僕は草の茂みで教科書を探してる教科書が見つからない学校にまにあわないノートもどっかいっちゃった先生に怒られる…(たま『学校にまにあわない』)
私は草の茂みで何かを探しているけれど、見つからない。それは たまの『さよなら人類』の「こわれた磁石を砂浜で ひろっているだけさ」という歌詞と同様、もはや見つかりもしないものを必死に探す姿と言えないか? 磁石で砂鉄は見つかるが、その逆はない。
すぐれたメンバーばかりの集団にいる時、私はひどく疎外感と自己無能感を覚える。そんなとき、私は思う、「いったい何をしているのだろう?」と。見つかりもしないものを探しているようだ。
これを克服するためには、結局なにかの道を貫くしかないのではあるが、これでいいのかはよく分かりはしない。
けっこう映画も本も読んできたのに、人と話が合わない。会話が成立しない。そんな「もどかしさ」を感じ続けている(だから夏目漱石『行人』の長野一郎はテレパシーの研究をしていたのか)。全然、客観的には不幸ではない。けれど何故か「もどかしさ」と「俺、だめなんじゃないか」感がつきまとっている。
前に(昨年9月)そうとう落ち込んだときに『誰かへの手紙』を書いた。あれは、「いま」の自分への「手紙」でもあったのかもしれない。
「人は分かってくれない」と言うのはカンタンだ。でも、そう思うことは他人を軽視することだ。大事なのは自分の考えや思い・「もどかしさ」を誰かに伝えることだろう。「君」に手紙を送ることだ必要なのだ、という内容の小説。
こう落ち込んでいる「いま」の私を、何とか乗り越えたいと思う。もう一度、『誰かへの手紙』でも読もうか。
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