2011年3月30日水曜日

小熊英二(2002):『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社。

小熊英二(2002):『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社。
発表者:藤本研一
2011/03/30
範囲:第8章「国民的歴史学運動 石母田正・井上清・網野善彦ほか」(pp307-353)
☆は藤本のコメント。

概要
・結論:マルクス主義歴史学である「国民的歴史学運動」は大きな影響をもったが、間もなく限界を迎えることになる。この運動は「民衆」自身が歴史を綴ることを重視した運動であり、民衆を中心にした歴史へ読み替えやマルクス的イデオロギーを伝える学問にするなどの動きがあった。この運動は、想定された「民衆」と実際の民衆の間にズレがあることや、共産党の意向の変更により挫折を余儀なくされることになる。


・戦後歴史学:マルクス主義の影響が強い リーダーは石母田正(いしもだしょう)/戦前のナショナリズム批判の最大の勢力の一つ
→1950年代前半では「民族」がもっとも強調された領域。
・本章のテーマ:国民的歴史学運動とこの時期のマルクス主義歴史学
→戦後左派のナショナリズムの性格と限界

●孤立からの脱出(307-)
・「1930年代末には、数年前まで隆盛を誇ったマルクス主義歴史学は、ほぼ完全に圧殺されていた」(308)
→古代史・中世史で細々と研究が行われるようになる。戦後もマルクス主義歴史学は古代史と中世史の研究者が中核を担うことになる。
・戦後の石母田:著作『中世的世界の形成』の経験から、「民衆からの孤立を脱し、社会に働きかける学問として、戦後の歴史学を構想していった。そしてそうした志向は、やがて「民族」という言葉によって表現されてゆくことになるのである」(313)

●戦後歴史学の出発(313-)
・「敗戦後、言論統制と皇国史観の支配から解放された人びとは、歴史学へ熱い関心をよせた」(313)
・「1946年1月、戦中には孤立に追い込まれていた哲学・科学・歴史学などのマルクス主義系知識人が集まり、そこに非マルクス主義系知識人も加わって、民主主義科学者協会(民科)が創立された。その歴史部会の機関誌として、1946年10月に『歴史評論』が相関される。戦前いらい石母田たちが拠点にしてきた『歴史学研究』も1946年6月号から再刊され、この二つの雑誌が戦後のマルクス主義歴史学の中核になった」(313-314)
・「第6章でみたように、文学においては、政治的中立を装う「芸術至上主義」が批判されていたが、歴史学でそれに相当するのが「実証主義」だった。中立を装う「実証主義」は、最終的には帝国主義の側に加担する、ブルジョア思想にほかならないとされていたのである」(314)(☆いろんな動きは軌を一にしている。時代の空気は人を同じ方向に向かせる。)
・「マルクス主義歴史学者からすれば、歴史とは明確なメッセージ性をもち、児童に希望と誇りを与えるものでなければならなかった」(315)(☆しかし、これは本当に「歴史学」なのだろうか)
・石母田の民衆文化観(1948年):「身分制度のもとで下層民がつくった民謡は、能や法隆寺が支配階級の意識を反映しているように、卑屈な被支配者意識を反映しがちである」(317)
・「いかに民衆からの孤立を脱するかを課題」とする石母田は、「民衆にたいする啓蒙活動」(318)をはじめる。その際講師も人民から学ぶことを重視した。
・「歴史というものが、つねに政府や知識人といった権威から与えられるという「古い卑屈な伝統をこわす」ために、民衆自身が「自由な創意と興味」によって歴史を書くことを提案することにあった」(319)
→「労働運動の歴史」の記述を、労働者が出来るようにすること、など。「歴史の専門家がその仕事を助け」ることで。
→「「政治」と「研究」の二元的対立の使用を目指した思想であった」(321)/石母田が「悔恨を抱いていた「若い人たち」に対する責任を果たす行為でもあった」(321-322)
・しかし、石母田自身「農村をよく知らない」(232)や「図式的なステレオタイプ」(232)で農民像を語る等、精緻性に欠けていた。
・「民族」観:当時の石母田:「「民族」や「民族文化」は過去の伝統ではなく、未来にむかって創造されるものであった」(324)

