2009年8月14日金曜日

『オートポイエーシスの教育』、または卒論の概要。

 山下和也『オートポイエーシスの教育』を読んでいる。ルーマンの社会システム論のキー概念である「オートポイエーシス」理論をもとに、教育を再考するという本である。

 山下は、2通りの教育コミュニケーションが存在していることを説明する。ひとつは、「全体としての社会システムの期待される人格一般としての人格の担い手の育成を期待する」普通教育コミュニケーションである。もうひとつは「特定の社会システムの特定の人格の担い手育成を期待する」専門教育コミュニケーションを意味する(117頁)。
 現在では、普通教育コミュニケーションは最低限必要な基準であると考えられている。いわゆる義務教育である。社会の一員となるに当たり、「ないと困る」レベルの内容である。一方、専門教育コミュニケーションは、個人に応じ要求されるものが異なってくる。山下の言葉を使うと、将来になう人格に応じて専門教育コミュニケーションの中身は変わっていくのである。
 この言葉を説明した後、山下は次のように語る。これはイリッチの「学習のためのネットワーク」(ラーニング・ウェッブ)の欠点をしたものだ。

 将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。技能教育のネットワーク化を唱えて学校を否定するイリッチが見落としているのがこの点で、何を学ぶべきかが個人個人にわかっていないからこそ、学校による普通教育が必要なのです。独学の困難は学ぶべきことの選別にこそ存するのですから。(pp123~124)
 重要な指摘だ。けれど、見当違いもいくつかある。イリッチは確かに『脱学校の社会』のなかで、「技能教育」についても書いていた。けれど、山下の文脈にある意味ではなく、「学校的な機能が役立つのは、技能教育についてだけだ」といっているように私は解釈している。「技能教育」と「ネットワーク化」をつなげてはいなかったはずだが・・・。小中さんに聞いてみようかしら。
 個人は「何を学ぶべきか」「わかっていない」という点が印象的だ。若干、内田樹の語り口を思い出す。内田ならば〈学びとは、何を学ぶべきかわからない状態の中からはじまる。「自分はこれを学びたい」、と学びを商品のように扱うことはできない。学びは、何をどこまで学ぶかわからない中、それでも学び始めることから始まるのだ〉という感じで書くだろう(『街場の教育論』にあったはず)。ある程度学びが進まない限り、「これを学びたい!」という感情が起こることはないようだ。
 この点についてだが、フリースクールの理念を思い出すと、いささか疑問も感じられる。
 フリースクールの「自由な教育」は、「勉強しない自由」も認めている。奥地圭子のいう「ヒロベン」(広い意味の勉強)が行われているから、いまは遊んでいてもいいのだ、という態度である。『超・学校』に紹介されたサドベリー・バレースクールの実践も、「ヒロベン」である。生徒達は何をしてもいい。一日中、釣りを続けてもいいし、学校に来なくてもいい。「これを学べ」とは決して教師が言わず、「これを授業して下さい」と子どもがいうまで、教師はものを教えない。「教育とは待つということだ」という言葉があるが、サドベリー・バレーはそれを地でいく学校(語弊があるなら「学び場」か?)であるのだ。
 サドベリー・バレーのようなフリースクール(あるいはデモクラティック・スクール)において、「普通教育」を行っているといえるのか? 「ヒロベン」という便利な言葉を使うなら、「ヒロベン」を「普通教育」と考えられるのだろうか? 山下は学校内での、制度としての授業を「普通教育」と考えてるようだが、制度によらない「ヒロベン」を「普通教育」ととらえてもよいのであろうか。
 フリースクールなどの「自由な教育」の中で、「最低限必要な学習」が行われることを説明できるなら、いま以上にフリースクールが教育界で重視される存在となると考えるられる。
 けれど自分で書いといて何だが、この結論はフリースクールの命取りともなるような気がしてならない。イリッチは「価値の制度化」という状況への批判を『脱学校の社会』で行ってきた。イリッチのいうラーニングウェッブやフリースクールに、「普通教育を行いなさい」と伝えることは、フリースクールの「フリー」さを損ねる結果となるのではないか。「教えられたことを学んだことの結果だと考える」のが価値の制度化、「学校化」現象である。自由さがウリのフリースクールに、「これを行いなさい」ということは「価値の制度化」といえなくもない。
 方向性としては、いまフリースクールで繰り広げられている学びを、山下の言う「普通教育」ととらえていくという姿勢が必要となるのだろう。東京シューレなど「フリースクール全国ネットワーク」加盟団体であればこの考え方でいい。
 ただし、これは団体に入っているからOK、というわけではない(それでは「価値の制度化」である)。団体加盟の際に加盟条件に適った団体かをチェックする機能が働いているからOKとみなすのである(無理に子どもに教育を与えようとする組織は、外される)。このチェック機能にも残念ながら穴がある。加盟後に不適切な行動をしはじめる団体へのチェックを行えない点だ。実際、フリースクール全国ネットワークの活動を見てみると、「総会」に参加しない団体へのチェック機能がないように思う。また「総会」やその他活動にフリースクールの代表者が参加していても、適切なフリースクール運営をしているかを、「全国ネットワーク」メンバーが確認することはほとんどない。加盟数が100に満たない間は、それでも善意でなんとか運営されるかもしれない。けれど、数が増えて加盟数が300を超えてくると誰も実体を知らない組織が存在することになる可能性がある。絶えず加盟団体の行動をチェックする機構が「全国ネットワーク」に存在するのか否か。それがキーになる気がする。
 話が脱線したので戻すと、フリースクールだから「普通教育が」が「ヒロベン」の名で行われているのだろう、と思うことに危険が伴うのだと私は考えてるということだ。下手に「フリースクールには『普通教育』を制度としては取りいれない」とした場合、「フリースクール」という名称が名ばかりとなっているような学びの場(昨年の丹波ナチュラルスクールなど)に対し、「もっと~~な教育を行いなさい」といえないことになってしまう。
 この問題も、自称「フリースクール」と、「フリースクールの理念に合致した真のフリースクール」が明確に区別され、第三者機関によって評価される時代が来たら、解決するような気がする。現段階では「フリースクール全国ネットワーク」加盟のフリースクールを、典型的な「フリースクール」であると考えておくのが無難なようだ。
 

