2007年7月17日火曜日

待つこと・見つめること

 最近、「待つ」こと・「見つめる」ことの重要性に気づいてきた。 
 すべてを教えるのは、よいことではない場合がある。相手が学ぼうとしていないときに教えるのはかわいそうだ。子どもが失敗し、そこから学ぶのを防いでも意味はない。齋藤孝は自著の中で、ハンマー投げの室伏の父は、じっと彼の投げを見つめ、ついに何も言わない日がいつもであり、ためにボソッと「よくなった」といったらしい。教師はついつい教えたがるが、それで自分と同じレベルにはできても、自分以上の人材にすることができない。
  子どもは未来からの留学生である。前に田中さんもいっていたように、教師以上に実力のある子ども・知識のある子どももいる。その子たちに子どもだましの知識を与えることはできない。
 子どもたちは、自分の存在に関わらず、存在する。教師が存在しなくても、生徒は存在する。だとしたら、自分が彼らを拘束してしまっては、彼らの可能性を閉ざすことになる。  言うべきことはきちっといい、相手のいい点は自由に伸ばすこと。これが必要なのだと思う。

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