●啓蒙から「民族」へ(324-)
・1950年のスターリンの言語学論文:「近代的な「民族」は資本主義以降に形成されるが(☆フーコーのいう「人間」は18世紀に成立した、との主張を思い出す)、その基盤として、近代以前の「民族体」が重視されるべきだということが説かれていたのである」(325)
→「民族文化」も「近代以前のものを含むべきだという転換を示すもの」(325)になった。
・石母田の「民族」観の変化:「大衆こそが民衆」(326)/スターリン論文への共感
→①民衆志向 ②アジアの再評価(とくに在日朝鮮人への注目)

●民族主義の高潮(331-)
・「支配者がつくったテキストや文化を再解釈し、それを革命の表現に転化してこそ、支配者が大衆に注ぎ込んだ愛国教育を逆手に取ることができる」(333)という藤間の主張/(☆現代ではとても共産党の言説とは思えない、)民族主義的な言説の横行
・民衆中心主義への読み替え:「武士道は支配者の思想ではなく、民衆を守り、民族全体を守る者の責任の倫理として、むしろ下から出て来たものである」」(334)
・倉橋文雄「歴史をほんとうに大衆のものにするためには、文学の場合と同じく歴史家の場合も資料操作以上の飛躍が必要ではないか」(334)(☆ここまでくると学問ではなくなっている。イデオロギー性や「闘争性」を学問がもってはいけない理由でもある)
・1955年頃「この時期、共産党系の歴史家でナショナリズムそのものを批判する者はほぼ皆無で、ただ肯定すべきナショナリズムを歴史上のどこに求めるかをめぐって論争していた」(336)
・まとめ:「もともと1948年の時点では、「民族」は近代の産物だという見解と、理想的な「民族」が形成されるまでは階級闘争が重視されるべきだという認識が、単純な「民族」礼賛への歯止めになっていた」(337-338)
「しかし、そうした歯止めが取り払われた1950年代以降は、旧来の「民族」観を批判していたはずのマルクス主義歴史学者たちさえもが、慎重な姿勢を失ってしまった。もともと彼らも、他の日本臣民と同様に、戦前の愛国教育を受けて育ってきた人びとだった。いわば彼らは、革命推進のかたちで「民族」という言葉を使うことが許されたとき、数年前まで馴染んできた言語の発話形態に逆戻りしてしまったのである」(338)

●「歴史学の革命」(338-)
・国民的歴史学運動のはじまり:「民衆が自分自身の歴史を書くことで「声」を獲得し、知識人はその助力をすることで既存の学問を改革すること」「を実行に移したものであった」(339)
・竹内好「1950年には、戦争と革命は予測でなくて現実であった」(342)
→(☆当時のリアリティでは共産主義革命は「必然」であったのだ)
・石母田の「大衆から孤立」しない「インテリゲンチャの活動」への呼びかけ:「大学進学率が低く、学生にエリートとしての自意識が残っていた当時においては、こうしたアピールは共感を集めた」(343)/農村に入ることで、学問からの「疎外」を回復する(☆現場に入ることで人生観が切り替わり、結果学者としてのアイデンティティを放棄、その共同体の一員になる、という内容のエスノグラフィーはたくさんある)
→☆石母田の講演の内容は1953年発行の書物におさめられている。1955(s.30)年の段階において大学進学率は10.1%(短大含む)である。B・クラークの図式でいうならば、マス段階どころか「エリート」段階の高等教育である。
・農村に入る「「学生さん」への敬意と好感は、大学生の存在が大衆化する60年代半ばまで持続し、60年安保闘争の高揚を支えることになる」「いわば国民的歴史学運動は、参加した学生たちの心情という面では、1960年代の全共闘運動と、部分的には共通していたといえる」(345)

●運動の終焉(346-)
・1953年頃からの活動の行き詰まり
①学生・研究者の相互批判 自己批判の強制(☆参考エッセイを参照)
②「「民衆のなかへ」という理念そのものが、現実の民衆にたいする無知から発していたことを意味していた」(349)
③1955年7月の六全協による、日本共産党の方針転換
→「運動の瓦解は、多くの人びとを傷つけた」(351)/網野善彦が1960年代後半までほとんど論文を発表できなくなる。
・「「よろこび」や「たのしさ」を出発点としていたはずの運動が、政治的な「実用主義」に巻きこまれ、「強制」や「義務」に転化してしまった」(353)という石母田の後悔。(☆内藤朝雄の「中間集団全体主義」あるいは山本哲士の「社会イズム」の弊害である)

