語における安全は、地球をなくしてしまうほどの破壊力をもつことを意味する」。
●「学校は、計画化された世界へと人間を導きいれるために人間を加工する、計画的に作り出された過程となった。学校は、一人一人の人間を、この世界的ゲームの中での役割を演じるのに適するレベルにまで形成するものだとされている。われわれは容赦なく耕作をし、さまざまの措置を講じ、生産活動をし、学校教育をするが、そうすることによって世界を消滅させていくのである」(199頁)
→地球が限界を迎えるのを加速する働き。教育にはそんな側面もある。
●「制度の目標は、制度のつくり出すものとは絶えず矛盾する」(201頁)。「貧乏胎児の計画は、ますます多くの貧乏人を生み出し(中略)学校は、より多くの脱落者を生み出す」
→学校がある限り、「学校が合わない」人間は必ず存在することになる。社会的受け皿がない限り、そのひとたちは不幸に陥ってしまう。この「制度の目標」と「制度の作り出すもの」の両方に目を向けていくべきである。
●「最後に、教師、医者、および社会事業家は、彼らの専門職的仕事が少なくとも一つの共通する側面をもっていることに気づいている。その共通点は、彼らが制度的世話を提供すると、それに対する需要が一層高まっていくということである。しかも、その需要の高まりは、彼らがサービスのための制度を拡充できる速さよりも一層速いのである」(203頁)
→本書の最終結論部分であろう。学校のスリム化・「小さな学校化」は私の考える理想社会であるが、その理論を支える言説となるであろう。「学校化」とは「教えられるのを待つようになる」「教えられたことだけに価値がある」と考える思考形態のことをいう。学校がある限り、人々は自分から学ぼうとはあまりしない。学校というものの持つパラドクスである。
●「人々にその生産物が必要だと思い込ませるために使われた教育費は、その生産物の価格に含まれる。学校は、人々に現状のままの社会が必要だと信じ込ませるための宣伝機関である」(204頁)
→この「教育費」とは広告費のことであろう。
●「われわれは、期待よりも希望のほうが価値があると考える人々につける名前を必要としている。われわれは、製品よりも、人間を愛する人々、また次のように信じる人々につける名前を必要としている。
 まるでつまらないなどという人はいない。
 人の運命は、星野めぐりのようだ。
 人々それぞれに独特である。
 星それぞれが異なっているように。
と信じるのである。(207~208頁)
→この「名前」とはイリッチがラストでいう「エピメテウス的人間」のことである。
→「期待」とは人間が作った需要による欲求のことではないか。制度がもたらす欲求不満には際限がない。それよりもごく自然に存在する「希望」を求める生き方のほうが人間にとって住みやすい社会となるのではないか。
●「われわれは、次のような人々につける名前を必要としている。彼らは、プロメテウスの弟と協力して火をともし、鉄を鍛えるが、その目的は、他人のそばにつきそってその人の世話をしてやる自分たちの能力を高めることである。
 誰にも自分ひとりの世界がある。
 その世界でのすばらしいひととき。
 その世界での悲しいひととき。
 どれも自分ひとりのもの。
という認識を持ちながら。
 私は、これら希望に満ちた兄弟姉妹たちをエピメテウス的人間と呼ぶことを提案する」(209頁)
→理想の人間社会像。

おわりに
●この章は、「脱学校」にほとんど関係がない章であると思う。けれど、読んでいて感動すらする章である。

実験的小説・作家の日記

X月9日。
 原稿用紙をレイアウトしたパソコンの画面に、今日も幾ばくかの文字を入力していった。今日は某週刊誌に掲載している連載小説の第4回の原稿を書き終えた。ヒロインの美鈴が初登場する場面だ。設定は第一回から変わらない夏の大学である。学生がさびれた夏のキャンパス内。葉の生い茂った桜並木の下を、足音も高らかに登場するシーンである。我ながら、風情溢れる書き方が出来たものだ。なかなかに気に入っている。
 この小説の舞台は大学生の日常だ。自分の大学時代の自伝的小説にする予定である。読者感想を見る限り、すでにこれが私の私小説的側面を持っていることを見抜いた人も数名いるようだ。

