まず山本哲士から。
学習や教育が学校に独占され、学校を通じて学習・教育が生産され価値あるものとなる「産業的生産様式」の典型。「学校」という形態とは区別されるべき、生産様式が「学校化」であり、学校の視えない働きとなっている。教育が制度化されて学校化が構成される。学校化に対抗するものが「非学校化deschooling」で、聖なる学校から教育を世俗化することを意味する。(『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、17頁)
山本はイリッチの脱学校化を「非学校化」と呼んでいる点に注意したい。
次は、『新教育事典』(勉誠出版、2002)の「学校化する社会」(楠本恭之)から。
イリイチが問題とする「学校化」とは、こうした「学校」への、子どもをはじめとして、社会までもの、いわゆる「囲い込み」を意味する。彼は、『脱学校の社会』のなかで、「学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校に任せてしまう」ことを問題とするのである。(187頁)
前半に注目。宮台真司のいう「学校化」は、〈学校的価値が社会に吹き出す〉ことであった。イリッチの定義は反対に、学校への「囲い込み」を意味している。まあ、結果的にはよく似たことを言ってるような気もするが…。
続ける。
イリイチの『脱学校の社会』という指摘は、こうした意識のもとに、社会の「脱」学校化を進め、自発的な「学びのための網の目」を、社会のいたるところに張りめぐらすことを考えたものであった。彼が意図したのは、単なる「学校廃止論」ではなく、人間と環境との間に新たに教育的関係をつくりだすことであった。したがって、われわれが「学校化する社会」において留意しなければならないのは、「ポスト『脱学校の社会』」として、あらためてイリイチを見直すことである。(189頁)
最後は『教育思想事典』(教育思想研究会編)の「学校化」(森重雄)から。
ちなみに、イリイチ自身はのちに、学校化概念は、(中略)学校や教育による人間精神の去勢の指摘にもとづく人間精神の全面的疲弊・汚染に対する警告であったと述べている。(88頁)
真の教育は学校というレイアウトではけっして行うことができず、イリイチのいう、脱学校型の「学習のためのネットワーク」のもとにはじめて可能になる、と考えられていた。この学習のためのネットワークとは、ある知識を必要とする人とその知識を提供できる人をアドホックに結合することであり、それはコンピュータ・ネットワークにもとづくデータベース構築というテクノインフラによって可能となる。ここでは固定的な教師―生徒関係は生まれないし、出来合いの知識パッケージを必要な知識であると思いこまされることもない(石田注 要はこれは「価値の制度化」ということ)。これによって真の意味での教育が可能になるとイリイチは考え、これが真の教育を可能にする脱学校化の具体的な姿であるとして提唱したのである。(89頁)
ずーっと打ち込みをしていると、手が疲れるし、眠くなる。
先輩のOさんによれば、学者とは論文の「職人」であるという。
ひょっとすると、テニス選手が素振りをするように、大工さんが鉋を磨くように、学者が空き時間に資料をキーボードで打つのも、一種の「職人ステータス」といえるのかもしれない。
キーボードを叩くことを、「学問してる!」と誤解すること。学問的価値の制度化、といえるかもね。
余談
●通信教育の大学では夏場、「スクーリング」が行われる。直訳すると、「学校化」。いままでは家で学んでいたために学校へ取り込まれなくて済んだものを「学校化」させるイベント。うーん、恐ろしい。
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