いま、教育に人の働きが発揮されると、単に教える者から教わる者へと教授すべき内容の情報が移動するだけではない。その情報を取り巻く世界が共有され、それを学ぶ意味あるいは喜びといったものが、教える者と教わる者とが一体化したかかわりのなかで共有されていく。そして、それがそれぞれに分化し対象化されてゆくなかで、情報が情報として伝達されてゆくことになる。それはもはや情報の伝達云々以上のものであり、情報の創造と言ってもよいほどのものであろう。そして、この人の働きをもっとも強調した教育が、すでに言及した徒弟教育である。さらには正統的周辺参加である。(105〜106頁)
ここにあげた「あえて、教えない教育」を実践するのはいささか難しい。けれどその中に日本の教育(公教育も私教育も入る)の改善点があるのではないか。ちょうど原ひろ子『子どもの文化社会学』にあった「教えられることに忙しい」子どもが日本に多く存在しているのだ。
教師としての職業を遂行してゆくこともまた難しい。ましてや教えることを仕事とする教師が「教えない」とまで言い切ることは、余程の力量と自信があってはじめてできることであろう。そして時には、この教えないことが教えることよりもはるかに重要な意義をもつこともある。過剰教育が問題となるのは、単に知識を与え過ぎる云々を超えて、せっかく子どもが直面した生の体験を自らの言葉で表現してゆく機会をも奪ってしまうからである。教えられるがゆえに、子どもたちは自らの言葉で考えぬくことを放棄してゆくこともあるに違いない。それを放棄した子どもがその後どういう道を辿るかは言うまでもない。(130〜131頁)
著者の野村は「教えない」教育である徒弟教育に最大限の評価をする。けれど、広田照幸も言っているが、徒弟教育は「あわない」個体(子ども)を排斥するなかに成立した制度であることについてを忘れてはならない。仕事に不適応な子どもが自主的/他律的にいなくなっていくからこそ、効率的ではないが「技」の習得/仕事による自己形成という教育作用が徒弟制度にあったのだろう。
それゆえ、現在の公教育のように《分からなくても、とりあえず教員が語り続けるのをじっと聞く》ことの意義も、不適応な子どもの排斥が無い分、一定程度評価しなければならないだろう。
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