10日。
 今日、1通のはがきが来た。今時、ハガキとは珍しい。文字を見たとき、まさに手が震えた。京子からである。淡い記憶が蘇る。彼女こそ、わが小説のヒロイン・美鈴のモデルなのである。
 彼女から、まさか手紙が来るとは…。兼業作家の私は本名を明かさない。職場の大部分の者にも内緒にしている。現にいまの連載の大部分は通勤の車内で書いているのだ。かっきり2時間、一日に執筆していることとなる。ずっとこのペースで仕事をしているのだが、いまの連載になって自宅でも書かないと締め切りを守れなくなってきた。そんなかつかつの状況の中であるが、佐藤孝雄という作家の本名を知るものなど、ほとんどいないはずなのだ。何故、京子から来るのだ?
 奇妙なことに、ハガキの表にしか文字を書いていない。裏面は全くの白紙なのだ。…意味があるはずだ。いつかエッセイで使ってやろう、と思う。

16日。
 第5回の連載を書き、メールに添付して送った。かつての作家は全て手書き。骨の折れるこった。
 今日も京子から手紙が来た。もう5通たまった。このところ、毎日来ている。すべて相変わらず白紙のままである。
 彼女は何をしたいのだ?

19日。
 小説論について、編集者Mとサ店で2時間ばかし、議論する。私の小説観はMとは180度違っている。それゆえに、興味深い議論となったものだ。
 私の持論をまず話した。それは次のものである。「小説にする以前に物語は終っている。読者は作家の創作した過去の物語を享受するにすぎない。読者は作家の追体験をするのみだ。誰もペンを持って続きを書こうとはしない」というものだ。
 Mは反論する。それはこんなものだ。「読書とはもっと創造的な行為ではないのか? 読者の『誤読』ですらも創造性とは言えないのか?」というものだ。

20日。
 京子からのハガキ、今日も届く。もう何通だろうか。不思議なことに、壁のコルクに貼ってあったハガキが全て無くなっていた。鞄に入れたはずのハガキも、気づけば無くなっていた。
 変なこともあるものだ。
 

21日。
 パソコンの過去ファイルから、懐かしい小説原稿を見つけた。
 大学在学中、4年間をかけて完成させた『人々の記憶』。私が実名で登場し、ヒロインの名前も京子である。桜並木の下、共に歩くシーンも、2本立て映画観で愛を確かめあったシーンも、書かれていた。どちらも我が『あいみての』のハイライトである。うまく書けると思ったら、かつて書いた内容であったからか。理由が分かった。
 懐かしい小説ゆえ、しばらく読みふけった。よくもまあ、これだけ自分の記憶を書き残していたものだ。大学時代は暇で良かったなあ。

23日。
 電車内で、驚くべき事実に気づいた。
 何と言うことだ! 私が真実と思っていたことが、全て私の妄想、いや想像力の産物であったとは! 
 いやいや、まだ混乱している。文章が支離滅裂だ。冷静になろう。私の小説『人々の記憶』。はじめに読んだとき、私の過去の経験を全て書き残した自伝的小説の意味合いを持たせていたのだと感じていた。我ながら上手に自らの過去をまとめたものだと感心していた。
 執筆したときの状況を思い出そうとした。これだけの大長編、どう書いたか気になるからだ。しかし、どうやっても思い出せない。書いた記憶すら、かすかにしか残っていない。
 それだけならまだいい。私は『人々の記憶』の中に、京子との記憶だけでなく大学時代の全記憶もがこの小説の中に存在していることを確認したのだ。なじみのS食堂も、L店も、この小説の中に執拗に出てくる。食堂のオヤジとの会話も、すべてこの小説に書かれている。私は本当にS食堂へ行っていたのか?

24日。
 仕事帰り、20年ぶりに母校のW大学へ。存在しているはずの桜並木がない。S食堂も、L店も、影も形もない。大学の敷地の配置が記憶とあまりにも違う。古びた建物全てに、見た記憶がない。

25日。
 さらに恐ろしい事実に気づいた。この『人々の記憶』には私の誕生の瞬間の回想シーンや、小学校時代の記憶など、私の半生の全記憶が書かれている。私の過去の記憶は、過去の私の妄想にすぎなかったのだ。
 では、「本当」の私の記憶はどこにあるのだ? 強く想像したことは五感すらを「真実」として感じさせてしまうようだ。
 小説『人々の記憶』は唐突に終る。「私」がパソコンのキーボードを叩くシーン。カタカタカタ…。カタカタ、という擬音語が延々と書かれている。不意に次の文章で終るのだ。
「過ぎ去りし我が記憶よ、消えてなくなれ! 時は逆回転をしないという。本当か? もし我が記憶を完全に入れ替えることができるなら、それは十分に過去を作り替えたことになるのではないか。恥ずかしき人生を送りし我が人生よ、さらばだ! 私は4年の歳月をかけ、『人々の記憶』を完成させた。この小説こそ、わが「記憶」となり、「過去」となるのだ」
 私が「記憶」と思っていたもの全てが、私の妄想にすぎなかったのだ! どうすればよいのだ! 