追記

 卒論では、イリッチのラーニングウェッブに対しての批判を行う内容を行いたいと思う。『学校が自由になる日』内の「学校リベラリスト宣言」の内容を踏まえ、「最低限必要な学習」と「発展的な内容」に教育内容を分けて行うなら、イリッチの主張は実現可能であるということを示したい。

再記

 再び確認してみると、イリッチの本文に、技能教育のネットワークを示唆するものがありました。ただ、山下さんの記述にあるような「技能教育のネットワーク」だけをイリッチが説いたわけではありません。
 …。おかしいな。イリッチは技能教育を学校で行うことに肯定的だったはずなのに…(というか、学校が役立つのは技能教育と大学だけだ、といっていた)。

2 件のコメント:

山人 さんのコメント...

拙著のご紹介ありがとうございます。拙著にも書きましたが、フリー・スクールもまた完全にフリーではありえません。それは、社会そのものが子供にとって既成だからです。いかに子供が学びたいと思っても、社会秩序の観点から教えられないことはあるし、また、学びたくないと思っても、学んでおいてくれなければ困ることがあります。要は、いかにその強制を感じさせずに学んでもらいたいことを学ばせるか、というのが、フリー・スクールのポイントなのでしょう。

いしだ・はじめ さんのコメント...

コメント、本当にありがとうございます。

『学校が自由になる日』に、内藤朝雄氏は「学校リベラリズム宣言」との一文を書いております。

その中では、義務教育を2つにわけて整理していました。一つは読み書き算(3R's)や権利についての知識等、「強制してでも身につけさせなければならない基本」に関する義務教育です。もう一つはいろんな科目から自分で選んで学ぶという義務教育です。

私の考えではフリースクールにおいても、前者の義務教育的内容を学べるようにすべきだと考えております。それこそ、既存の社会が子どもに必要とするものがありますから…。

「いかに子供が学びたいと思っても、社会秩序の観点から教えられないことはある」との部分は、全くもってその通りです。

「いかにその強制を感じさせずに学んでもらいたいことを学ばせるか、というのが、フリー・スクールのポイントなのでしょう」。非常に勉強になりました。