初めに自分のお金で買った新書は『知的生産の技術』。次が『超・整理術』。図書館でも、小学生のうちから「効率的なメモの取り方」・「成功する人の仕事術」的本を読み続けていた。私が、なんとか第五志望である早稲田大学教育学部に引っかかったのも、小学生以来の自己啓発本読者であったからだろう。自己啓発本は、「何事にもコツがある」・「勉強にはやり方がある」という認識を持たせてくれるのだ(その弊害は、別のところで語ることにしよう)。
「自己啓発本」を日本で最も多く出版している人間は、おそらくは中谷彰宏。各種DVDでも「僕は800冊書いてきた」ということをサラッと口にしている。それだけ多く書いたら、どこかでマンネリに陥りそうになるはずだ。けれど、どの本を読んでも新鮮な発見をする私がいる。
中谷彰宏と、私はずっと「本」で触れてきた。博報堂時代がもとになっているのか、キャッチコピー風の短い文章の集まりを読みつつ、「そんな考え方があるのだな」と学んできた。
DVDに表れた中谷の姿。非常にインパクトがあった。何と言ったらいいか、「言葉の響き」にすら感動を覚えた。中谷の本に書かれた言葉が、中谷の口を通して語られる。話される内容よりも、話す言葉の「響き」から多くの点が学べたような気がした。
口から発せられた言葉には、必ずその人の「響き」がある。このことを私は忘れていた。中谷が関西弁でしゃべっていたことも、発見の一つであった。
プラトン以来、「言葉」「ロゴス」のみを人間は追い求めてきた。「言葉」の中でも、「書き言葉」を重視した。「言葉の響き」よりも。その姿勢がデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」につながり、近代が開かれた。その姿勢は「自分で考える」ことを重視する姿勢であった。「自分で考える」ゆえに、「他者」はあまり登場しない。
夏目漱石の『行人』(こうじん)には、近代理性の権化ともいうべき人物・長野一郎が登場する。彼は理性や学識は非常に高い。けれど、妻や母親、その他の家族と分かり合えることができず、常に孤独に苛まれている。近代的知識人の持つ「孤独さ」を感じた本であった(余談だが、一郎が友人と神について語る際、突然友人を殴るシーンがある。「君、これでも神を信じるかね?」という言葉に、私は笑ってしまった)。
プラトン以前、「模倣」(ミメーシス)が重視されていたと聞く。踊りを観たり、演じたり。歌を聴いたり、歌ったり。宗教においても然りであった。「自分で考える」というよりも、模倣を通じて瞬時に「神に至る」道が重視されていたのだ(ちなみにプラトン以前を注目し始めたのはニーチェである)。「模倣」は、一人ではできない。常に他者の存在が必要である。必然的に孤独になることはない。
イリッチはconvivialという言葉(どうもスペイン語らしい)を重視する。訳者によって「相互依存」と訳したり、「相互親和」と訳したりする、日本語化しにくい言葉だ(辻信一は「共に生きる」と説明する)。これは「孤独」と対比的な言葉である。一人でいるのではなく、誰かと話したり・親しく過ごしたり・共に生活をしたりすることを重視している。
イリッチの『脱学校の社会』のラストも、convivialを社会にもたらそう(「相互親和型社会」ということ)、と呼びかけるものであった。誰かの美しい詩を引用し、イリッチはそこで唄った。「人が薄暗がりに住んでいて、薄暗がりの中で友を得るなら、薄暗がりも面白いじゃないか」(208頁)と。 convivialと語る時、必ずそこには「他者」が存在する。理解出来る/出来ないにかかわらず、「他者」と「共に生き」ようとする。『行人』の長野一郎も、convivialな生き方をもっと志向すればよかったのではないか。そう思われて仕方ない(小説だと、なんだか自殺しちゃいそうだし)。
現代人の生きづらさは、「言葉」に執着するところにあるのだろう。「自分で考える」のも大事だが、もっと「模倣」のよさに立ち返ってもよいのではないか。それがconvivialということである。
中谷の「言葉の響き」をめぐって、よくわからない話になってしまった。けれど、ここで書いた内容は私が数多くの「他者」から「模倣」してきたから、まあいいんじゃないかな。
現代人の生きづらさは、「言葉」に執着するところにあるのだろう。「自分で考える」のも大事だが、もっと「模倣」のよさに立ち返ってもよいのではないか。それがconvivialということである。
中谷の「言葉の響き」をめぐって、よくわからない話になってしまった。けれど、ここで書いた内容は私が数多くの「他者」から「模倣」してきたから、まあいいんじゃないかな。
3 件のコメント:
「模倣」は、一人ではできない。常に他者の存在が必要である。必然的に孤独になることはない。
模倣→必然的に孤独にならないというのは、少し言いすぎかもしれないけれど、周囲の環境に模倣の対象に値する人物がいないことで、行き場を見失うことは現実生活でもあると思います。
今日、気分があまりすぐれなかったけどpageを読んだらちょっと元気になった。
人間は学ぶことで希望を見出すことができるんだね。ありがとう!!
》匿名さん
今回のプラトン論はなかなか質が悪くなってしまってました。「模倣」についてはもう一度考えさせていただきます。
》タモケン☆さん
学ぶとき、人は謙虚になります。「自分より偉大な存在があるんだ」。そう気づける人は絶えず希望を見いだせるはずです。
自分の無知に失望する間に、「もっと学ぼう」と希望を見いだせることが大切なのではないでしょうか。
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