26日。
 記憶が嘘をつくのだ。美鈴なんて、いやしないんだ。ましてモデルの京子なぞ、存在するはずがない。存在してはならない。それをいうなら私は一体なんなのだ? 私の記憶にない本当の「私」の記憶はどこへ行ったのだ? 
 そういえば、私の時間感覚は大学卒業後からまともになった。それまではフワフワした感覚的記憶でしかない。学生の気楽さの産物だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 過去の私は自分の「過去」を変えるため、4年間の歳月をほぼ文章入力に費やした。そしていまの私につながる、まがい物の記憶を頭の中に入れたのだ。
 私は、過去の私が書いた壮大な物語を、事実として受け止めていた。過去の私という作家の書いた文章を、追体験していた「読者」にすぎなかったのだ。『人々の記憶』にない内容の記憶も、あることにはあった。しかしそれはMの言う「読者の誤読」による記憶とは言えないのか?

27日。
 いったい、過去の私は何故このように大それたことを行ったのだ? 何があったのだ? 私の身に、過去を消したいほどの不幸があったのか? ひょっとして聞くに堪え難い犯罪でも成してしまったのか? 記憶にないため、もはや何もかもわからない。私は一体、どんな半生を送ってきたのだ?
 過去を知りたい。そうでなければ、生きる価値がない。

29日。
 人は死ぬ瞬間、いままでの半生を走馬灯のように思い出すという。手元にカッターナイフがある。挑戦してみる価値があるかもしれない。いま風呂に湯をはっている所だ。左手首に深い傷を残し、自らは自らの本当の記憶と対面することとしよう。『あいみての』を完成させられなかったのは惜しいことだ。まあ、いいか。どうせ『人々の記憶』の焼き直しにしかならないのだから。
編集者の方:この日記をもしご覧になり、興味を持たれましたら、ぜひとも『あいみての』の代わりに御掲載願えますか? 私は命を賭けても、真実の過去を、それこそ「走馬灯」のように味わおうとしたのです。過去を知らずに生きている苦痛に比べれば、そちらの方が幸いです。文字数が足りなければ、『人々の記憶』の原稿が、デスクトップの『小説』フォルダに入っております。どうぞ、存分にご活用ください。

2009年7月6日月曜日

これからの時代における大学受験の意義

受験勉強は「学ぶ力」を学ぶ絶好の機会である。

もはや、学歴にはほとんど意味が無くなった。いまの早稲田生は一昔前の早稲田生より学力が大幅に落ちている(私に合格通知を出した時点でそれはいえる)。大学全入時代に入り、かつての有名大学も人をとるために必死だ。現に我が早稲田は大阪や佐賀にあらたな付属校を作っている。昔は早稲田大学「である」だけで人がきていたのが、学生募集を「する」ことがなければ人を集められなくなったのだ。

そんな時代でも、受験生は存在する。彼らは何のために学ぶべきなのか?

私は、受験勉強が「どう学習するといいのか」を習得する機会になれば良いと思う。

野口悠紀夫がいう通り、これからは社会人になったとしても勉強をしなければ生きていけない時代になった(『超・勉強法』)。いま大企業でも倒産/リストラをする時代に入り、人生後半から急に無職になる可能性が見えてきた。そんなときでも人が生きるには勤め先を見つける必要がある。再就職をすることを見越した上での人生プランが必要となってきた。

そんなとき、受験勉強を通じて「こういうふうに学習すればよい」と知っているのといないのとでは雲泥の差が出てくるであろう。人によって効果的な学習方法は様々である。ある者は暗記カードを作る方が記憶を強化しやすいであろうし、ある者はサブノートにまとめることの方が性にあっているであろう。ちなみに私の場合、学びたいテーマを扱った書籍を何冊も通読することによって学習をしている。受験の日本史・国語・英語を学ぶ際にとった方法だ(私立文系の私はこの3科目だけでよかったのである)。

日本史の場合、『石川 日本史の実況中継』という5冊本と『超速!日本史の流れ』シリーズ3冊をそれぞれ3回くらい通読、その後『菅野 日本史の実況中継』という古いシリーズを2度通読した。それだけで頭の中に日本史の流れがインストールされた気がする。この後、私は問題集を5冊くらいやり受験を迎えたのである。

