2009年5月30日土曜日

深夜バス

私は今深夜バスに乗っている。22時10分、東京発のドリーム神戸号。出発から3時間。うとうとしたら目が覚め、そのまま。夜の長さを死ぬまで味わう。暇潰しのため、毛布をかぶってこれを書いている。

ああ、昼間さんざん昼寝しなければよかった。昼夜「半」逆転の怠惰な生活を反省。

さっきまでiPodで長井秀一のネタを聞いていた。もう聞くべきコンテンツがない。眠れそうもない。足元のカバンにはパソコンがあるが、ディスプレイが明るすぎるので周りの迷惑となる。さあ、どうする俺?

読書灯は暗すぎて本が読めない。だいたい、ランプの明かりが変な形に本に現れると読む気が失せる。

新幹線で帰るべきだったか。

まあ、これもいい思い出となるだろう。少なくともPPJこと逸見遥(へんみ・よう 漢字は合ってる?)の執筆のつらさはよく解った。半身不随のためキーボードでなく携帯でしか文字を打てないのだから…。

価値を見いだせないものに無理にでも価値を与える。それこそ価値的生活だ。いまのこの<眠れない>地獄も、新たな思索のヒントとしていきたい。

…もし本当に一睡も出来なかったら、辺りが明るくなる5時ごろからパソコンを開こう。まだ観ていない黒澤映画『乱』が入っているのだ。

2009年5月29日金曜日

教育実習への道。

石田一です。

来週から母校の中学校にて教育実習です。

あまりやる気が出ません。恐怖すら感じております。何故でしょうか?

各種団体・サークルであんまり役に立てていない「お荷物」の自覚があるためでしょうか。そんな自分が人の子の教師になって、よいものか、と思うのです。

…というのは嘘ですが、おそらく教職過程のなかで最も面倒なものに挑むためではないでしょうか。3週間拘束して教育を与えるという実習はしんどすぎます。

教育実習は自動車学校に毎日通うようなものです。学業的基準とは違う尺度で絶えず計られます。大学では学業的価値のみで判断される分、それ以外の尺度(教員としての適性など)で計られるとしんどくてしかたなくなるのです。

まあ、人生で大事なのは「やる気のおきない仕事を、いかに楽しく行うか工夫すること」だと私は信じてますので、教育実習に楽しさを見いだせる努力をしていくつもりです。

ウルトラマンの代理戦争

正義の味方・ウルトラマン。彼(ら)は命を懸けて地球のために戦っている。本来、自分に関係ないのに。まさにホワイトナイト(白馬の騎士)。

ところでもしウルトラマンが地球を守っているのでなく、ウルトラの星(およびM78星雲)と怪獣との『代理戦争』を地球で行っているとすればどうだろうか? もはや正義ではなく、話は180度逆になる。

ベトナム戦争や朝鮮戦争は米ソの代理戦争であった。代理戦争で損するのは戦われている現地の人間である。
代理戦争において、力のある側は味方のふりをする。『ベトナム人民の味方』をソ連は演じ、『共産主義からベトナムを守る』仮面をつけたのはアメリカであった。

代理戦争はウルトラマンそのものではないか!
総力戦ではないのがせめてもの救いだ。

2009年5月22日金曜日

そんな裏技が…

注意をしているようだが…。

「そんな裏技があったのか!」と犯罪教唆になるのではないか。

新明解に火炎ビンの作り方が載っているようなものである。

2009年5月21日木曜日

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』に見る、「価値の制度化」・「脱学校」という言葉の意味合いについての一考察。

*本稿は、大学のゼミで2009年5月21日(つまり今日)に私が発表する予定の原稿です。このブログで書いてきたことを踏まえ、イリッチの「脱学校」や「価値の制度化」を整理しました。

1、はじめに。

 私は2年生の頃からフリースクールについて専門的に研究してきた。卒論もフリースクールを社会学的に考察することで書き上げたい、と考えている。その際、イヴァン・イリッチら脱学校論者の文章を基に、フリースクールなどのオルタナティブスクールの展望をしていきたい。
 それにあたって、フリースクールにつながる発想である「脱学校」について、一度整理しておく必要を感じている。整理することで、新たな視点からフリースクールについて見ていくことが可能であると考えているからだ。そのため今回はイリッチの著作『脱学校の社会』を基に、「脱学校」とはどのようなものかを押さえていきたい。
 そのために本稿では「脱学校」を理解する上で必要な「価値の制度化」という概念を見たあと、改めて「脱学校」について見ていく。

2、「価値の制度化」とは何か。

(1)「価値の制度化」についての自分の考え。

 イリッチの文章をまず見てみる。

多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。(中略)「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(13頁)

 ここで語っているのは、「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
 これは何を意味するのであろうか。
 本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
 これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリッチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。

(2)「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か。

 再び、『脱学校の社会』の文章を見てみる。

私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである。(14頁)

 この文章は(1)で説明した、価値の制度化についてのイリッチの考察である。このなかでイリッチは「物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化」という例を挙げて現代文明に警鐘を鳴らしている。つまり、イリッチは現代の「価値の制度化」という問題を訴えたいのであって、学校は一つの例にすぎない。価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしているのだ。

 再び本文に戻る。

必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである。(14頁)

私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ。(15頁)

 つまり、イリッチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではないのである。「脱学校」は、あくまで2次的な目標である。イリッチ自身が「書きやすい!」と感じた好例だったため、学校をテーマにしているのだろう。先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」であるといえる。
 「価値の制度化」を行うべき物の例として、イリッチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」を挙げている。

