マイケル・ホルクウィスト『ダイアローグの思想 ミハイル・バフチンの可能性』(法政大学出版会、1990年)
われわれは自分自身を見るためには、他者の視線を自分のものにしなくてはならない。きわめて大雑把にいえば、主観性をめぐるバフチン流「本当のような作り話」は、私がどのようにして他者から私の自己を手に入れるかをめぐる話である。私を、私自身が知覚できる客体に変えてくれるのは他者の範疇だけなのである。私は私の自己を、他者はこう見るかもしれないと思い描きながら見る。自己を作り出すには外部からそうしなくてはならない。換言すれば、私は私自身の作者となる。42頁
われわれ皆が自分自身のテクスト、人生と呼ばれるテクストを書いているのである。
45頁
「私」の始まりと終わりを全体的生として構想する可能性は、他者の時間/空間において実現される。「私」の死は他者にとってのみおこるからである。320頁
→猛烈に印象に残った言葉である。「私の死は他者にとってのみおこる」。
言表はつねに、それに先行する別の言表に対する応答であり、それゆえ、程度の差こそあれ、先行する言表はつねに条件づけられ、次には逆にそれを限定する。バフチンにおいては「言説は状況を反映するのではなく、それが状況なのである」と著者はいう。322頁
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