問題集こそやらないが、現在の私の教育学ないし社会学の学習は上記をさらに徹底する形で行っている。

どのみち、これからの我々はずっと学んでいかないといけない。だからこそ、自分にあった学習スタイルと学習習慣の確立を大学受験で行う機会となると良いと思う。

2009年7月5日日曜日

『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

キーワード:教育的事物


 6 学習のためのネットワーク

教師と学生のどちらも、「欲求不満」。「予算、時間、建築などの教育のための資源が不十分なせいだ」(135)と述べる。
   ↓
「知識や大切に考えていることをいかにして身につけたかを明確に述べるように求められると、彼らは、学校の中でよりも学校外でより多くそれを習得したことをすぐに認めるであろう」(同)
   ↓
「学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。この新しい様式を育てるためには成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造とが同時に変革されなければならないであろう」(136)
→学校以外で「教育的関係」を新たに作っていく。社会での学び、ということか。宮台風に言えば社会システム内で人々が幸福を感じる生き方が出来るような教育プログラムを提供していく、ということになる。
   ↓
「成長に対する態度はすでに変化しつつある。学校に依存することに誇りを感じることはなくなっている」(同)
   ↓
「本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである」
「第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである」
   
一つの意義、どこにも到達しない橋は一体誰に役立つのだろうか

「私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のためのものである」
   ↓
政府や市場のイデオロギーとは違い、「学校制度はどの国でも同じ構造をもち、また、学校の潜在的カリキュラムはどこででも同じ効果をもっている。つまりどこででも、学校制度は近所の非職業的奉仕活動よりも、専門の制度によって生み出されるもののほうが価値があると思うような消費者をつくり出すのである」
→自律的に生きる人間ではなく、他者のサービスに頼る「消費者」を教育は作ることになる。
●「どこででも、潜在的カリキュラムは、(中略)助長する」
「助長する」内容は、
・「自分でやる能力を台無しにしてしまうほど他人からのサービスを受ける(消費する)ことを人々に習慣づける」:学校が「教えられるのを待つようになる」機能を持っている点をイリイチは批判していた。学校のこの機能のように、潜在的カリキュラムは人々の考える力・自分でやる力を奪ってしまう。
・「人間疎外を引き起こす生産」:チャップリンの『モダンタイムス』が描いた工場。しかし、いまはだいぶ改善されたはずだ。流れ作業だけでなく、チームで車体を組み立てる自動車工場がいまはある。
・「安易に制度に頼る」「制度の序列化を認める」:何かあると「社会が悪い」と我々はよくいう。たとえば「もっと社会保障を!」「弱者救済を!」。けれどこれらの主張は本当に自助努力を精一杯やった上で語られているのだろうか? どうも安易に頼るようになってくる。この「安易に制度に頼る」ような態度をイリッチは社会の「学校化」であると批判しているのであろう。

●国の制度に関わらず、「すべての国において学校は基本的には似たようなものになっているのである」(139頁)
●学校は「社会変革上の従属変数」ではない。「社会的経済的変革の結果として学校制度の根本的変革をなしとげようと希望することもまた幻想である」
●中国の科挙制度への高い評価。「三千年間にわたって、中国はどこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしないで、官吏登用試験に合格しさえすれば特権を与えることにより、比較的高度の学習がなされることを保障してきた」。
→フリースクールも同様に、「高検」を目指すならば結果的に「どこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしない」ことを実現できる。
●「脱学校化の必要性をはっきり認めない政治改革の計画は革命的ではない」
→学校がある限り、どの社会も「学校化」されてしまう。故に、ラディカルな社会変革のためには「脱学校化」実現により社会の「学校化」を阻止していく必要があるのだ。ただ、イリッチの先の言葉とこの言葉を見ると「脱学校化は不可能」と言っている気がする。どんなに政治改革をしても学校がある限り、社会は「学校化」する。ならば「学校化」をなるべく小さくする方向にしか政治改革のやりようがないのではないだろうか。
「1970年代における主要な政治改革の計画は、すべて次のような尺度によって評価されるべきである。すなわち、それはどれだけ明確に脱学校化の必要性を述べているか―また、それはその計画が実現しようとしている社会における教育の質をどうすべきかについてどれだけはっきり述べているかということである」(140頁)
→イリッチのいう通りである。日本の教育改革は「もっと学校でやることを増やそう」としている。だからうまくいかない。職業教育も、シチズンシップ教育も、知らぬ間に学校の中に入り込んできた。
 私の持論は学校の規模縮小(ダウンサイジング)である。学校でやることは知育のみにし、あとは学校外での学びの場・生活の場を増やしていくべきだ。これは社会システムの流れもくんでいる。これから、大人も一つの会社のみに通う時代は終わるだろう。ワークシェアリングにより、半日で会社がおわることもざらになってくる。そのとき、有り余る時間を地域のサークル活動や勉強会、スポーツクラブで大人が過ごすこととなる。大人がその社会に生きているときに、子どもが一日中学校に縛り付けられていることに違和感が持たれるようになるだろう。子どもも学校で短い時間を過ごし、なるべく多様なコミュニティーやサークルで生活していくほうが将来のためになる。「有り余る時間を何に使うか」という教育になるわけだ。けれど、これを学校が行うと本末転倒である。学校外の時間は個人の責任と自由によって使い方を決めていくべきだからだ。大人のコミュニティー活動に子どもも参加していく。そうすると、学校外での「社会での学び」が成立するようになる。
 つまり、学校でやること・学校で過ごす時間を減らしまくっていくことが、将来の子どものためになるのだと思う。

