一番イヤなのは、「障害を持っているけれどそれに負けずに頑張っている子」のドラマである。それをみて、「ああ、私も頑張らないとな!」と思ってもらえるよう、お涙ちょうだい型ドラマになっている。
あまりにもこういうドラマを見ると、「障害者って、頑張っているんだ」という認識になる。現実にいる障害者を目にしたとき、その人が「頑張っていない」なら「なんだよ、コイツ」と思ってしまう。
障害者は頑張らないと認められないようである。そういうウラの意図が「障害を持っているけれどそれに負けずに頑張る」という認識に込められているのだ。
個人は個人であるだけで、その存在を認められるべきである。頑張っていようが、頑張っていなかろうが、自分を受け止めてくれる居場所が必要だ。
要は「頑張らなくても認められる空間」が必要なのである。アーレントの言う公共性の議論ともつながりが深い。
フリースクールを「居場所」ということがあるが、それもある意味では「頑張らなくても認められる空間」ということなのである。
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