私は学校の潜在的カリキュラムの分析を通して、社会の脱学校化は公教育にとって
プラスになるということ、そしてそれと同様に、家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーションも、同じような過程を経ることから利益を得るであろうことを明らかにしようと思う。(15頁)

 この文が示している通り、価値の制度化を排す手法は「脱学校化」と同じプロセスなのである。
 イリッチは続ける。

その分析(価値の制度化を排すことで利益を得られる、ということの分析)のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう。(15頁)
*(  )は藤本。

 ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。
 なお上野はこの本の中で次のように「学校化社会」を説明している。

もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50 頁)

 イリッチの定義と宮台・上野の定義とは若干ニュアンスが異なっている。けれど、「学校化」の現代的意義を説明していることにかわりはないであろう。

 本章のまとめを行う。イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎないのである。

3、「脱学校」とは何か。

 教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどだ(聞き書きなので、出典を探します)。けれど実際にはイリッチは〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。

イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)

 脱学校とは、単に学校を廃止することを意図したものではないのである。そもそもイリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。『脱学校の社会』でも、大学や技術修得の学校は存続させることが必要であると書かれている。
 イリッチは価値の制度化により〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と考える姿勢をこそ批判したのである。

学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである―両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(32〜33頁)

 先に「価値の制度化」について見てきた。「脱学校」とは〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉とみる「価値の制度化」の状況を乗り越え、本来的な学びの復権を図ろうとすることをさすのである。
 
4、「脱学校」の現代的意味について。

 〈イリッチがいうほどまで制度を変えなくとも、脱学校は可能だ〉、というのが『脱学校化社会の教育学』のテーマである。本書は2009年の発行。脱学校化というものの現代的意味についてまとめられている。
 タイトルである『脱学校化社会の教育学』は「脱「近代教育」社会の教育学」と理解するほうが、誤解が少ない。つまり、『脱学校化社会の教育学』の著者たちは近代公教育制度批判と「脱学校」を同じものと見ているのだ。

 先に見てきた通り、イリッチは制度による教育ではなく、教育的関係による教育を訴えたのであった。

学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。(136頁)

 この文章のあと、イリッチは「新しい様式の教育的関係」として「学習のためのネットワーク(ラーニングウェッブ)」を示している。けれど、ラーニングウェッブ導入をすることだけが、「教育的関係」を創り出すことにはならないと考える。イリッチは「学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)といっている通りだ。
 PISAショック以来、フィンランドの教育が着目されるようになっている。フィンランドでは少人数による学びが導入されている。また佐藤学は90年代後半から(つまり浜之郷小学校開学から)「学びの共同体」を実践している。両者は子どもの協同な学びによる授業を行っている(『脱学校化社会の教育学』)。
 イリッチは近代社会を支えるために開発された「近代公教育制度」を批判したのであって、学校それ自体の廃止を訴えたわけではない。日本的意味では、文科省支配下にある「学校」(学校教育法でいう1条校)による教育を批判しているのである。イリッチは一方的な教員による教え込みを批判している。であれば、そうでない学校、つまり近代学校らしくない学校の導入をこそ展望していたと言える。
 無論、学びの共同体やフィンランドメソッドでイリッチの主張をすべて実現できるわけではない。けれどイリッチの主張に近いのは確かである。
 まとめを行う。『脱学校化社会の教育学』の中において、近代公教育制度批判と「脱学校」は同義である。これは現代の教育学においてもそうであると言えるのではないだろうか。

「4、脱学校の現代的意義について」の追記。
このあと、友人のOと話し、重要な点に気づいた。

Oは『脱学校の社会』に学校改革を期待することを〈インドカレー屋でカレーうどんの話をすること〉という絶妙な比喩で批判した。

もともと、「脱学校」とは脱構築主義に基づく概念である。脱学校論は「まず学校の解体ありき」の話のため、脱学校論に「学校を解体しないとき、どう改良できるか」を要求するのはお門違いなのだ。

その点『脱学校化時代の教育学』は、根本的に「脱学校」を理解し損ねていることがいえる。「脱学校」とは、イリイチのいう定義(「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」『脱学校の社会』59頁)に当てはまる「学校」を廃止することを訴えている。そのため、現状の学校内での「教育改革」や「近代公教育批判」をおこなうことは、「脱学校」では語ってはならない事柄なのだ。私もすっかり誤解していた。「近代公教育批判」と「脱学校」は同じではない。本文もそう修正すべきだが、私が騙されたという経験を忘れないためにもそのまま残しておくことにした。

 あれ、でもイリイチのいう「学校」にあてはまらない実践をする学校教育なら、「脱学校論」で語れるんじゃないだろうか? 残念ながら『脱学校化時代の教育学』はフィンランドメソッドや「学びの共同体」など、イリイチのいう「学校」に当てはまる実践くらいしか取り上げていない。もっと言ってしまうと、この本は幼児教育の本なので、そもそも「学校」を語るのは本題ではない。にもかかわらず、イリイチの「脱学校」をタイトルに謡うのは反則ではないか(幼児教育は「幼稚園」でおこなうものであり、「学校」でおこなうものではないからです)。そのため、『脱学校化時代の教育学』はイリイチの「学校」定義を超えた学校の実践を取り上げるべきであったのだ

