2009年11月29日日曜日

鈴木雅之のCDを聴きながら。

 最近、鈴木雅之のCDをずっと聴いている。「♫もう涙はいらない…」。名曲である(現在のBGM)。

「もう涙はいらない 僕が側にいるから」(「もう涙はいらない」)

 この一節に鳥肌が立ってくる。
 もう一カ所、彼の別の歌から。

「後悔するよ きっと こんなさよならは
 今日までの二人 どこへ 消えてしまうのか
 追うことさえ 出来なかったのは 俺の方で
 泣くことしか 出来なかったのは 君の方で」(「さよならいとしのBaby blues」)

 この歌詞が、いつぞやの苦い記憶を呼び戻す(ような気がしてならない)。

 ブックオフで買ったのは鈴木の「Best Love Song Album」たる、「MEDIUM SLOW」である。流していて、色々気づく。「あれ、どこかで聴いたな?」。思案した結果、もともと父のカーステレオで聴いたことがあることを発見した。

 幼き日、父のワゴン車の助手席で聴いた曲の数々。サザンオールスターズ、TUBE、そして鈴木雅之…。私が、いわゆる「懐メロ」を愛好する理由には父のカーステの存在が大きい(同じ懐メロでも さだまさしが好きなのは母の影響から)。

 そのためか、鈴木雅之にしても何にしても、「全くの未知」の曲よりも「あ、この曲はカーステで聴いた!」と分かるものの方が私の好みである。

 鈴木雅之の存在は、いろいろYOU TUBEを散策するなかで偶然見つけ、「この歌手、すごいじゃないか!」と発見した。いざCDを買ってくると「あ、この曲はカーステで聴いた!」と改めて認識したのである。

 結局、人間は自分の育った環境から離れることができないのではないか、と気づく。意図的に離れようとしても、油断すると気づけばその環境に戻っている。そういうものである。
 一人で生活していると、あんまり両親の存在を意識することはない。月末にキャッシュカードを使う際、「今月も仕送りがしてある」と事実に感謝するときくらいである。けれど、実は自己の内面の「趣味」「興味」という位相には常に両親が存在している。



 さて、全く関係ないが昨日「思い」が通じた瞬間があった。「思い」が通じるのは実に嬉しいことだ(恋愛のことのようだが、そうではない、念のため)。

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