佐々木健一『美学への招待』(中公新書、2004年)
あるアーティストがこれはアートだと言えば、それがいかに異様な、これまで藝術やアートとされてきたものとは一致しないものであっても、それをアートではないとする根拠はない、ということになります。(68頁)
われわれの経験のなかで、何らかの意味で直接体験と呼びうるものが最初にくるケースはほとんどない、と言えるでしょう。われわれを取り囲んでいる文化環境のなかでは、複製の存在が圧倒的なヴォリュームをもっています。それはわれわれの文化環境が、テクノロジーによって形成され、そのテクノロジーが複製を増殖させているからです。世界については、99%の情報はテレビや新聞からやってきます。藝術については、まず画集を開いて名画を知り、ラジオやCDで音楽を聴きます。複製を否定することは、文化に触れることを拒絶するに等しいでしょう。(81頁)
→たしかに、わたしたちは読む前から『坊っちゃん』のストーリーを知っている。場合によってはシャーロック=ホームズの犯人やトリックすら知っている。
自由であるとき、われわれは怠惰になりがちです。(90頁)
163頁「藝術史を識らなければ、藝術は分からない」
新作しか上演されなかったギリシャ演劇。
「人間を超える」ということは、人間中心主義(藤本注 近代の考え方のこと)を清算し、虚心に宇宙のなかでの人間の位置を問い直すことにほかなりません。さしあたりは、われわれ人間が自然の一部でもあることを認識することであり、ひいては、人間以上に偉大なものが存在することをわきまえることです。それが美学と結びつくのは、美がそのようなものだからです。(中略)いま、「人間を超える」美学としてわたくしが考えているのは、藝術美よりも自然の美です。藝術美でさえも、それは計画して得られるものではなく、卓抜な仕事への報奨として与えられる恵みでした。人間の力は美に届かないのです。大自然の美に触れるとき、われわれは自らの矮小さを認め、それに愉悦を覚えます。無限に広がる大洋に向かい合い、高山の威容に触れるとき、誰でもそのことを体験します。美学は美のこの性格と、その体験における効果を語らなかればなりません。(222〜223頁)
2009年2月25日水曜日
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