新しい正式な教育制度の一般的特徴(140頁〜144頁)

●「すぐれた教育制度は3つの目的を持つべきである」
⑴「誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること」
⑵「自分の知っていることを他の人と分ちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること」
⑶「公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやること」
→⑶は政治活動の自由につながっているのだろう。
●「学習者は、特定のカリキュラムに従って学習することを義務づけられるべきでない」
●この結果、「すぐれた教育制度の下では、本当に誰もが自由に論じ、自由に集会を持ち、自由に報道ができるようにし、またそれゆえにそれらのすべてが十分に教育に役立つものとなるように近代的科学技術が用いられる」状態を目指していくことになる。

●「学校は、次のような仮定に基づいてつくられている」
⑴「人生の何ごとにも秘訣があるということ」
⑵「人生の質はその秘訣を知っているかどうかによって決まるということ」
⑶「その秘訣とは秩序のある過程を連続的にたどることによってのみ知りうるということ」
⑷「教師だけが適切にこれらの秘訣を明かすことができる」
●「新しい制度は、身元などの証明書や家柄や門閥にかかわりなく学習者が利用できる学習経路、すなわち―彼のすぐ近くにいない仲間や目上の人々をも利用できるようになる公共の広場―であるべきである」
→生まれによる文化資本やハビトゥスを排除するという構想が含まれているようだ。
●「『学習経路』、すなわち学習したことを伝授しあう機会があれば、それだけで真の学習に必要なあらゆる資源を含むことができると思う」
→「伝授しあう機会」とは、現代ではブログ空間をさすことができるのではないかと考える。イリッチの主張を実現するには生身の人間同士が会うよりも、ブログによる学習のほうが問題が少なくなるとすら考えられる。生身の相手と会うとき、相手の年齢・性別や身分という外見に引きずられ、本来の目的である自由な学びがなおざりになってしまう危険性がある。子どもと大人が出会い学ぶときにも、この危険性や誘拐・暴行の危険がある。けれどブログ空間では見た目の差別はなくなる。誰とでも対等に学ぶことができるのだ。
●4つの資源を利用可能にする特別な方法:「機会の網状組織」。
「必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである」
例:ラテンアメリカにおけるテープレコーダーのネットワーク構想。「字の読める者にも読めない者にも同様に彼らの意見を録音し、保存し、広め」ることできる点が構想の理由である。このネットワーク構想にはフレイレの影響があるように思われる。フレイレの学校によらない識字教育は、政治闘争の側面も持っていたからだ。衆愚政治を出し、よりよき民主政治を実現するための方法として、このネットワーク構想が挙げられているように思う。
●「科学技術自体は、人々の自主性を伸ばし、学習を発展させる目的のためにも、あるいは官僚主義と他人に教えることを発展させる目的のためにも、利用できるのである」
→何のために科学技術を使うかが重要である。

四つのネットワーク(144〜146頁)