イリイチの「学校」の定義をこえる教育活動として、一番簡単にイメージできるのは大学であろう。私のいる早稲田大学でも、定年後に入学してきた60歳の学生がちらほらいる(イリイチの学校の定義「特定の年齢層」に当てはまらない)。大学は出席しなくても単位が取れる(イリイチの定義「履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求」に当てはまらない)。イリイチの「学校」に当てはまらないからこそ、彼が〈脱学校化をおこなっても、大学や技術学校は残すべきだ〉と主張しても矛盾は生じないのである。
昨日、偶然に都立新宿山吹高校の存在を本で知った。この学校は無学年・単位制の高校である。宮台真司らの『学校が自由になる日』でも絶賛している学校だ。異年齢集団が通学でも通信でも学ぶことのできる高校。これもイリイチの「学校」定義から外れた学校である。
『脱学校化時代の教育学』とのタイトルを使うなら、イリイチの「学校」から外れた学校をこそ、取り上げるべきであったのだ。

この、脱学校論の「誤解」を改めるだけでも、卒論になりそうだ。

5、イリッチの脱学校に対する私の批判。
 
 いままでずっとイリッチの脱学校論について考えてきた。そのイリッチは「脱学校」を訴えることで本来的な学びの復権を訴えている。
 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものであるといえる。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。

たとえ教科の内容はまったく理解できなくても、生徒は学校で勉強することで知らず知らずのうちに、時間の厳守、おとなしく着席している忍耐力、あたえられたノルマをはたそうとする動機づけ、規則や上位者の命令に服する秩序感覚、他人と協調してゆく能力といった、総合的「道徳」能力を学んでいるわけである。(森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000、184頁)

 イリッチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。けれども、私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき(ちょうどイリッチ主張する、ラーニングウェッブの世界だ)、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリッチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
 カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる(『自殺論』)。これを、学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリッチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 イリッチのいうように、一概に「学校」の廃止を主張は出来ないのではないだろうか。

「5、イリッチの脱学校に対する私の批判」の追記。

発表後、「デュルケームと脱学校は何の関係もないから、例としてはあげないほうがいい」とのアドバイスを頂いた。おっしゃるとおりです。次はもっと適切な比喩を使おうと思う。

6、参考文献

青木久子・磯辺裕子『脱学校化社会の教育学』萌文書林、2009
イヴァン=イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』東京創元社、1970
上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002
エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985
奥地圭子『不登校という生き方』NHKブックス、2005
田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、2003
森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000

*以下のサイトも参考にした。
小春日ダイアリー http://nak-koharubi.blogspot.com/

『脱学校の社会』解説より

「脱学校の社会」というのも単に社会から「学校」を無くすことを指しているのではなく、「社会の脱学校化をはかること」を意味しているのである。それは「脱学校化された社会」(deschooled society)というのが「学校化された社会」(schooled society)に対応させられていることからもわかる。(220頁)


『脱学校化社会の教育学』

『脱学校化社会の教育学』が言おうとしていることは、「学校のパラダイム転換」としての「脱学校」ということである。

小手先の改革ではなく、パラダイムの転換である。そのためには、教育という営為そのものを問うというアプローチが必要であることを、著者らは繰り返し述べてきた。(272頁)

追記
 のちに小中さんとの話し合いの結果、『脱学校化社会の教育学』の内容は「脱学校」を正確に捉えていない、ということになった。「脱学校」は「まず学校の廃止ありき」の発想である。学校という制度内の変革を少しも説いていない(インドカレー屋でカレーうどんを注文するくらい、無理な話だと小中氏は語った)。けれど『脱学校化社会の教育学』は近代の「学校」ではなく、これからの時代に適合した新しい「学校」のしくみを作ろう、と語っているのである。「脱学校」は学校廃止・学校外での教育制度を語った概念である分、『脱学校化社会の教育学』的認識の仕方は端的に間違っているのである。

『サヨナラ、学校化社会』にみる、「学校化」

 上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産するカラクリのなかで、学校はなにをやってきたかというと、学校的価値を再生産してきました。
 学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。だから学校はつまらないところです。いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値一本で評価することを学習するのが学校なのですから。
 その学校的価値が学校空間からあふれ出し、にじみ出し、それ以外の社会にも浸透していった。これを「学校化社会」といいます。学校化社会という用語はもともとはイヴァン・イリイチの言葉ですが、最近は別な文脈で流通しています。それというもの、宮台真司さんが学校化社会という用語を使っているからですが、私はこれを卓抜なネーミングだと思います。(50頁)
 上野千鶴子は「学校化社会」をこう説明している。
 追加説明として脚注に「学校化社会」として、さらに説明を加える。

学校化社会
もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50頁)
 ただ、田中の『教育学がわかる事典』では「学校化」の意味は宮台の『終わりなき日常を生きろ』に書かれている、と示されているのだが、私が『終わりなき』を読んでも結局最後までそういった記述を見つけられなかった。何故だろう。
 引用した2章「学校に浸食される社会」の終わりには、上野が学校化社会を総括した次の言葉が書かれている。
学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。(57頁)

2009年5月15日金曜日

岡庭昇『戦後青春』三五館、2008年

 文芸評論家・岡庭昇の労作。今日の授業中に読了。オビの「難解ではあるけれど、じつに面白い本!」に偽りはない。
 言及すべきポイントも多い本だが、ここではブログの内容も考慮した上で、イリッチに関する所のみを扱うことにしよう。

