2009年4月30日木曜日

「話せば分かる」のか?

話せば話すほど、生じる誤解。

「話せば分かる」とはよくいわれるが、話せば話すほど誤解の深まる時もある。

友人はいう。「本音を言ってくれ」。
けれど本音や本心なんて、本当に人間にはあるものであろうか? 話す時々の「思い」はあっても、本音というものは存在し得ないのではないだろうか。

先ほどまで、拙宅で種々の話を友人2人と行った。「本音を」というから、思ったことや感じてきたことを話した。どうやら、多大な失望を与えてしまったようだ。話さなかったほうが良かった気がする。

ただ、「ここから関係を良くしていく」というM君の最後のセリフは一筋の希望ではある。
ところで。ただでさえ頭の回転の鈍る深夜に深刻な話をしても、「建設的な」話ができるわけない。

追記
●よく文の読み方として「批判的に読む」とある。著者の意見に同調しすぎず、「どこかに批判すべき点があるのではないか」と考えながら読む手法のことだ。クリティカル・リーディングともいう。この方法には欠点があるように思う。批判的に読むとき、主体である「私」が成長/変化することが制限されることがあるという点だ。
 批判をするとき、人は批判される対象よりも高い位置にいるという前提がある。対象と同じかそれより低い位置にいる時、批判をすることはできない。その姿勢はものを学ぶ姿勢ではない。授業中、教師の揚げ足をとることに似ている。批判をするときには「学ばせていただこう」という謙虚さがなくなってしまう。その結果、批判者は批判する対象によって変化させられることがなくなる。
 本日の友人との諍い。はじめ私は「批判者」として対面していた。けれどそれでは相手の揚げ足を取り続けるだけとなり、何のために友人たちが家にまで話にやってきたのか分からなくなった。相手が「思い」を伝えにやってきたのなら、その思いを批判的に聞くだけでは相手に失礼であるし、自分の成長のチャンスも摘んでしまうこととなる。
 学問の世界では「批判的」であることは重要なようだ。けれどこの態度を貫きすぎると、小説や偉大な研究によって「私」が根本的に変化させれた、ということが無くなってしまう。そもそもの研究する意味すら分からなくなる(私は灰谷健次郎がいうように、研究という「仕事」によって〈人間的成長ができればいいな〉と考えているのだ)。
●友は「お前は自己顕示欲が強い」と言っていた。おそらく、そうなのだろう。このブログを書きながら実感している。
●「いま思っていることをいってほしい」といわれたとき、雑念で考えていたことを思わず言ってしまった。相手は不機嫌となった。不注意であった。

2 件のコメント:

yam@waseda さんのコメント...

なるほどね〜。俺もホンネと建前について君と共感する点も多々あるよ。

君の論点としては、

Q1.ホンネを言う事は人間関係をよくするのか。
Q2.説得や交渉の場では、ホンネを言う事が問題や紛争の解決に役立つのか。
Q3.物事を批判的にとらえる事と、疑いなく無批判に物事をとらえる事は、どちらがより(灰谷の言う?)人間的成長へとつながるのか。

ということかな。
特に、Q3に関しては君はかのソクラテスと反対の立場にあるわけだ。
少しじっくり考えてみて、また論考をつづってくれると面白いね!

あと、追記の第一段落がまったく意味不明になってるから、推敲してみてはどうでしょう(^_^;)

いしだ・はじめ さんのコメント...

了解です、第一段落、推敲します。

ただ、私の主張は「そもそも〈本音〉なんてものがあるのか」という点もあります。本音だ、と自分では思っていることは、本当に自分の真意なのでしょうか? 自分でしか分からない分、それが本当に〈本音〉といえるものなのかどうか、すごく気になります。