●「『何を学ぶべきか』という問いからではなく、『学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか』という問いから始めなければならない」。
→制度として個々人の学習を考える(「何を学ぶべきか」という「べき論」)のではなく、学習者主体の学習観が必要である。ちょうど、近代公教育が「国民育成」(「べき論」)から始まったことと軌を一にしている。
●「学習をしたいと思う人は、自分にとって情報と、その情報の使い方に対する他人からの批判的反応との両方が必要であることを知っている」
→あんまりいい訳じゃない。「学習をしたいと思う人」がここでいったことを「知っている」ことなんてそんなにあるわけじゃない。
→集団による学びをイリッチは意図しているようである。正統的周辺参加、と教育心理学でいわれている。参加による学び、である。学びにおける同僚性の重要性は「従来、教育のための資源とは考えられなかった」(145頁)。あまり意識されてはいないが、イリッチは「集団による学び」の重要性も指摘しているのである。
→ソーンダイクらのティーチング・マシンの欠点は、学習を単独での営みだと捉えた点である。正統的周辺参加を意識した学びでなければ、よほど意志力のある学生でないと学ぶことができない。大学の通信教育課程での卒業者が2割以下に留まるのはそのためである。通学していれば、たとえ友人がいなくとも「自分以外にもこんな人たちが同じ授業を受けているのだな」と実感し、学習にいそしむことができる(通学課程のほうが圧倒的に単位がとりやすい、という側面ももちろんあるが)。
●「われわれは、新しい関連構造について考えなければならない。それは、教育のための資源を求めようとする誰もがその資源を便利に利用できるように意図的につくり上げられる関連構造である」
→ブログ空間は知らぬ間にこれを作り上げてしまった。ブログ空間が学習に使える、ということを多くの人は知らないだけであるのだ。
●「どんな教育のための資源も利用できるようにしてくれる様々なアプローチを、4つに分類して示そうと思う」
⑴教育的事物のための参考業務:「正式の学習に用いられる事物や、過程の利用を容易にする」
→工場内に自由に使える機械を置いておくなど、人々が自由に学べる機会を保障する働きがある。
⑵技能交換(160頁から)
⑶仲間選び
⑷広い意味での教育者のための参考業務

教育的事物のための参考業務(147〜159頁)

