少年犯罪の厳罰化も、まさにリアルタイムで経験した。「ひとごと」だと思ってはいたが、それでも気にはなった。
さてさて。もし仮に私が中学時代、新聞に報道されるほどの悪事を働いたとしよう(仮に、ですよ、ほんとに)。周囲の大人たちが「あんな真面目そうな子が…」というコメントがつく(当時は今よりはるかに真面目でした)。家族に多大な迷惑をかけ、家のガラスは投石で割られてしまう。親戚付き合いはなくなる(当然ながらお年玉もない)。
時間が経過する。
どんな重大事件でも、〈ほとぼりが冷める〉時は必ず来る。現にいまの高校生に「サカキバラ事件って、知ってるよね?」と聞いても「どんな事件ですか?」と逆に聞かれる。宮崎勤氏の死刑執行があったニュースを聞いても、今の大学生は「それって、何をやった人ですか?」と聞き返す。
ほとぼりの冷めた後、私は色々あったけれども21歳の誕生日を迎えた。私は「昔は色々あったな…」と遠い目をしてワイングラスを傾ける。回想される記憶。その中にあの少年犯罪が蘇る。けれど私は疑問に思う。「ああ、昔はあんなことがあったな…。ところで、あの事件って、本当に俺がやったのか? 全然覚えていないんだけど」。
そうなのだ。意識して思い返さないと中学時代の記憶は戻ってこない。忘れ去られた記憶はたくさんある。少年非行/少年犯罪をしていたとしても、忘却している可能性はある。親から「あなたの中学時代はこんなことがあったわね」という話を聞くとき、その話はほぼ100%私の知らない物語である(それだけ私は記憶力が悪い)。中学時代の私は今の私と本当に同じ人物なのだろうか?
2003年7月。長崎県で中学一年生の少年(12歳)が4歳の男の子を立体駐車場(7階建て)の屋上から突き落とす、との事件があった。現在、この子は18歳になっているはずだ。さらに2年経ち、20歳になった時、この少年は事件のことを本当に覚えているだろうか? きっと覚えていないんじゃないかな。
私は大学に入って、ようやく人を呼び捨てで呼べるようになった(遅いけど)。それまでずっと〈ためらい〉があったのだ。人との接し方という面で、現在の私と中学時代の私は違っている。身長・体格だけでなく、発想の仕方もまったく違っている。中学時代の私と現在の私に連続性・一体性は本当にあるのだろうか?
内田樹がレヴィナスを引いて語るように、過去の「私」は「他者」である。現在の私にとって、中学時代の私はやはり「他者」である。
少年法が加害者保護の側面が強いのは何故だろう。サカキバラ事件を例にすると、犯行時の14歳の少年Aと現在26歳の少年Aとは全く同じ人物といえるのだろうか、ということである。現在26歳になった少年Aにとって14歳の時の少年Aは「他者」ともいうべき感覚を抱く対象なのではないだろうか。そのため「この犯罪は昔、お前がやったんだ」と言われても、もう一つピンとこない感覚を、加害者が持つことになる。少年期は人の考え方・性格が大きく変わる時期だ。だからこそ少年法は加害者保護の立場が大きいのかもしれない。
追記
●世の「正論」をいう方々は、人間が常に完璧な形で過去の記憶を保っていると確信をしているようである。けれど、事件の被害者も加害者も案外忘れてしまえるところがあると思う(フラッシュバックやPTSD、トラウマとかはもちろんあるが)。少年犯罪ならばなおさらだ。「そんな昔のことは覚えていない」とカサブランカのリックのように答えることはできないのであろうか?
●少年院は《刑の執行を受ける者を収容し、矯正教育を授ける法務省の施設》(明石ほか『教育学用語辞典』131頁)である。ここにある矯正教育は《少年院が在院者を社会生活に適応させるために、その自覚に訴え規律ある生活のもとにおこなう、計画的、組織的な教育活動》(同76頁)である。
昨年春に榛名女子学園という少年院を訪問した。そこでは自らの犯した罪についてを自覚し、「これからどうしていくのか」を問いかける教育がおこなわれていた(無論、それ以外の学習―例えば通信教育で高校卒業資格などを取る―もなされている)。これは下手をすると忘却してしまう自分の犯罪を記憶に叩き込むためにおこなうものではないだろうか。
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