前にわたしは「教育のための社会」とは?という文章を書いた。そこの結論を、次のように私はまとめた。
「教育のための社会」を、「教育的でないもの、反・教育的なものを排除した社会」という認識の仕方は誤りである。「異質・異様な他者」を排斥することにつながるからだ。
ということは、「教育のための社会」とは逆説的ながら、反・教育的なものを包摂した社会ということができる。教育のための社会とは、「いい教育のために~~しなければならない」という言葉が存在しない社会、つまり「異質・異様な他者」や反・教育的なものすら受け入れる社会であるといえるかもしれない。
ここに書いた「反・教育的なもの」とはまさに「悪」のことだろう。「悪」が「悪」である由縁は教育プログラムに設定できないところにある。子どもの冒険は、子どもが勝手におこなうから冒険なのであり、親が「冒険してきなさい」といって行わせることができないものなのだ。
教育における「悪」の存在の重要性とは、教育者が被教育者(=子ども)の全てを担うことができない認識をするということと同義である。いくら親といえども、子どものすべてを知ることは出来ない。他人なのだから。まして教員が子どもの全てを認識することはさらに不可能だ。であるならば、教育者は被教育者の全てを見ることを諦める必要がある。「悪」の存在の重要性は、教育者がある種の「全てを知ることへの〈あきらめ〉」を知らしめてくれるところにあるのではないか。
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