2010年3月26日金曜日

少年のび太が「ドラえもん」にサヨナラする日

 子どもは無根拠に「自己全能感」をもっている。その象徴がドラえもんだ。「自分は何でもできる」、それは「あんなこといいな/できたらいいな」の世界である。子どものような「自己全能感」を捨て(あきらめ)る、つまり「自分は何でも出来る」という思いを失うことが「大人になる」ことではないか。
 少年のび太が成長するには、全能感を捨てることが必要だ。そして「にもかかわらず」に生きれるようになったとき、のび太は大人になることができる。
 マンガ『ドラえもん』は、ドラえもん(という「自己全能感」を与える存在)を不要にするプロセスを描いたマンガなのだ。
 内田樹もいうように、「自らの存在を不要にする」行為を続ける人は美しく見える。ドラえもんが少年のび太の成育史において一時の輝きをもつのは、ドラえもんという「全能感」を与える存在がやがてなくなることを、子どもたちが薄々感じているからだろう。
 我々はドラえもんのいない日々を生きざるをえないのだ。自己の万能感を捨て、社会システムの構成員として日々を過ごす。
 宮台真司が言っていたが、キリスト教における「隣人愛」の本当の意味は、〈親を捨て、友も捨て、隣人を捨てて、それでも「他者」を愛する〉潔い魂の姿勢のことである。

 少年のび太が成長するには,やがてジャイアンやスネ夫のいる地域の少年コミュニティや「兄弟」や「全能感」(「兄弟」と「全能感」はドラえもんのもつロールモデルである)を捨てなければならないのだ。
 石原千秋も言っているが、大人になるとは誰かを/何かを精神的意味で殺すことであるのだ。これを無事に行い、大人になったのび太はドラえもんや地域コミュニティでの懐かしき日々を「あんなことも、こんなこともあったな」としみじみ回想することができるのだ。輝かしい日々は一瞬の命を持つ。ドラえもんとの日々に、「止まれ時間よ、お前はあまりに美しい」と叫んだファウストこと少年のび太は、我に返り、いつもと同じ会社勤めを行う。子どものノビスケにドラえもんとの思い出を語るのが趣味となっているのである。
 「あんなこといいな/できたらいいな」。その夢にあきらめを感じる時、そのときこそ我々がドラえもんを卒業する時である。

 ドラえもんの存在は、自らを不要にするためにある。けれどそれをしたくないため、ドラえもんはのび太を甘やかす。「しょうがないなあ」と言いつつ。あるいは無意識に。ドラえもんは矛盾した存在なのである。それはしかし、教育の不可能生の比喩でもある。
 学校の目的は、子どもが一人で学んでいけるようにする、つまり「社会化」のためにある。けれど「学校化」した学校は、本来個人的営みであった「学び」を、他者に依存させるものに変えてしまう。ドラえもんは自らを必要としてくれる年数が長ければ長いほど、長くのび太と過ごすことができる。
 『ドラえもん』の中で時間が動かないのは、ドラえもんが密かに「無限の日々」を過ごさせる道具を使っているためではないか。それこそ、「終わりなき日常」を永遠のものとするために。映画『うる星やつら ビューティフルドリーマー』も、荒廃した社会でそれなりに楽しく過ごすこと、つまり「終わりなき日常」をヒロイン・ラムが願ったことで成立した物語である。
 けれど我々はそれこそどこかで目を覚まし、「ドラえもんは不要だ」と高らかに宣言する日が必要だ。ドラえもんと違い、人間は「時間」というストックを食って生きている生物だからだ。
 少年のび太がドラえもんに「サヨナラ」する日。それは止まっていた時間が動きだし、のび太が急速に成長し(子どもは段階的にでなく、「一気に」成長するものなのだ)、ドラえもんは寂しさを感じるが少し微笑み、涙を流しつつタイムマシンに飛び乗るのである。のび太が「サヨナラ」を告げるまで、『ドラえもん』は終らない。仮にドラえもんに最終回があるのなら、それはのび太が自分の成長のためにドラえもんに「サヨナラ」を告げる場となるはずだ。
 あらゆる創造は、「別れ」からはじまる。




追記

 ドラえもん研究者の間では、ドラえもん―のび太の「契約関係」は2度結び直されている、という通説がとられる。一度目はセワシが〈できの悪いご先祖を改善するため〉にドラえもんをのび太の元につれてきたとき(コミックス1巻「未来の国からはるばると」)に契約される。それはのび太の合意に関係なく、未来の子孫が一方的にドラえもんと言う世話人をのび太に引きつけるという契約であった。
 2度目の契約。それは6巻「ドラえもん、帰る?」において未来に戻ってしまったドラえもん(「どうしても未来に帰らないと行けないんだ」とドラえもんは語る。セワシに何かあったのだろうか)の次の話が舞台である。7巻「帰ってきたドラえもん」において契約が結ばれる。それは「ウソ800」というウソが本当になると言う道具を使い、のび太は「ドラえもんは、もう戻ってこないのだ」という「ウソ」をつぶやく。それにより、ドラえもんは戻ってくるということになるのだ。このとき、ドラえもんーのび太の関係にセワシは介在していない。そのため、「帰ってきたドラえもん」以後のドラえもんはのび太の「兄弟」「友達」として描かれる。それ以前は「世話人」というドラえもん像なのだ(一部例外の箇所もある)。
 よくいわれる点だが、大長編ドラえもん(要は映画のことです)はドラえもんの「全能」を否定する所からはじまる。役立つ道具がなかったり(『大魔境』)、ポケットが無くなったり(『夢幻三剣士』)、ドラえもんが壊れたり(『雲の王国』)様々なことが起こる。ドラえもんの映画を始めるには、全能の神であるドラえもんをどこかで否定しなければならないのだ。
 これはのび太の人生においても同様である。のび太の物語は、『ドラえもん』では無時間モデルで描かれる。のび太はいつまでも小学校4年生のまま(アニメでは5年生のまま)いつまでも成長しない。この物語を再び動かすには、大長編を始めるのと同じプロセスが必要だ。それはドラえもんの「否定」である。




 

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