論点
・考察にもあるが、「学問」と「政治」の繋がりについて、考察したい。学問はたしかに「政治」や「社会」から中立の存在ではないが、だからといって「政治」や「運動」に肩入れした学問をするのは本末転倒であると思われる。それは「学問」システムから離脱することになるからだ。

考察
・共産党やソ連の姿勢一つで学問の方針が変わってしまうところに、当時のマルクス主義歴史学の学問的自立性の弱さがあったように思われる。

・人間は善意で人を不幸に落とし込んでしまうことがありうる。それが個人と社会をめぐるパラドックスである。「国民的歴史学運動」における石母田の姿勢も、それであった。通常は「やりすぎ」の運動を防ぐため、各社会システムごとに「きまり」がある。学問ゲームにおいてはそれは「科学性」であるし、『ホモ・アカデミズム』や『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』においてブルデューの言った研究者のハビトゥスを意識する必要がある。また、マンハイムの「存在の被拘束性」やウェーバーの「客観性」原理の意識など、学問する上で最低限守るべきルールは存在している。
 石母田の失敗は、あまりにも歴史研究ゲームから外れすぎたところにある。民衆に対する歴史研究だったはずが、単なる党の市民運動に堕してしまった時点で「アカデミズム」ではなくなったのだ。いわば学問ゲームから自ら離脱してしまったのである。
 無論、この傾向をアカデミズムの自閉性ということもできる。しかし、オートポイエーシス理論をもとにするならば、そもそもどの社会システムも閉鎖的であるのである。その社会システムが外部の社会システムと接触するとき「構造的カップリング」が発生するというのがルーマンの理論である。「構造的カップリング」の前後で社会システムが変容している点に注意したい。
 つまり、石母田らの行った「国民的歴史学運動」は「歴史学」という社会システムと「市民運動」という社会システムが構造的カップリングを起こし、まったく異質のシステムに変更した、ということなのである。本来の歴史学システムとは変遷しているわけであるから、歴史学から追い出されてしまうのは始めから分かっていたわけである。本来的な歴史学を批判し、新しい「国民」のための歴史学創出を行おうとするばあい、その新しい歴史学が本来的な「歴史学」でなくなるのは、トートロジー的ではあるが、真実である。
 仮に市民運動システムとの「構造的カップリング」が歴史学システム全体を変容させるほど多大なインパクトをもっていたばあい、逆に石母田の方法が歴史学の主流になっていた可能性がある。これも「構造的カップリング」の働きによる。しかし、その場合歴史学システムの外にいる人物からみて、全く異質な「歴史学」システムに変貌している可能性がある。

・科学を「民衆」のものにするためにはあえて非科学的な記述をすることを辞さない態度が「国民的歴史学運動」にあった時点に問題があったと考えられる。I・イリイチは『シャドウ・ワーク』において「民衆のためのサイエンス」science by peopleと「民衆によるサイエンス」science for peopleとを立て分ける。前者は民衆にあてた科学であり、主体は知識人である。一方、後者は民衆自身による科学を訴えた内容となっている。イリイチは前者を批判し、後者の実現を呼びかけている点に注目したい。「国民的歴史学運動」は前者に当たるのはいうまでもないことである。
 ここでイリイチの「民衆のためのサイエンス」と「民衆によるサイエンス」の違いを考察したい。前者の難しい点は「前衛」を名乗るばあい、「民衆によるサイエンス」を理想としても(本章でも問題になっていたことである)、一時的であれ「民衆のためのサイエンス」としての知識人が必要だ、というアポリアを招いてしまう点にある。イリイチ自身が自覚的だったか不明であるが、イリイチと言う知識人自体、「民衆によるサイエンス」を実現するためにアジ的言説を吐いたという意味で「民衆のためのサイエンス」を実行していたといえるからだ。
 つまり、「民衆によるサイエンス」は「民衆のためのサイエンス」なしに成立しえないという問題点をはらんでいる。「前衛」党の存在は「民衆によるサイエンス」をエンパワメントするのが働きだが、制度化しない段階で「前衛」が手を引かなければ結局「民衆によるサイエンス」が育たず、「民衆のためのサイエンス」に終ってしまうのである。