われわれはすでに客観的な社会の構造批判としては、ちょうどスチューデント・パワーによって教育が根底から懐疑にさらされた七〇年代の思想としての、イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(一九七一年)を持っている。それは優れた個別教育論であるが、この時代の論考らしく教育を論じることが、人と人との関係の本質を衝くという広がりと本質性を持っている。(209頁)


→イリッチを「70年代思想」として見ることも大切だ。

いま日本のもっとも駄目な側面を反省するなら、その一つはさきに検討した「学校化社会」の徹底だろう。それはいまや、日本国民全体のルーティンを形成している。物事に「等級」を付ければ事足れりというような感性は近くは絶対主義的な江戸社会の特徴でもある。だがそれは現在ますます認識の前提になり、政治や行政のすべてである。それどころか「等級」こそが事物の本質であると看做されるような社会にまで、逆行しつつあるのではないか。勲三等といった軍人風の「栄誉」を与えられても、馬鹿にするなと怒る芸術家の例を近ごろは絶えて聞かない。(217頁)


イリッチは教育という美名で民衆が刷り込まれる、奴隷制というカラクリを問うた。教育とは抽象的な原理ではなく、どのように、誰のために、何を教えるかにおいて、民衆にとって啓発と隷属という正反対の位相になることを説いた。価値判断を持たない限り、教育こそが帝国主義を再生産する道に他ならないことを。(225頁)


最後に、印象深かった所をもう一カ所のみ引用する。
自分が変わることが肝心だと心得る行為は、同時に世間を変える使命にすでに取り組んでいるのだ。(116頁)

2009年5月13日水曜日

価値の制度化について。

次回、私がゼミの発表をする。前期2回目。まさかの無茶振り。ネタを捜すため自分のブログを読み直す。たいてい、使えるネタが落ちているものだ。読んでいて「ああ、この文章、自分の感性にあうなあ〜」と思ってしまう(当たり前)。

ざーっと読んでみた結果、《イリッチ『脱学校の社会』に見る、「価値の制度化」の持つ意味合いとは》というテーマが頭に浮かんできた。小中さんとの勉強会が役に立つ。

追記
●何気なく〈価値の制度化〉とgoogleで検索すると、本ブログがトップでヒットした。驚きである。自分がよくわからないから検索しているのに、自分のサイトが出てくるなんて…。困っちゃいますね。
 ただ、日本語の分かる人間のうち、何人がこの言葉を検索するのだろうか。心もとなくなる。

2009年5月12日火曜日

高校生畏るべし

 私が母校の寮に学生ボランティアとして関わるようになって、今年で3年になる。関わりはじめた頃の高校1年生が、来年には卒業していく。感慨深い年である。高校生と話す方が、早稲田生と話すよりもためになる事がけっこうあるのだ。
 昨日は寮生のK君と洗面台のそばで話した。彼は高校1年生である。

K「石田さんは今まで何冊本を読んできたんですか?」
私「大学時代に、ざっと750冊くらいかな」
K「じゃあ、良書は何冊読んできたんですか?」
私「良書? 『カラマーゾフの兄弟』とか『エミール』とかのことだよね。大体50冊くらいかな」
K「あんまり良書は読んでおられないんですね」
私「……。」
K「石田さんは『カラマーゾフの兄弟』を読んでるんですよね。読んでどう変りました?」
私「え、……。でも『モンテクリスト伯』を読んだ時はめちゃくちゃ感動したよ」
K「そんな本も読まれてるんですか。にじみ出ませんね」
私「う……。」(涙)

 大学の友人や先輩/後輩、大学の教授が聞いてくるレベルを遥かに超えた発問であった。グサグサ胸に刺さってくる。K君は決してイヤミで言ってくるのではなく、にこやかに話してくるのだ。この文章を読んでいる方。高校生にこのように言われたら、私同様泣くしかないですよね? 
 よく教育において〈子どもから学ぶ〉姿勢が大切だ、と言われている(灰谷健次郎の十八番である)。タテマエでも何でもなく「まさにその通りだなあ」との思いを新たにした。深夜2時にも関わらず、一気に眠気がひいたのである。

 K君の話の中で注目すべき点がある。それは学ぶという事は学ぶ者に〈変化をもたらす〉ものだという認識である。K君の「どう変りました?」「にじみ出ませんね」という言葉に象徴的に現れている。ある教育学者は「学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである」(林竹二『学ぶということ』)という言葉を残している。これは昨年読んだ教育関係の書の中で最も印象深かった言葉である。K君はおそらく直感的に学びの本質を見抜いていたのであろう。後生畏るべし、との思いを強くする(ここでは後生ではなく、「高校生」とすべきであろうか)。相手が子どもというだけで軽く見てはならないのだ。

 この文を、私は寮からの帰りの西武線車内で書いている。もうすぐ〈我らが母校〉の高田馬場に到着する。さて、〈良書〉を久々に買いにいくとするか。

『脱学校の社会』を読む⑤ 第四章103〜123

『脱学校の社会』第4章 制度スペクトル

キーワード:操作的制度、「相互親和的」制度(convivial institution)、偽りの公益事業


●操作的制度と「相互親和的」制度(convivial institution)とは?