●「ある人の環境の質と彼がその環境に対してどのような関係にあるかは、彼がどれだけ多くを偶然に学ぶかを決定するであろう」
→文化資本やハビトゥスにつながる話である。通常、経済的に貧しい家に生まれることは、文化資本の貧しい家に生まれるということと同義である。
●以下の部分で、機械や道具・書物などを自由に使えるよう環境整備することによって「偶然による学び」が起こるようにしている。イリッチはそれにより、文化資本やハビトゥスの不公平さを是正しようとしている。
→いま公立の無料の博物館や郷土資料館が多く街には存在する。けれど、十分に活用されていると言えるのだろうか? 子どものまわりに「偶然による学び」が起こるようにいろんなものを配置したとしても、それが活用されるかどうかはまた別問題なのではないだろうか。
●機械それ自体への、イリッチの批判。専門家しか時計をいじれなくなったこと等を通じ、彼はこういう。
「専門家がその専門的な知識をわかりにくくし、他人の値ぶみをますます不可能にして、人々の発明心を抑制する社会となることを促進する傾向がある」
→近代文明はブラックボックス化をもたらした。たとえば、今私はマック・ブックでこの論考を書いている。この白いPCの内部がどうなっているか、私は知らない。カラフルなコードが複雑に絡み合っているのかもしれないし、一枚の小さなLSDが全てを制御しているのかもしれない。ひょっとすると小さな妖精が入っているのかも…。内部構造を知らなくても、パソコンは使えてしまうのだ。これぞブラックボックスである。
「教育上の材料は学校に独占されてしまっている。簡単な教育用の事物が知識産業によって高価に包装されている」。知のブラックボックス化・知のパッケージか。文明のあり方への再考が必要だ。
●本来、教育の役に立つはずの「事物」が日常から切り離される。学校や社会のしわざだ。
●「物をカリキュラムの一部分としてのみ利用することは、それらを一般的な環境から取り去るだけのことよりも一層悪い影響を与える。それは、生徒の態度を堕落させるのである」
●「教育用のゲーム」を積極的に活用していくべきだ。そうすれば数学の集合論や言語学などが「ほとんど骨を折らずに理解できる」。
→ニンテンドーDSでは英単語『ターゲット1900』や数学の問題集、歴史用語学習に役立つソフトが多く出ている。宅建用のソフトも出ている。「教育用のゲーム」を活用するイリッチのアイデアは、かなりの程度実現している。授業の中で「じゃ、この時間はDSを使って自由に学習してください」という時間はまだないが…。
→イリッチは続けて、「教育用のゲーム」が競争を刺激することがないようにすべきだ、と指摘する。問題児とされる子どもなどには「教育用のゲーム」は「人間性を解放する教育の特殊な形態」となる。
●ここまでのイリッチの指摘は学校の「外」に教育用の事物を多数配置していくべきだ、というものであった。イリッチはこれらの事物が学校に置かれていると、管理や保管をするのに多くのコストがかかるという論を展開し、先の「学校外に教育用の事物を配置していくべきだ」との主張を別の視点から説明している。
●トランジスタラジオや小型運搬車の例。ここから皆が必要に応じて活用できる「相互親和的」な設備を社会に設けていく必要性が語られる(「制度スペクトル」の欄を参照)。
●「人工的に作られたものを教育のために脱学校化するためには、その加工物や製造過程を誰にでも利用可能なものとし、―それらの教育的価値を認めること―が必要となるであろう」
●イリッチは「もしも学習の目標 」と語る。そのあとに社会の至る所に学習を気軽にできる施設(図書館やジュークボックスなど)が多く作られることの重要性を語る。けれど、ここでいったものをわざわざ街の中に作るとき、田舎では難しいものとなる。現代ではそこまでしなくても、ネットで音楽も調べられれば写真を持ってくることも出来る。
 ただ内田樹は大学や学校にいろんな人がいて、知らぬ間に学びに引き込まれることの重要性を語る。人との出会いが少なくなる現代、あえて社会の中にネット同様の多様な教育的事物との出会いの場を設けることが大事なのだと思う。
●「学習用事物」のネットワークの財源をまかなう2つの方法。
学校の「儀礼的」側面に使われている費用を、市民の教育のための事物購入費用に充てる。
●子どもを少しの時間雇う者に税制上の優遇を行うべき、との主張。「12歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任を持つ人間であると認めることである」
。そうすることで「彼らは、知識や事実を発見する彼らの能力を民主政治上の仕事に活用できるようになろう」。徒弟制度の意義を再確認する必要がある。
●ある思想家は「社会における教育の意義を考えるのではなく、教育のために社会が何をできるかを考えるべきだ」というパラダイム転換を主張した。いわゆる「教育のための社会」の主張である。イリッチの本を読んでいると、この「教育のための社会」という構想を実現しようという志が感じられてくる。
●「科学の多くは市民の手の届かないものになってしまった」現状への批判。教育的事物を社会に配置することでこれを解決しようとしている。
●「教育の目的で人々が共有できるそれらの事物をどんどん利用していけば、われわれは十分に啓発され、これらの究極的な政治的障壁を突き破るのを大いに助けられるかもしれない」。
→いまリナックスなどのオープンソースのソフトウェアが多くある。ネット空間では、データを一人で独占するのでなく、多くの人が触れることのできる「共有」化する時代に入った。
●「学校を制度的に逆転させれば、個人は教育のためにそれらを用いる権利を取り戻すことができるようになろう」。





追記
●シャノアールでこのレジュメを作成している。店員が走ること、走ること。少ない人員でがんばっている店なのだと同情心が起こる。奥でガラスの割れる音が頻繁にあるのには閉口する。

映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)

『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)

 宮台真司によれば近代初頭、人々ははじめて「見知らぬ他者への信頼」をしなければ生きられなくなった。
 たとえば床屋。見知らぬ理髪師にヒゲをそられる。切れ味鋭いナイフで。ひょっとすると、目の前にいる理髪師は殺人鬼かもしれない。けれど、信頼しなければヒゲをそることもできない。
 たとえばレストラン。何の肉かも分からない。それ故、日本にマクドナルドが入ってきたときも「猫の肉を使っている」「実はミミズの肉が使われているんだ」という噂が広まった(宮台の本より)。
 いまの社会は「見知らぬ他者への信頼」によっている社会である。けれど本来、「見知らぬ他者」は不安を感じさせる相手なのだ。人々の不安が、スウィーニー・トッド伝説を作り上げた。いかにも「ありうるかも知れない話」ゆえに、たびたびミュージカルで上演されてきた。
 本作はその伝統を踏まえたミュージカル映画である。主人公・スウィーニー・トッドの生きがいは美しい妻とかわいい娘であった。床屋の仕事にも熱がこもる。けれど、彼の妻の美しさに惹かれたターピン判事によって彼は無実の罪で捕らえられてしまう。15年後にようやくかつて暮らしたロンドンに戻ってくることができた。けれど、妻は死に、娘はターピンの保護下にあるという事実を知る。
 復讐のため、理髪店を再開させたトッド。判事を理髪店におびき寄せ、ヒゲをそるふりをしながら喉元をきって殺そうとする。待つ間、1階のミセス・ラヴェットと共謀して恐るべき犯罪を行い続けることになる。それは①2階の理髪店に来る客の喉元をカミソリで切り、②その肉を使ってラヴェットが1階のレストランでミート・パイを作り客に食わせる、というものだ。肉が新鮮なものだから、レストランは大繁盛なのだ。
 2階の床屋で殺した人間の肉が1階でミートパイになるという恐怖。ゾクゾクしてくる。観た後で、見たことを後悔する映画はたまにあるが、本作もそんな映画の一つのような気がする。しばらく床屋にいけなくなったからだ。
 映画を最後まで見て、いろんな意味で「見知らぬ他者への信頼」によって近代が成立しているんだな、と気づいたのである。だって、「見知らぬ他者」と思っている人が実は「最愛の人」であったのだから…。


