2008年11月17日月曜日

子どもであることの損さ

「子どもである」というだけで人間はだいぶ不利益を被っている。しなくてもいい苦労をすることになる。
例えば夜の外出。子どもを「保護しよう」としすぎると、子どもの自由は吹き飛んでしまう。中高生の不満の大部分は、電車や映画館では「大人」扱いされるにもかかわらず、社会において、また家庭においては相変わらず「子ども」と扱われるために発生する。これはどうしようもない事なのだろうか? 「大金を子どもが持つな」というのもそうである。大人は、普通に会社でジュースを飲むけれど、子どもは授業中に飲んではいけないというものそうである。
子どもであることへの不満が、非行や反社会的行動として現れる。子どもの非行は、大人を目指すだけの事なのではないか。酒・タバコは大人もする。犯罪は普通の大人が行う。万引き主婦すらいる中で、なぜ子どもだけは必要以上に処罰されるのだろうか? 大人が同様の事をしても、「この人の行く末が心配だ」とはならない。その分、社会的信用はなくなる。子どもは社会的信用のみならず、「この子の将来が心配だ」と時にはその子どもよりも道徳性の低いように見える教員によって罰される。
どうも子どもが子どもである事が難しい時代のようだ。俺はどちらかと言えば戦後までの「子どもを放っておいてくれる時代」の方が気楽であった気がする。中世的な「小さな大人」である方が楽そうである。
こういうことを西武バスの中で思った。子どもが優先席に座っており、「なんでそこに座っているのだ」との大人の視線が感じられた瞬間の着想である。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

日曜はどうも。

ちょっと迷いましたが、コメントしてみました。
見てますよ、というしるしです。

テキストによるコミュニケーションというのは、ぼく個人はわりと面白いなと思っているのです。
こうやって、直接会うだけではわからないIshidaさんの姿を眺められたということだけとっても、すごく楽しい。

ただ、双方向性を必ずしも求めていないのであれば、そのそぶりを見せてくださいね。そしたら、静観しますから(笑

いしだ・はじめ さんのコメント...

双方向性というのが、ブログの可能性であると思います。マスメディアであるテレビや新聞では、できないことですので。

どんどん、反応していただいて構いません。余力のあるとき、僕がコメントしますので。