あとがきから見てみよう。
本書では、学習者の主体的な理解活動や知識構成の過程に焦点をあてながら、同時に学習はまさに社会的な過程であるという社会的構成主義の立場から、個々人の理解や知識が、いかに対話と社会的相互作用のなかでその影響を受けながら形成されるかを明らかにしていくことがめざされた。いまなぜ、対話や協同的な学びなのかということは、本書のなかで述べたことなので繰り返さないが、学校教育のなかで学びがともすると個人の自立を強調して、自分の力だけで学びを完遂していくこと、そのための能力の育成といったことに目標がおかれがちであることに対して、学びというものは本来、個人の閉じた系ではなく、もっと他者との相互交流、相互の支え合いのなかで行われる開かれた系としてとらえ直していくことが必要なのである。(240頁)
このことが、「本書で私が読者の皆さんに伝えたいメッセージであ」ると述べられている。
確かに学びは集団の営みである点であることは否めない。しかし、近代社会において個人が所属する集団は年々変化する。ずっと同じ学校の同じメンバーで学びを進めるわけでないのだ。集団による学びは基本的には一期一会。教室の中でずっと続くようでも、数年したら全く違うメンツと関わるようになる。会社内でも部署移動はしょっちゅうだ。そのように、集団による学びは構成メンバーが常に変化する。
とすれば、重要なのは「一人で学べる」力ではないか。特定の人がいるから学ぶ、というのでは常に学び続けることは出来ない。現代の社会においては、いつリストラされるか、いつ別の業種を行うことになるか、だれも予想できない。そんな時代では、必要な時に必要な能力を身につける/学ぶ力が必要不可欠だ。「一人で学べる」力がないと生活できなくなることもあるのだ。
おまけに、「みなで学ぼう」とすると、無責任になってしまう。
そのため、集団的学びの重要性は非常に良く分かるが、結局「一人で学べる」力を身につけないと後々困ることになるのは事実だろう。「一人で学べる」力がないと、イリイチのいう「制度」に依存した人間になってしまう。いまも、ユーキャンなどの通信教育が流行ってますよね? 本当はそんなサービスに頼らなくても、自分で学べるのが本当の人間のはずである。
「一人で学べる」(「一人立つ」とも言えるか?)人びとが集まったとき、集団的学びがさらに発展するであろう。
2 件のコメント:
最近、ブログ更新に熱が入っているね。
1人でも学べること、1人でも学びたい、あるいは、学ぶべきだと思えることには、所属集団の環境にとらわれず、周りのあらゆる人や情報にオープンであることが前提としてある思います。これはいわば集団主義とは対をなす個人主義(利己主義ではない)の考えにも通じるところがあると。
この前提があってこそ、ここで云う対話であったり、社会的相互作用なり協同的学びが実現されるものと常々思います。
藤井ゼミのM
コメントありがとうございます。励みになります。
確かに「一人で学べる」力にはそれを支える環境が要りますね。まわりに本が溢れた家庭で、食事の際にフランス現代思想について語りそうなハビトゥスの家(相当な上流階級だなあ)に育つ子どもと、家に全く本がなく常に下世話な話で終始する家庭に育つ子どもとでは「一人で学べる」力には格段に差が出てきそうです。
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