2009年5月15日金曜日

岡庭昇『戦後青春』三五館、2008年

 文芸評論家・岡庭昇の労作。今日の授業中に読了。オビの「難解ではあるけれど、じつに面白い本!」に偽りはない。
 言及すべきポイントも多い本だが、ここではブログの内容も考慮した上で、イリッチに関する所のみを扱うことにしよう。

われわれはすでに客観的な社会の構造批判としては、ちょうどスチューデント・パワーによって教育が根底から懐疑にさらされた七〇年代の思想としての、イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(一九七一年)を持っている。それは優れた個別教育論であるが、この時代の論考らしく教育を論じることが、人と人との関係の本質を衝くという広がりと本質性を持っている。(209頁)


→イリッチを「70年代思想」として見ることも大切だ。

いま日本のもっとも駄目な側面を反省するなら、その一つはさきに検討した「学校化社会」の徹底だろう。それはいまや、日本国民全体のルーティンを形成している。物事に「等級」を付ければ事足れりというような感性は近くは絶対主義的な江戸社会の特徴でもある。だがそれは現在ますます認識の前提になり、政治や行政のすべてである。それどころか「等級」こそが事物の本質であると看做されるような社会にまで、逆行しつつあるのではないか。勲三等といった軍人風の「栄誉」を与えられても、馬鹿にするなと怒る芸術家の例を近ごろは絶えて聞かない。(217頁)


イリッチは教育という美名で民衆が刷り込まれる、奴隷制というカラクリを問うた。教育とは抽象的な原理ではなく、どのように、誰のために、何を教えるかにおいて、民衆にとって啓発と隷属という正反対の位相になることを説いた。価値判断を持たない限り、教育こそが帝国主義を再生産する道に他ならないことを。(225頁)


最後に、印象深かった所をもう一カ所のみ引用する。
自分が変わることが肝心だと心得る行為は、同時に世間を変える使命にすでに取り組んでいるのだ。(116頁)

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