佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店、2000年)
不登校の問題については、いくつものよじれが質されなければならない。まず義務教育と言っても、子どもが学校に行く義務を負っているわけではない。親が子どもを学校に通学させる義務を追っているのであって、子どもは学習する権利をもっているだけである。したがって、アメリカなどでは、不登校が生じた場合には、まず親の責任が問われ、それでも解決されない場合には、子どもの学習権を保証するために、家庭を訪問して公教育を保障する教師が派遣されることになる。
しかし、わが国では、不登校の子どもは病的な子どもとして扱われ、カウンセリングが施されている。さらに中教審の答申は、不登校の子どものために中学校の修了を認める認定試験を実施することを提言している。さらに文部省は大検によって義務教育を受けなくても大学に入学できる措置を導入した。本末転倒である。行政に必要なことは、学校に行けない子どもに対する学習権の保証であって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。(中略)しかし、公教育の原理において行うべき対処は、学校に行けない子どもたちの学習権の保証である。不登校という行為は病的な現象ではないし、カウンセラーが対処すべき事柄でもない。(33頁)
→フリースクールの子は学校で学ぶことにそれほどの価値をおかない。「学ばなくてもいい」という指摘もある。佐藤は「学ばせる」ことを重視している。
チャーター・スクールは、成功した場合において、むしろ弊害は大きい。日本人にはほとんど認識されていないことだが、学校選択の自由は、アメリカ社会においては人種差別・階層差別と密接に結びついている。公民権法(1963年)の制定後、表立って学校における人種隔離の要求を提出することは法律違反となった。公民権法制定以後、黒人やヒスパニックや低所得者層の子どもと同じ学校で学ばせることを嫌う親たちが掲げたのが「学校選択の自由」の主張であった。この事情はアメリカ人には暗黙の常識なのだが、日本人によるチャーター・スクールの紹介においては、まったく無視されている。実際、チャーター・スクールの多数は、人種差別・階層差別を基盤として成立している。(中略)近年、日本においても学校選択の自由について活発に議論され、チャーター・スクールへの期待が高まっている根底には、アメリカと同質の「あの子たちとは一緒の学校にやりたくない」という差別の欲望を見ることができる。日本の社会も文化の階級差と階層差を拡大している。文化の階級差と階層差を基盤とする教育意識における私事化の進行が、学校選択の自由への関心をよび、チャーター・スクールへの期待を呼んでいる事実を認識することができる。(pp44~45)
すべての子どもたちに自らの可能性に挑戦する自由を保障することである。教育改革の原理とすべき自由は、新自由主義者が主張するような選択の自由ではなく、学ぶ権利にもとづく挑戦の自由である。(167頁)
一般に教師は、成績のよい子どもが学業に失敗すると、本人の学び方や努力に原因を求めるが、成績のよくない子どもが学業に失敗すると家庭環境に原因を帰属しがちである。(170頁)
2009年2月8日日曜日
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