フーコーの関係で言うと、「生涯教育」は一生涯のディシプリンである。恐ろしいことであり、人間はいつまでたっても自由に/わがままに生きることができなくなってしまう。
イリイチはこう語る。もともと、教育の場では限られた場所(学校)で限られた時間に、限られた教科の手ほどきをうけるために教師の前にさらされていたが、「新しい知識の商人はいまや世界が自分の教室だと考える」(197頁)。たえず「学び続ける」ことが強制されるのだ。一見、自律的に見えるが「ムリヤリ」やらされる自主学習であることを見落としてはならないはずだ。イリイチは続ける。「教科の教師は自ら教科をあえて学ぼうとする非学生のみを資格なきものとすることもできたが(藤本注 これも、非常に皮肉で面白い。自発的に学ぶ学生はもはや学生ではないのだ)、一生、くりかえされる「教育」「自覚化」「感性訓練」「政治化」の新しい管理者は、自分が同行しない行動様式をすべて一般大衆の眼の中で貶めようとするのである」(197~198頁)。「一生、くりかえされる「教育」「自覚化」「感性訓練(フーコーの「規律・訓練」だ)」「政治化」」というのは、まさに生涯学習や生涯学習の批判になるものだ。本来、学びは勝手にやるものである。やらなくても別に構わないものだ。それが本田由紀のいうポスト産業社会型スキルでは常に学び続ける姿勢やモチベーションや「さわやかさ」が求められる。人々が無理矢理学ばされ、それを「生涯学習」という美談でまとめてしまっている。恐ろしきことではないか。
イヴァン・イリッチ著、金子嗣郎訳『脱病院化社会 医療の限界』晶文社クラシックス、1998年
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