操作的制度:「現代をまさに特徴づけるものであって、ほとんど現代を定義してしまう」(104頁)「圧倒的に有力なタイプ」(同)
→具体例:「法律を執行する制度(…)制度スペクトルの右のほうに移ってきた」(105頁)、「現代の戦争」(106頁)
「顧客の操作を専門とする社会制度」(106):「軍隊と同じように、それらはその作戦範囲が広がるにつれて、その意図とは反対に影響を拡大する傾向がある」(同)
→顧客に対し、意図的にサービスを買わせる仕組みである。
「高度に複雑で経費のかかる生産過程となる傾向がある。そしてその過程の中では、その制度の努力と支出の大部分は消費者に、その制度が彼らに提供する製品または世話なしには彼らは生きていけないと信じ込ませることに向けられる」(108〜109)
「人々がそれを利用すると、その利用に関して社会的または心理的に「中毒」に陥らせる性質をもつ。社会的中毒というのは、換言すれば規模拡大(エスカレーション)であり、少量の使用が目的とした結果を生じない場合、その処置量の増量を処方する傾向にほかならない。心理的中毒ということは、換言すれば習慣化することであり、それは消費者が生産過程や生産物をもっともっと必要とするようにさせられたことの結果なのである」(109)
「公衆の趣味の操作」(111)「操作する(プロデュース)」(113)

「相互親和的」制度:「比較的控え目」(105頁)、「前のタイプよりも人目をひくことのないもの」(同)、「私はこれらをより望ましい将来のためのモデルとする」(同)、「制度スペクトルの一番左におくことにした」(同)
「利用者が自発的に使用することが特徴となる制度、すなわち『相互親和的』制度」(107)
「電話交換所、地下鉄網、郵便事業、公営市場や取引所は、顧客にそれらを使用するように勧誘するための売り込みを全然必要としない。下水道や上水道施設、公園および歩道は、それを利用することが自分の利益になるのだと制度的に説得される必要なしに人々が使用する制度である」(同)
「使用されるための制度を運営する規則は、その制度が誰にでも利用しやすくなっていることの裏をかくような濫用をさけることを主たる目的としている」(108)
「現在、われわれにはコンピュータによって電話が濫用されることを禁止する法律や、広告業者による郵便の濫用と工業廃水による下水道施設の汚染を防止する法律が必要である」(同)
「相互親和的制度の規則は、その制度の利用をある程度制限するものである」(同)
「顧客のイニシアティヴで行われるコミュニケーションや努力を便利にするネットワークとなる傾向がある」(109)
「左側の自己活動的制度は、同時に自己限定的でもある。これらのネットワークは、単に消費の行為を満足と同一視する生産過程とは異なり、それを反復して利用すること以上の目的に役立つのである」(109)

→各種の制度を考える際、この二つの制度をそれぞれの右端・左端におくと、対象の制度がどのような特徴を持つのかつかみやすくなる(本文より)。
→なお、スペクトルについてwikipediaでは次のように説明している。
【 その他のスペクトル
政治学では、イデオロギー分布に基づいて諸政治勢力(政党が中心だが、議会外野党や反体制組織まで範囲を拡大する場合もある)を配置した模式図、ないし配列そのものを政治的スペクトル(political spectrum)として、分析ツールの一つとして用いている。一般には、左に左翼勢力を持ってくる。対象は、一般的な政党や各国の具体的な政党など、自由に設定でき、特定の政党内部での派閥の配置を表現することも可能である】
→「一般に左から右へ移動するこのようなスペクトルは、今までに人々やそのイデオロギーの特徴を示すためには用いられてきたが、社会全体やその様式の特徴を説明するために用いられることはなかった」(105頁)
→「制度スペクトルの相互親和的な端から操作的な端に移動するにつれて、そこでの規則は、しだいに、人々の意に反した消費または意思に反した参加を要求するものとなってくる」(108)
→「十代の若者を除けば、受話器に向かって話すことの喜びのために電話を使用することはないであろう。もしも他人に連絡をとるのに電話が最善の方法でなければ、人々は手紙を書くなり、出向くなりするであろう。これに対して右側にある制度は、学校の場合にはっきりするように、強迫観念的に繰り返し用いることをさせるとともに、同じ目的を達成するためのほかの方法を阻害するのである」(109)

「スペクトルの真中」(110):「繊維やたいていの破損しやすい消費材の生産者」(同)

偽りの公共事業

●高速道路は「右側の制度に直接通じるものがある」(112)。「われわれは高速道路の性質と真の公益事業の性質とを明確に区別しなければならない」(同)
→「高速道路は私的な分野でありながら、そのコストの一部分がひそかに公共部門から支出されているものなのである」(同)
「高速道路網は主として自家用車のアクセサリーとして役立つのである」(113)

●「貧しい国に移植された「近代的」な科学技術は、三つの大きなカテゴリーに分けられる。それらは、製品、製品をつくる工場、およびサービスを提供する制度である。サービスを提供する制度ーその制度の中の主要なものは学校であるーによって人々は近代的な生産者と消費者に変えられてしまう」(115)
「すべての「偽りの公益事業」の中で、学校は最も陰険である」「学校はスペクトルの右端に群がる一群の近代的制度全体を創り出すのである」(116)

