たとえ失敗してその人のためにならなかったとしても、「外発的に与えられたものに人は納得しない」ということを肝に銘じなければならない。内発的な意志による決断でないと、「あのとき、自分の本当に行きたかった道を選べば良かった」と後悔することになる。
進路選択。四大に行ける「学力」を備えた高校生が「職人になりたいから大学に行かずに就職する」ということを言い出しても、「いや大学は行っといたほうがいいよ」と教員は邪魔をする。親からも「社会」からもそういわれ、結果「やっぱそういうものかな」と大学受験をしてしまう。
やがて大卒でサラリーマンになった彼は、満員電車に揺られ、外の景色を見つめている。或るとき線路沿いに見える個人経営の店を見つける。そこで働く職人たち。「俺も、あの道を選んでいても良かったんじゃないかな」とふと思う。その時、10数年の時を経てあの進路指導室での一コマが頭によぎるのである。
無論、自分で道を選んだ結果、失敗することもある。けれど自分で選んだことであるならそれなりに納得できるはずだ。外発的な動機で道を選択した場合、ルサンチマンだけが高まっていく。
追記1
これに近い状況は、大学院に行くか行かないかの選択時にもある。
「君くらいの学生なら、院で研究をしたほうがいいんじゃないか」
仮にそういわれても、いい内定先を得ているなら学生は迷わずに企業に向かう。
大学院に行くかどうかの選択時と同じ状況が、高校の進路指導の際に起きれば面白いのだが。
追記2
この話にはさらに反論が可能である。
twitterに流れていたが、2ちゃんねる管理人のひろゆき氏が「若者の起業は失敗しやすい」という旨で文章を書いていた。それへの反応として「いや、これはひろゆき氏のフリであって、《こんな文章を読んで起業を諦めるのなら、起業してもまずうまくいかない》というメッセージを伝えているだけなのだ」、というものがあった。本文中の進路指導室の話はまさにそれである。「この道はやめとけよ」と言われても、《にもかかわらず》自分で道を選ぶという姿勢が重要なのだ、と言うことも可能である。
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