例によって、アンソロジー的に紹介したい。
なお、池谷のいう〈教育〉とは、≪近現代に特有な教育のあり方を、それ以前のいわば共同体に埋め込まれて営まれていた教育と区別する意味で、〈教育〉という言葉で表現≫(9頁)するために、岩崎弘昭の『講座学校1 学校とは何か』(柏書房、1995)にならって持ってきた概念である。それにより、「人間が生きていくうえで不可欠な活動様式のひとつである教育一般」(同)と「近代に特有な教育のあり方」(同)とを区別できる。その上、≪〈教育〉を否定しそのオールタナティブを求めたとしても、それは教育一般を否定することにはならない≫(同)という良さがある。そこに続く≪近代的な〈教育〉は、人類が生き延びていく上で、資本主義的生産様式のもとで作り上げてきた活動様式とシステムのひとつの選択であり、そのあり方こそが今問われているのである≫(同)という指摘も興味深いものだ。
近代日本においては、公教育の成立と同時に、まずは家庭とそこでの教育が学校教育を補完・強化するものとして位置づけられる。次いで、家庭は国家社会の基礎をなすものとして積極的に位置づけられる。ここでは、家庭の親のいっさいの行動と文化が「卑猥か清浄か」という〈教育〉的規範に基づいて点検され、〈教育〉的なもの(「健全な」「清浄な」もの)となるように促されるばかりでなく、性別役割分業にもとづいた「スウィートホーム」の中で、積極的に子どもに「服従」「愛情」「責任」「公徳」などの徳を涵養することによって、家庭は「小国民」を教育する場とならなければならない、とされるのである。まさに近代社会にあっては、家族とそこでの教育は国家の戦略のうちに組み込まれているのである。(33頁)
「愛情」の名のもとで生徒を保護し指導しようとする〈教育〉のあり方を、「〈教育〉的パターナリズム」と呼ぶことにしよう。このパターナリズムのもとでは、教師は生徒のことを思って一生懸命努力し生徒を一定の方向に導こうとするが、その〈教育〉的な世話に対して、生徒は反逆することもできない。教師のこうした世話を受ける代わりに、「受身の黙認」(R.セネット『権威への反逆』)を余儀なくされるからである。「先生が一生懸命僕のことを思ってやってくれるのだから、その期待に応えなくては」というふうに考えてしまうのである。(49頁)
近代社会は、タテ・ヨコ・ナナメといった多様な人間関係を破壊し、人間関係を「親―子」関係と「教師―生徒」関係というきわめて単純な人間関係、しかもタテの垂直的な関係に還元してきた。しかもそこでは、他者に依存せず「自立」することが目標とされている。(…)つまり、子どもは教師の言うとおりに行動するように強制されながら、たえず「自立」的であることが自分のライフスタイルや自己価値を規定するものとしえ求められる、という矛盾した生を生きることに案る。文部省の言う「自ら主体的に判断し行動するために必要な資質や能力の育成を重視する教育」、すなわち「新しい学力観」は、まさにこうした矛盾した心性を生徒に引き起こすことになる。(57~58頁)
(石田注 母親と娘の会話を池谷は紹介する。娘の「汚い」言葉を母親が「そんな言葉はいい子は言わないわよ」と言って注意する。それにより、娘の「いい子」の部分は≪今後はうそをつかないで母親を裏切らないようにしようとする。しかし、もうひとりの自分はこう考える。「お母さんがわたしが悪いと言うのはあたっている。お母さんが好意的に考えてくれても、わたしは悪いことをしちゃうし、お母さんがだまそうとさえしちゃう。わたしはそんなにいい子じゃないもの」と。こうして、この子はしだいに「悪い子」を実現してしまう≫(70頁)に続けての引用。
〈教育〉的関係のもとでは、親や教師が今ある子どもを価値評価したり断定したりして、ある特定の「よりよい」方向へと変えようと望めば望むほど、子どもは逆にその価値評価や断定を実現しようとしてしまう。結局のところ、〈教育〉はその当初の目的さえも遂げることができない。(70頁)
世俗での子どもの「成功」を求めれば求めるほど、大人たち自身と現実世界が汚れていく。だからかえって逆に、世俗にまみれない純粋さや「無垢さ」が、汚れた自己を清めてくれるものとして、あるいはそうした自己から解放させてくれるものとして、大人の側から子どもに求められもすることになる。
このように見てくると、「無垢なる」子ども像は、大人の〈教育〉的願望とその目標であると同時に、大人の側の強制的な〈教育〉行為をいわば「免罪」し浄化してもくれる、そうしたものとして要請され求められた、と言うことができよう。(95頁)
→灰谷健次郎的「子ども尊重」思想には、この池谷の指摘が当たっているような気がしてならない。
親の愛情は〈教育〉目的達成の手段であり、子どもは〈教育〉操作のたんなる客体であり、大人も〈教育〉のためにすべてを犠牲にしなければならないという点では、〈教育〉の奴隷にほかならない。しかもこの中で子どもは、親に呪縛され、そこから逃れることもできなくなる。(123頁)
80年代にかつてない高度情報・消費社会が到来し、子どもの世界を襲ったことである。今や子どもたちは、一方では、資本(大人たち自身)によって仕掛けられたこのサブカルチャーの世界に入り込むことによって、大人世代から自らを隔離しつつ(隠れつつ)、消費・情報を通じて同世代としての自己確認をしている。しかし同時に他方では、学校や社会では市民的権利への通路は保障されていないとしても、いわば「消費・情報的な市民」としては、大人との境界を越えて大人世界へと参入してもいる。(181頁)
→ポストマンは「子どもはもういない」を書き、「子ども期の消滅」の理由をテレビの普及に求めた。池谷は「消費・情報的な市民」という概念で「子ども期の消滅」を描いているようである。
子どもが大人と共同する場所があれば、意図的な〈教育〉がなくても、何らかの学習がそこでは行われるということである。すなわち、意図的な〈教育〉がなくても学習は存在するし、学習は〈教育〉から相対的に自律したものとしてある、ということである。たとえば、ヘアー・インディアンの社会のように、子どもの自発的な学習があっても、大人の側に〈教育〉的な営みがない社会もある。ここでは子どもたちは大人がしているのを見よう見真似で学んでいるのである。(195頁)
この本の後半部は「性教育」を人々がどのようにとらえてきたかの時代史が語られる。
昨年の8月にフリースクール全国ネットワーク主催の「子ども交流合宿 ぱおぱお」が早稲田大学早稲田キャンパスを舞台に行われた。オープニングのセレモニーの際、あるフリースクールの代表として壇上であいさつした子のセリフが印象的だった。
「ここでは、普通に下ネタが話せるから、いい」
学校において、下ネタはタブーである。それが自然に・普通に話せる環境であるということは、池谷が終章でも書いているように、フリースクールが子どもにとっての「居場所」であるからだろう。
1 件のコメント:
いけがやっていうんですね。
池谷先生とおよびしていたのですが。
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