2009年5月6日水曜日

映画『ウォーリー』

 早稲田松竹で公開中の映画『ウォーリー』が面白くて仕方ない。大学に入ってから結構映画を見てきたが、同じ映画を映画館で2回以上見たのは本作が初めてだ。

〈環境汚染のため、人類が地球を見捨て宇宙に出た。その際、一台だけスイッチを切り忘れたロボットがいたならばどうなるのだろうか?〉。このアンドリュー・スタントンの問題意識が、本作を構成した。

 設定ではウォーリーは700年間一人で働く中で感情が芽生えてきた、とされる。ウォーリーはクライマックスにおいて一度故障し、マザーボードを交換しているが、その際彼はプログラムに忠実に従うだけの存在となってしまう。本来のウォーリーには感情も何もなかったのだ。
 時の経過により、感情を得たウォーリー。彼には他のロボットに感情を与える作用があるようだ。ロボットに感情を与えるという〈啓蒙〉を行っている。ウォーリーと会う以前は従順にオートパイロットや人間の命令に従っていたであろうロボットたち が、ウォーリーに味方をし、反乱を起こすようになるのはそれが理由であろう。
 イヴというヒロインのロボットは初め、全く女性性を見せない。他のロボット同様、ウォーリーとの交流の中で、徐々に女性性が発揮されるようになってくる。だからこそ大団円でのウォーリーとの〈握手〉は非常に印象深いものとなっている。
 
 映画のラスト。アクシウム艦が地球に帰還する。植物が育つようになったとはいえ、砂嵐が頻発するなど(映画中、ウォーリーは2度も嵐に教われていました)自然環境はまだまだよくない。イヴは原子力発電所のプラントを破壊していたが、放射能汚染はないのだろうか? 
 ラストシーンを見ていて、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出した。『ナウシカ』は「火の7日間」により文明が崩壊した後の物語である。一度絶頂を迎えたあとの残滓で人々が暮らしている。中世同様の生活をしていながらも、何故か一人乗り飛行機(メーヴェですね)や飛行艦隊が存在する歪な世界である。アクシウム艦の住人にはコンピュータの蓄えた膨大な知識と智慧が与えられている。けれど聞かない限りこれらの知識をコンピューターは教えてはくれない(艦長は「土って何?」「海って何?」という三歳児レベルの質問をコンピュータにするまで、これらの存在を知っていなかった)。ロボットも多数存在する社会ではあるが、もはや住人はその構造すら知っていない。
 はたして映画のあと、この世界はどうなるのだろうか。私ならば「アクシウム艦に乗っていた頃が懐かしい」と復古主義に走る。艦長は「生き残るのではなく、生きたい」と主張するが、この生き方は相当ハードである。自分で道を開かないと行けないのだから。少数には可能でも、大多数の人間にとってやはり「宇宙こそパラダイス」(映画中に出た、BNL社のCMより)であり、懐かしき故郷となるのではないだろうか。

追記
●いい映画は、何度見ても鑑賞に堪える。もう一度、観に行ってこようと思う。実は『ウォーリー』もそうだが、同時上映の『マジシャン・プレスト』も見たいのだ。
 中谷彰宏は〈同じ物からいくらでも学べる人が学習力のある人だ〉といっていたのを思い出す。自分が「これだ!」と決めた本・映画を徹底して学んでいく姿勢も重要なのである(おそらく師匠などの「人」もその対象に入る)。いまは16時。17時上映分を観に行こう。
●それにしても。この映画で主役たちを「食って」しまうほどの演技(活躍?)をしたのはモーというロボットだろう。〈汚染物質〉まみれのウォーリーの足跡(キャタピラの跡)をひたすらに掃除し続ける執念が、観客に笑みを与える。エンドロールでも大活躍であった。
●映画『ナウシカ』を観た時と同様、観賞後に非常に感傷的になる映画だ。映画の世界にノスタルジーを感じてしまう、ということだろうか。
●ウォーリー、イヴ、モー、オートには、目しかない。けれど目の存在により、人間らしさが表現されているように思う。人体において「目」の存在は大きいのかもしれない。
●『2001年 宇宙の旅』が下地になっている。オートの目が赤く、一つ目であるのも『2001年』の影響だ。艦長が立ち上がってオートと格闘するシーンでは『2001年』のテーマが流れるのである。
●艦長は地球に戻ることを、はじめ嫌がる。それは「いつもと同じ」に憧れるからだ。けれど、ウォーリーの体に付着していた物質(「土」のことです)を契機に、地球についてをコンピューターから教わって後、艦長は自らの意思で行動を開始する(それまではオートパイロットの言いなりであった)。これは何故であるのか。
 ベーコンは「知は力なり」といった。知ることが力になる、との意だ。自分の行動の意義を「知る」ことによって、人は主体的な行動がとれるようになるのであろう。艦長は地球復興を目指す。ようやく2本足で立てるようになった(比喩ではなく、文字通りの意味です)艦長たちが、世界を新たに造っていくのは不可能ではないだろうが、かなりシビアなことである。けれど不可能そうなことに挑んでいく上で、「知る」ことは大きな力になるようである。
●宮台の『終わりなき日常を生きろ』。そこには最近のアニメが「ハルマゲドンそのもの」を描くものから「核戦争による終末後の世界」を描くものに変わっていったことが書かれている。本作『ウォーリー』は後者の「週末後の世界」を描いていると考えられる。

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