偽りの公益事業としての学校

●「偽りの公益事業」高速道路を基にし、さらにタチのわるい「偽りの公益事業」学校を批判する。
●「高速道路と同じように、学校は初め見たときにはすべての人に対して平等に開放されているような印象を与える。実際は、学校はたえず信任状を更新する者に対してのみ開放されているのである。学校は近代的な科学技術を使用する社会において、必要な能力を身につけるために不可欠なものと考えられている」(116)
●「学校もまた同様に、学習はカリキュラムを教えられることの結果だとする見せかけの仮定に基づいている」(同)
「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するのである。他人によって成長させてもらおうとすることは、製造された商品を求めることよりももっとよけいに自発的活動の意欲を放棄させる」(117)
「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである」(同)
→ある意味、イリイチの主張はスローライフ運動に近い。
「学校は、完全な逆新税のシステムであり、そこでは特権を与えられた卒業生が、税金を納める全公衆の背に乗っている」(同)
高速道路との違いについて。「誰も自動車を運転することを法律で強制されないが、学校に通うことはすべての人が法律で義務づけられているのである」(同)
→本来の公益事業は相互親和的制度であるべきだ、というのがイリイチの主張である。イリイチは「偽りの公益事業」として高速道路を批判する。高速道路を作るのには国民の税金が使われている。けれどここを利用できるのは車を持っていて、ある程度お金のある人だけである。車を持っていない人は、自分のお金で作られた道路であるにもかかわらず利用できないのである(友人は「スーパーで新鮮な野菜や魚が食べられるのは高速道路を使いトラックを走らせているからなのだから、恩恵を受けていると言えるのではないか」といっていた)。
 高速道路同様、学校も人々の税金で作られている。けれど学校に入って勉強するのにはお金がかかる。ただでさえ税金で給料がひかれるだけでなく、自分の金で作られた学校でありながら、貧しいと行くことができない。

●「人々は学校による教育だけを教育と誤解し、医療サービスを健康と、予定表を忠実に実行することをもてなしと、およびスピードのあることを効果的な移動と混同するようになる」(121)
●「制度によって与えられるサービスを増やすことではなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである」(122)
「われわれはサービスを提供する制度ーなかでも教育を提供する制度ーを若返らせることから始めなければならない」(同)

まとめ
●「操作的制度」とは人々を受け身にさせる制度のことである。対して「相互親和的制度」とは人々の自発性を重視した制度である。別に不必要なら使わなくてもいい。けれど、万人に開かれているという制度である。

雑感
●イリイチは同じことを何度も形を変えて説明する。学校によって本来の学びが無くなってしまうということを、「価値の制度化」や「制度スペクトル」などの概念を用いて説明し直しているだけなのだ。改めて『脱学校の社会』を読み直して気づいた。
●イリイチのいうように(義務制の)学校を廃止するとどうなるだろうか? 一気になくすと、様々な混乱が起こることは確かだ。教員の生活は? 塾産業は? 教科書会社はどうする? 子どもはどうやって学ぶのか?えとせとらetc。脱学校に対する批判はこの「急激になくした」ときに発せられるものが多い気がする。けれど、漸進的に学校をなくしていくならどうであろうか。学校のダウンサイジングから始めていき、塾産業や民間の学び舎が育っていくのを待つ。人々の教育への意識や共同体意識の熟成を待つ。徐々に学校を減らすならばそれほど混乱もなく移行できるであろう。イリイチの主張をすこしアレンジして、現在のフリースクールのように「行きたい人は学校へいってもいいし、フリースクールに来てもいい」スタンスにしておくとなお良いだろう。大事なのは脱学校を行うことがいくら正しかったとしても、移行期間中に子どもにデメリットを生じさせないよう考慮していくことである。

2009年5月6日水曜日

映画『ウォーリー』

 早稲田松竹で公開中の映画『ウォーリー』が面白くて仕方ない。大学に入ってから結構映画を見てきたが、同じ映画を映画館で2回以上見たのは本作が初めてだ。

〈環境汚染のため、人類が地球を見捨て宇宙に出た。その際、一台だけスイッチを切り忘れたロボットがいたならばどうなるのだろうか?〉。このアンドリュー・スタントンの問題意識が、本作を構成した。

 設定ではウォーリーは700年間一人で働く中で感情が芽生えてきた、とされる。ウォーリーはクライマックスにおいて一度故障し、マザーボードを交換しているが、その際彼はプログラムに忠実に従うだけの存在となってしまう。本来のウォーリーには感情も何もなかったのだ。
 時の経過により、感情を得たウォーリー。彼には他のロボットに感情を与える作用があるようだ。ロボットに感情を与えるという〈啓蒙〉を行っている。ウォーリーと会う以前は従順にオートパイロットや人間の命令に従っていたであろうロボットたち が、ウォーリーに味方をし、反乱を起こすようになるのはそれが理由であろう。
 イヴというヒロインのロボットは初め、全く女性性を見せない。他のロボット同様、ウォーリーとの交流の中で、徐々に女性性が発揮されるようになってくる。だからこそ大団円でのウォーリーとの〈握手〉は非常に印象深いものとなっている。
 
 映画のラスト。アクシウム艦が地球に帰還する。植物が育つようになったとはいえ、砂嵐が頻発するなど(映画中、ウォーリーは2度も嵐に教われていました)自然環境はまだまだよくない。イヴは原子力発電所のプラントを破壊していたが、放射能汚染はないのだろうか? 
 ラストシーンを見ていて、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出した。『ナウシカ』は「火の7日間」により文明が崩壊した後の物語である。一度絶頂を迎えたあとの残滓で人々が暮らしている。中世同様の生活をしていながらも、何故か一人乗り飛行機(メーヴェですね)や飛行艦隊が存在する歪な世界である。アクシウム艦の住人にはコンピュータの蓄えた膨大な知識と智慧が与えられている。けれど聞かない限りこれらの知識をコンピューターは教えてはくれない(艦長は「土って何?」「海って何?」という三歳児レベルの質問をコンピュータにするまで、これらの存在を知っていなかった)。ロボットも多数存在する社会ではあるが、もはや住人はその構造すら知っていない。
 はたして映画のあと、この世界はどうなるのだろうか。私ならば「アクシウム艦に乗っていた頃が懐かしい」と復古主義に走る。艦長は「生き残るのではなく、生きたい」と主張するが、この生き方は相当ハードである。自分で道を開かないと行けないのだから。少数には可能でも、大多数の人間にとってやはり「宇宙こそパラダイス」(映画中に出た、BNL社のCMより)であり、懐かしき故郷となるのではないだろうか。