 教育学徒として一言。 
 本作ではトビーという子どもがキーパーソンを演じる。彼はミセス・ラヴェットのレストランで働くことになる人物である。彼は孤児院出身。はじめに「引き取って」くれた人物はトビーを自分の商売のためこき使っていた。本作の舞台となった19世紀中葉のイギリスでは児童労働が当たり前だったのだ。
 この映画の舞台となったのは、子どもが結局損をする社会である。孤児院は「ひきとる」という名目で虐待的待遇で働かせる「大人」に孤児を渡す。その例が『オリバーツイスト』である。イギリスの子ども(特に孤児)の悲惨さを知れば、『子どもの権利条約』が成立した背景が分かる。マルクスも『資本論』で子どもの悲惨な労働の状況を批判している。
 イギリスは人権先進国という。たしかに「人間」に権利を認めた。しかしその「人間」は生物学でいう人間とは別物だった。はじめは貴族、つぎは資本家、つぎは平民男子が「人間」だった。女性や「子ども」が「人間」扱いされるようになるのは最近のことである。つまり、かっこつきの人権思想であったのだ。

2009年7月3日金曜日

自民党の日教組批判に思うこと。

ヤンキー先生こと義家弘介氏のウェブサイトを見ていた。
リンクに「あきれた教育現場の実態」という、自民党の意見サイトがあがっていた。

内容は日教組批判。
半分正しく、半分間違った内容がずらずら書かれている。

腹が立ったので、以下のコメントを送った。

恩師O先生も言っているが、民主主義の基本は「声を上げること」である。
昨日のゼミでも先生は「死刑執行のたび、執行した刑務所に死刑反対の手紙を書いている」と語っておられた。自身の信条は外に出さなければ社会に影響を与えることはできないのだと思う。

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日教組問題について、非常に勉強になりました。 ですが、1点、疑問を感じました。本文に、次の内容があります。
広島県の日教組(広島県教職員組合)は、卒業式での国旗・国歌の実施に激しく反対しました。石川校長は苦悩の末、ついに自殺という道を選ばざるを得なかった。そこまで日教組は石川校長を追い詰めたのです。 日教組による、良心的校長への常軌を逸した「いじめ」。
実際、石川校長の自殺には広島の日教組が何らかの原因になったことは事実でしょう。ですが、問題は日教組のみにあるのではなく、国旗や国家を卒業式の際に実施するよう指示をしてきた文科省や自民党の文教族にも原因があるはずです。 石川校長は日教組の「いじめ」によって自殺したのではなく、自民系の「国旗・国家を実施せよ」との指示と、日教組の言う「実施するな」との軋轢に悩んで自殺したのだと私は考えます。石川校長の自殺の原因を日教組のみに押し付けるのは責任転嫁もいいところではないでしょうか。

2009年7月1日水曜日

私の読書法、あるいは勉強法

私は一人の作家にハマったとき、徹底的にその人の本ばかり読むというクセがある。

同一作家は複数の本で同じことを何度も何度も言及する。そのため沢山読んでいると、少しずつ理解が及ぶようになってくる。

いままで、灰谷健次郎と内田樹などにこの方法をもちいてきた。

いま宮台真司を読んでいる。

難解ではあるが、読む中で彼の思想が少しずつわかってきている。

同一作家の本を読んでいると、その人物が体内に入り込んでくる。そうなってきたら、あとは楽だ。何人の作家を体内に入れられるか。これが勝負だろう。

最終電車

最終電車の車内で化粧している人を見た。

どういう理由で真夜中に化粧をしているのか気になった。いまから逢引きにでもいくのだろうか?

ともあれ、男にはわからない世界が女性にはあるのだろう。ふと思った。