・ 批判的教育学がでてくるのは、我々研究者が無自覚的に行っている実践(プラチック)が現行体制の再生産機能をもってしまう。ただでさえ体制順応的になるからこそ、アップルらはあえて「批判的教育学」を実践したのであった。
 下手をするとマルクス主義的な色がついてしまうため、教育学のメインストリームになれなかったのはこのあたりに由来している。このあたりも、本章と合わせて考察したいと思う。
 社会学者R・Collinsは次のように述べている。
「政治・経済・社会階級は決定的につながっている。なぜなら経済システムは所有をめぐって組織され、所有は階級を定義し、そして所有は国家によって維持されるからである。所有物は所有されているもの自体ではない。所有物が誰かによって所有されるのは、国家が所有者の法的権利を確立し、その権利を保証するためには警察権力、必要ならば軍隊を用いるというかぎりにおいてである」(66)
→研究者や経済人が体制派寄りになってしまう理由である。


[ ] 『生きる思想』確認

参考文献

Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗原涁訳『シャドウ・ワーク』岩波書店、2006。
Collins, Randall(1985,1994):友枝敏雄 訳者代表『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』、有斐閣、1997。
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参考エッセイ(社会イズムないし「中間集団全体主義」についての考察のために、あるいは『滝山コミューン1974』の解釈について)

学校の違和感について。
藤本研一
 学校に通っていた頃、私はつねに違和感を抱え続けていた。例えば授業中。予習をするとその授業の内容は判ってしまうため、「なぜ授業を受けるのか」分からなかった。また受験に出ない教科を勉強する意味を、見出せなかった。数学の時間に日本史をやり、地学の時間に日本史をやり、現代社会の時間に日本史を勉強していたのが私であった。
 学校の違和感には、2つの要素が原因であるように私は考える。ひとつは集団での学習が強制される点、もう一つは内藤朝雄の言う「中間集団全体主義」がクラスで働く点である。

 集団での学習が強制されるのは、「マス」相手の授業である。生徒集団に対し、教員が1人で授業をする。授業を理解でき、知的好奇心を満足させられる生徒ならまだいい。けれど、そうでない生徒にとって授業は苦痛になる。ひとつは授業を理解できない生徒にとって。理解できないからこそ、退屈し寝てしまうか遊び始める(教室を出る者もいる)。もうひとつは授業の内容より先をやっているため、バカらしくて授業を聴けない生徒である。進学校では予備校や独学で先の内容をやっていることが多く、授業は退屈になってしまう。けれど、「全員で授業を受ける」ことが要請されるのが日本の授業だ。
 もともと、学校のクラスでも授業に求める内容は人それぞれ違う。「もっと高度な内容を」求める生徒と、「もっとゆっくり分かりやすくやってほしい」という生徒とでは、需要が異なるのである。また近年流行の「マルチプル・インテリジェンス」(ハワード・ガードナー)という発想が示すように、人それぞれ「理解しやすい」学び方は違う。耳で聞くより声に出す方が理解できる生徒・目からでしか理解できない生徒・とにかく体や手を動かさないと理解できない生徒などが共存する空間において、単一のやり方が通用するはずがないのである。
 けれど、近年の教育における公共性の議論では、「皆と同じ授業を受ける」必要性が要請されているように思われる。マイノリティやブルジョアが特別の学校に行くことは、社会の複雑さに出会うことがないまま成人してしまう危険性がある、と考えられている。佐藤学の「学びの共同体」実践は、多様な他者との対話・恊働による公共性の教育がその一例である。私はこれに胡散臭いものを感じる。「教育って、そんなにすごいものなのか?」と。ムリヤリでも「学びの共同体」で共通に活動をする程度のことで、公共性が学べるものなのか? そのことが、後述する「中間集団全体主義」のいじめを誘発することはないのか? もっと弊害のない方法はないのか? そんなことを議論することもなく、皆が一緒の授業を受けることで公共性を学ばせることが重視されている。確かに、「学びの共同体」のような実践には一定の効果があるのだろう。けれど、それがベストであるかというとそうでもない。その代案はラストに私が書く。
 