追記
●いい映画は、何度見ても鑑賞に堪える。もう一度、観に行ってこようと思う。実は『ウォーリー』もそうだが、同時上映の『マジシャン・プレスト』も見たいのだ。
 中谷彰宏は〈同じ物からいくらでも学べる人が学習力のある人だ〉といっていたのを思い出す。自分が「これだ!」と決めた本・映画を徹底して学んでいく姿勢も重要なのである(おそらく師匠などの「人」もその対象に入る)。いまは16時。17時上映分を観に行こう。
●それにしても。この映画で主役たちを「食って」しまうほどの演技(活躍?)をしたのはモーというロボットだろう。〈汚染物質〉まみれのウォーリーの足跡(キャタピラの跡)をひたすらに掃除し続ける執念が、観客に笑みを与える。エンドロールでも大活躍であった。
●映画『ナウシカ』を観た時と同様、観賞後に非常に感傷的になる映画だ。映画の世界にノスタルジーを感じてしまう、ということだろうか。
●ウォーリー、イヴ、モー、オートには、目しかない。けれど目の存在により、人間らしさが表現されているように思う。人体において「目」の存在は大きいのかもしれない。
●『2001年 宇宙の旅』が下地になっている。オートの目が赤く、一つ目であるのも『2001年』の影響だ。艦長が立ち上がってオートと格闘するシーンでは『2001年』のテーマが流れるのである。
●艦長は地球に戻ることを、はじめ嫌がる。それは「いつもと同じ」に憧れるからだ。けれど、ウォーリーの体に付着していた物質(「土」のことです)を契機に、地球についてをコンピューターから教わって後、艦長は自らの意思で行動を開始する(それまではオートパイロットの言いなりであった)。これは何故であるのか。
 ベーコンは「知は力なり」といった。知ることが力になる、との意だ。自分の行動の意義を「知る」ことによって、人は主体的な行動がとれるようになるのであろう。艦長は地球復興を目指す。ようやく2本足で立てるようになった(比喩ではなく、文字通りの意味です)艦長たちが、世界を新たに造っていくのは不可能ではないだろうが、かなりシビアなことである。けれど不可能そうなことに挑んでいく上で、「知る」ことは大きな力になるようである。
●宮台の『終わりなき日常を生きろ』。そこには最近のアニメが「ハルマゲドンそのもの」を描くものから「核戦争による終末後の世界」を描くものに変わっていったことが書かれている。本作『ウォーリー』は後者の「週末後の世界」を描いていると考えられる。

葬儀の持つ、根本的問題点について。

葬式に来てほしい人を、死んだ本人が決めることはできない。そのためしばしば来てほしくない人が葬儀に来て、来てほしい人には死んだことすら伝わっていないということがよくある。けれど本人が死んでしまっているが故に、誰もこのことを問題にしようとはしないのだ。

あきらめ

 大和少年野球クラブに私は入っていた。兵庫県にある八千代西小学校という1校の生徒から構成されている、地域の野球クラブである。町の中には(注 その当時、わが八千代町は合併前でした)北小・南小で構成された八千代少年野球クラブも存在した。なかなかに練習がハードであった。
 実力はなく、弱々しい私であったが、人数が少ないのと、たまたま「9番目」前後の力量を保っていたため9番ライトのレギュラーだった。一番軽い場所にいたわけだ。よく考えると、ギリギリ「レギュラー」というあり方は今のサークルでの私の立ち位置と同じである。
 少年野球をやっていたとき、はっきりいって私はやる気がなかった。けれどやめるのも色々面倒なので(チームメンバーとは基本的に学校でも会うため気まずいのだ)、しかたなく不本意ながらやっていた(でもやってる中では楽しくなるんだけどね)。これ、いまの私のメンタリティーとも共通する。
 人生、〈気づけばイヤイヤながらやってしまっている〉ことが多い気がする。あきらめが肝心なのかもしれない。そう、辛くて当たり前だと認識して、「少しでも楽しむにはどうしたらいいか?」考えていく姿勢こそ必要なのだ。

追記
●タモリの「やる気のある者は去れ」との言葉は私のためにあるのかもしれない。

さらに追記。
●教育実習にいたとき、大和少年野球クラブが無くなったことを知る。ショックである。クラブの横断幕はどこへいったのだろう?

