僧が道を歩いていると、近くにいる人が案内をする。実はその案内人は幽霊で、「弔ってくれ」と言って消える。僧が弔うと幽霊が成仏を喜んで舞う。大体の能が、こういう型に基づいて描かれていた。何事にも、「構造」があるものだ。
「構造」と言っていいかは分からないが、子どもを人買人(ひとかいびと)にさらわれ、母親が狂乱しつつ探しまわるというシナリオも『まんが能百景色』に多く登場した。
「人の命は地球より重い」という言葉をよくきく。けれど、「生命の重さ」はどの時代でも一定であるわけでない。昔、子どもは勝手にいなくなったり、勝手に死んだり、誰かに殺されたりするものだった。大体、親が子どもの数を正確に覚えていないことも多い。モラリストと評価されるモンテーニュも、自分の子どもの数を覚えていなかったほどである(以上、アリエス『「教育」の誕生』より)。「人買人」に買われたり、さらわれたり。そういうことが日常的にあった(『千と千尋の神隠し』という映画のタイトルにあるように、「神隠し」も頻繁にあった)。でなければ、日本の伝統芸能である「能」に「人買人」の話が出てくるわけがない。
現在の社会では、「子どもを守る」ことが重視されている。いま私鉄の改札を通るたびに親にメールが送られたり、「ココセコム」や携帯で居場所を親が探せるようにしたり、塾に監視カメラがあったりするなど、種々の技術を活用しつつ子どもを保護する(『学校身体の管理技術』より)。私も保護されて育ったゆえに私が何か言える権利はないかもしれないが、本来子どもはこれほど保護されなければならない存在だったのだろうか? 能を見る限り、そうではなかったことがよくわかる。
本稿で私は何も「子どもを保護するな」と言っているのではない。時代に応じて、何が正しいかは移り変わる。「子どもを保護しない」のが当然の時代もあれば、現在のように「保護しまくる」時代もあるのだ。
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