拝啓 寺山修司様
「言葉の魔術師」たるあなたは生前、非常に多くの作品を遺されましたね。私は映画監督としてのあなたの姿しか、目にしてはおりません。『書を捨てよ町へ出よう』も『田園に死す』も、遺作『さらば箱船』も面白く見させていただきました。個人的な話ですが『町へ出よう』は『街』とされた方が雰囲気が出る気がします。『箱船』、今では祖父役が与えられる山崎努の若かりし頃の迫力にシビれあがりました。
「見世物の復権」を訴えられたあなたの演劇は、厳密には再度お目にはかかれません。あなたが演出する演劇は、もはやこの世に存在しないからです。演劇を録画しても、演劇の数%のみを今に伝えるのみでしょう。なんといっても、見る場所によって見え方の違う演劇をあなたが作ろうとしたのですから。
私はあなたに憧れます。何の衒いもなく「アジテーター」であることを誇れるのですから。
私は脱学校論を専門にしていきたいと考える一教育学徒です。仮に事実として現存の学校の醜さ・非人間性を訴えることをしたとしましょう。教育学者であればそれで済みます。ですが、私の文章を読んだ中高生が「学校は欺瞞の固まりだ」と考え、学校をボイコットする。その結果、この中高生が将来的に「反抗少年」としてレッテルが貼られ、人生を棒に振ってしまった場合、私の文章作成行為は正しいと言えるのでしょうか。あなたは「正しい」と言うかもしれません。ですが、私はこの中高生の将来受けるであろうデメリットを考えると、「何も書かない方がいいのではないか」と思ってしまうのです。教育学者ではあっても、真理より子どもへの影響を考えてしまうのです。
あなたは映画のなかで何度も母を「殺」してきました。捨ててきました。けれど生涯母からは逃れることが出来ませんでした。あなたはハッキリとご自分の矛盾に気づいておられました。それゆえに私たちに「寺山の言うことを100%は信じないほうがいい」と無言のうちに語っておられたのでした。ですが世の中はそんな人ばかりではありません。あなたの言を真に受け、行動してしまった若者がいるのです。少なくとも、私の回りには1人はいました。あなたを乗り越えるべき父親像とするのであれば何の問題もありません。「昔はこんなことがあった」と流してしまえるからです。問題なのは、皆が乗り越えられる訳ではないということです。あなたを信用した結果、あなたを乗り越えること(精神的意味での「父親殺し」)が出来なかった者はあなたに人生を狂わされたと言わざるを得ないのではないのでしょうか。
あなたは食うために文章を書いた人間ではありません。では何のために文章を書いてこられたのですか。人を不幸にする可能性も考慮して、文字を原稿用紙に書き付けられたのですか。
永六輔の『芸人』にはある役者の言葉が出てきます。'江戸時代の役者の演技を見て、世をはかなんで自殺した若い娘がいた。私も、一人くらいはそうやって殺してみたい’と。あなたの創作行為はこのような物なのではないかと推察するのです。
「死ぬのはいつも他人ばかり」。
あなたはよく口にされました。現に亡くなってみて、いかがですか。あなたは舞台の役者に話させました。「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」(『地獄編』)と。
死は他人の認識のなかにのみ発生します。「死」を認識する自己は存在しないからです。限りなく死に近い状況でのみ「ああ、もうすぐ死ぬんだ」と思うことはあっても、本当に心肺停止をする際には私の認識は無くなっているからです。
ということは、このことは生命の不死を説明することになるのではないでしょうか。私が「死ぬ」瞬間、別の場所に私の生命が連続して続いていく。あなたの言を聞き、そう思うのです。
いつの頃からか、本を読んでいて「私はこの著者であった時があるのじゃないだろうか」と、ふと考えるようになりました。説明が不足してすみません。自分の前世やその前に書いた本を、自分自身が再び読んでいることがある気がするのです。私の妄想が実際におこっていたとすればさぞ愉快ですね。前世の自分の思索を今世の私が再び引き継ぐことになるのですから。前世に書いた本を私が「この著者の言うことは間違いだ」と指摘するとき、さらに面白くなります。いったい、私という生命は何なんだ、と思うからです。
あなたは一体、誰として(あるいは何として)いま今世におられるのですか? それとも生命は一期限りのものなのですか? 教えてください、「言葉の魔術師」様。
*『地獄編』からの引用はhttp://homepage2.nifty.com/highmoon/kanrinin/meigen/ijin2.htm#maより。
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