2009年5月3日日曜日

教育的作用について

ある日。

飲み会の後、私は新宿歌舞伎町をうろついていた。2次会にいく金が無く、だからといってまっすぐ家に帰るのも億劫だ。あてもなくうろつく。

まわりには派手な立て看板とそれを飾るランプ。キャッチや集団の騒ぎ声、喧騒。

ふと、私の視線が一カ所に定まる。風俗店の営業時間の表記。12時から24時までとなっている。

常識的に考えて、昼間から風俗店にいく人は少数派だろう。仕事帰りの18時から24時までの営業でもよいはずだ。それにもかかわらず、営業時間が昼間からなのは何故か。


その理由には教育的側面があるのかもしれない。夕方からの営業にしたほうが確かに合理的だ。けれどそうではないのは、入ったばかりの従業員が店に慣れるためではないだろうか。昼間は人が少ない分、新人は客とのやり取りや会話・〈仕事〉を学ぶことができる。夕方以降の繁忙期はベテランに仕事を任せることで売り上げを確保する。店の長期的運営を考えるなら、新人を教育できる時間帯を持っているほうがよいだろう。いまはやりの〈持続可能性〉を高めることになる。


そういえば、落語家が寄席を守ろうとするのは弟子の教育のためだそうだ(今井むつみほか著『人が学ぶということ』)。客商売も長期的スパンでものを考えるなら、一見非合理的に見える側面にも力を入れていかなければならないのだと思う。


ちなみに、ここに書いたものはすべて私の想像です。

2009年5月1日金曜日

私の好きな作家について

家にある本棚を見つめていて、わかったことがあった。

齋藤孝も野口悠紀雄も森毅も内田樹も、私の好きな作家はだいたいは大学教授である、ということだ。大学で教えつつ、ものを書くスタイル。学問的知見をもって書かれたエッセイにこそ、私は惹かれていたようだ。

好きな作家の名をあげ、その共通点を探る。やってみるとなかなかに刺激的だ。発見がある。

エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』抜粋

ブラジルの教育者パウロ・フレイレほど教育を的確に定義した人はいないが、彼によれば、人の現実を、それに対する有効な行動に導くような形で、批判的に自覚するプロセスこそ教育であるという。教育を受けた人は、自分の世界に適切に対処できるまでに、その世界をよく理解している。このような人が充分な数だけいたら、現在の世界の不条理をそのまま放置するはずはない。(225頁)

教育を受けることは、社会を変革することと同義である。うーむ、実に面白い。

大衆化、実用性、革命的目標が力説されながらも、論争は常に学校制度を如何に改革するかという論議であって、学校に代えて何かほかの制度を導入しようという発想はない。(43頁)


学校は昔から、子どもに考えさせないためには、忙しくさせて置けばよいことを知っている。(86頁)

→野口悠紀夫は〈大会社の社長ほど、一人旅を年に一度はすべきだ。職場を離れていろいろ考察することがなければ、会社の将来性はしぼんでしまう〉と、休暇/旅行の重要性を語る。実際、忙しいときには冷静な判断ができないことが多い気がする。

教育だけでは問題は解決できない。現在の安定がどれほど頼りない基盤に立ったものか、教育はそれに対して人々の目を開かせてくれる。実行可能な代案を具体的に認識させてくれるが、それを実現するためには、さらに何かが必要とされる。すなわち教育だけでは、革命的な社会変革をもたらすことはできない、ということだ。(pp227~228)

驚くなかれ、このように学校制度というものは、わずか1世紀足らずの間に、世界中のあらゆる国民の間で、あらゆる種類の価値を配分する主要な機構になってしまい、家庭や教会や私有財産制度がかつて果たしていたそういう機能を、大部分肩代わりしてしまった。資本主義国についていえば、学校がこれら旧来の制度の価値配分機能を肩代わりしたというよりも、強化したという方が正確かも知れない。(41頁)


子どもたちが学校で学ぶことは、学校の価値観だけではなく、その価値観を受け入れることであり、それを受け入れて体制の中で泳いで行くことでもある。子どもたちが学ぶのは体制順応の価値であり、この学習は学校だけに限られているわけではないが、学校に集中している。学校はたいていの子どもが最初に出会う、高度に制度化された環境である。(48頁)


我々は、段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関として、学校を定義する。ある機関にこの定義が正確に当てはまれば当てはまるほど、その機関は学校のステレオタイプに近いということになる。教育における代案は、このステレオタイプから離れるものとして、最も一般的に定義することができる。その離れ方が学校制度の「引力」から逃れられるほど遠く、かつ速くないと、ふたたび学校制度に吸収されてしまう。(60頁)

→ライマーの学校の定義である。「引力」の比喩は印象的だ。イリイチと同じく、①フルタイムでの出席を要求し、②年齢ごとに授業し、③教師が授業をし、④その内容はカリキュラムで決められている、という要素をもつものが〈学校〉である。イリイチは技能修得や高等教育のための〈学校〉はあっても構わない、といった。ライマーはどうか?

学校教師は一人三役を演じる。アンパイアと裁判官と助言者だ。アンパイアとしての教師は、答えが正しいか誤りかを判定し、採点し、進級の可否を決める。裁判官としての教師は、(中略)学校の道徳的規範にしたがわない者に罪悪感を自覚させる。助言者としての教師は、学業または道徳の規準に合致しない者のいいわけを聞き、学校の内外で生徒が行う選択について助言を与える。こういっても何も奇異な感じがしないのは、生徒が公民権のない人間とみなされているからだ。(pp64~65)


追記
ライマーはイリイチの共同研究者。そのため〈学校は金がかかる割に効果が出ない。アメリカなどの先進国でもうまくいっていない。では第三世界の人々の教育はどう行っていくべきなのか〉との問題意識を、ライマーも持っている。その他の所でも共通点が多い。一つの例として、「仲間探しのネットワーク」という、イリイチのラーニングウェッブ同様の制度を本書で提唱している点が挙げられる。
よく似た思想のライマーとイリイチ。相違点はどこか、も調べていきたい。

参考として小中さんのブログを見るといいですね。