 さてさて、学校の違和感についてもう一つの要素である「中間集団全体主義」を見てみよう。内藤朝雄は次のようにまとめている。「各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂している場合に、その社会を中間集団全体主義という」(内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年、21頁)。日本では学校や会社の中などに中間集団全体主義が入り込んでいる。この中間集団全体主義は共同体の構成員に有無を言わさず強制されるのだ。内藤は学校でのいじめはこの中間集団全体主義により、引き起こされていると述べている。
 『学校が自由になる日』(雲母書房、2002年)の中では、内藤や宮台真司・藤井誠二が日本の学校のなかの中間集団全体主義について語っている。学校では学習するためにクラスメイトの顔色を伺う必要があったり、部活に一生懸命うちこんでいる「ふり」をする必要があったりする。「基本的に、学力の上下と人格の交わりをセットにする学校というシステムそのものが間違っているんです」(307頁)との内藤は発言している。つまり、本来学校では学習をする場所であるにも関わらず、イヤなクラスメイトとも「仲良く」することがないと学べない場所になっているのだ。クラスが学習のための便宜的集団ではなく、生活集団としても組織されている。そのことが学びをするためにクラスメイトの機嫌を見ないといけないという心理状態を引き起こす。
 私もそれを経験した。授業中、積極的に手を挙げたい。しかし、クラスメイトから「目立っている」と言われたくないため手を挙げない。そこからいじめが起る危険性があるからだ。学習効率的に、これほど不合理なことはない(だからこそ、分からない点を質問できるという塾に需要が生まれるのだろう。塾産業は日本の学校が中間集団全体主義のため、学びを行うことが難しいために存在するのかもしれない)。
 中間集団全体主義の例として、『滝山コミューン1974』(原武史、2007年)という作品がある。著者が小学生時代のことを回想して描いた記録だ。小学校のクラスの「自治」が極端にまで成立したときの様子が描かれている(もっとも、この自治は教員が生徒を操りながら作り出したものである点がミソである)。本作のハイライトは、小学校の自治活動に批判的であった「私」が、友人の朝倉に小会議室に呼び出される場面である。引用してみよう。

 小会議室に入ると、代表児童委員会の役員や各種委員会の委員長、4年以上の学級委員が、示し合わせたかのように着席していた。ただこのとき、片山先生や中村美由紀(藤本注 当時のこの小学校の児童会長である)がいたかどうかははっきりしない。
 朝倉はまず、九月の代表児童委員会で秋季大運動会の企画立案を批判するなど、「民主的集団」を攪乱してきた私の「罪状」を次々と読み上げた。その上で、この場できちんと自己批判をするべきであると、例のよく通る声で主張した。
 六八年から六九年にかけての大学闘争では、全共闘の学生が大衆団交やつるし上げを通して、大学のトップや教授に自己批判を強要する「追及集会」がしばしば開かれたが、驚くべきことに、全生研でもこのような行為を「追及」ではなく「追求」と呼び、積極的に認めていたのである。(『滝山コミューン1974』255~256頁)

 学校という中間集団が、一人の児童に「自己批判」を要求する。中間集団全体主義の典型と言える事態であろう。実際は、これほど分かりやすく個人に強要を行うことはないが、集団への帰属を個人に無理やり行わせることが多いという点で、類似する点があるはずである。
 このあと原は自己批判を拒否してドアを開けて逃げる。「「追求」を迫られたのは一度きりで、その後は朝倉が私に何か言ってくることもなかったのものの、校庭で4年の学級員から石を投げられたときにはさすがに愕然とした。私はまるで、学校全体を敵に回したような気分に陥り、特に七五年に入ってからは、受験勉強のためと称して学校を時々休むようになった」(258頁)。中間集団が個人を排斥するのである。

 注目すべきは朝倉という存在である。朝倉は以前、原と親しい友人であった。そんな朝倉が、豹変したように原を吊るし上げの場に呼び寄せる。人間を変化させる中間集団全体主義の恐ろしさである(本書で何度も「違和感」という言葉が出てくる。学校の違和感を探るにあたり、本書は重要な書物であろう)。 

 以上、学校の違和感の理由として集団での学習がある点と、中間集団全体主義が存在する点を見てきた。両者は相互に関係し合い、いまの学校のクラスで学習を行うことが難しいことを示している。
 私はこの状況の改善には、個別学習が必要であると考える。それは、人それぞれ教育に要する需要が異なるためである。またクラスの解体も必要であろう。大学のように、授業ごとに生徒が集まるようにするのである。都立・山吹高校のように、無学年・単位制の学校も存在する。
 中間集団全体主義が広がる日本の学校において、学びを成立させるためには授業選択制も必要となるであろう。クラスの中に学びを閉じ込めてはならない。

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