2009年12月11日金曜日

劇団てあとろ50'『last gasp』

 シンクロニシティーという言葉がある。同時性という意味だ。今日『last gasp』という演劇を観て、それを感じている。
 最近、サークルの先輩と飲んだ。その際、家族論について話をした。なんでも、家族論的には家族は外部の「サービス」で代行できるらしい。ベビーシッター、家政婦さん、究極的には教師や塾講師…。家事業も、教育もすべてに外部の「サービス」が存在する。ではサービスで代行できる現在において、「家族」の「家族性」、つまり「家族」たる由縁はどこにあるのか? そんな疑問を持っていた。

 てあとろ50’sの演劇のテーマは、私が疑問に思っていた点と同じだった(ような気がする)。主人公・神谷和人(かみたに・わひと)の妹・仁香(じんか)は昔すごした家族5人(父・母・兄・弟)との生活を夢見ている。「5人」にこだわり、細かな所に妥協しない。家を出て行った母から「家に戻ってもいい?」との電話があっても、黙って切ってしまう。結局、引きこもりの兄・和人とともに2人で生活をしている。父も弟である三治郎も出て行ったままだ。
 そんな折、弟・三治郎が「結婚するんだ」と山崎蘭をつれてくる。そのやり取りの中で妹はgaspをする。gaspとは、はっと息をのむこと(すべて『ジーニアス英和』の受け売り)らしい。そして泣き叫び、しばらく入院をすることに。不思議と、妹のgaspが新たな家族構築につながっていく。母・弟・義理の妹という4人の生活に。兄は入院中にどこかへ出てしまったが、《やがて戻ってくるだろう》と観客に匂わせるラストであった。

 「家族を演じる」意志のない人は、家族のメンバーになることはできない。そう感じた。「家族を演じる」意志のない人を無理に家族に引き込もうとしても、ストレスが溜まるだけである。家族を演じる意志のない人は抜け、意志のある人・意志が戻ってきた人が再び家族になる。家族の物語は一つではない。それぞれの物語を持つ各人が、「演じる」意志のある間だけ、かろうじて家族になれるのだ。

 シンクロニシティーを感じたのは、家族論を演劇でやっていたことによる。偶然だが私のカバンには『子どもと出会い 別れるまで 〜希望の家族学〜』(石川憲彦)が入っていた。この本では、「思い」や「感情」をぶつけるとき、はじめて家族の再生があることを描いている。人々がgaspをし、「思い」や「感情」を伝える努力をする際、新たな家族を構築することにつながるのだ。

 余談だが、演劇の舞台上、ほぼ全ての間、人間二人が座っていた。和人と仁香の家の猫2匹の役だ。人間たちのやりとりを、この2匹は絶えず見つめている。実はこの家は兄と妹の2人家族でなく、ペットも入れた4人家族であったような気がしてならない。敬愛するO先生が「ペットも家族」と言っていたし…。

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