2008年7月9日水曜日

私のスタイルを変えた本

ごく短い人生経験しか持ちえていない私。そのため、「自分の座右の書」や「座右の銘」など、聞かれても出てこない。「私を変えた一冊」なんて、何だろう。
 しかし、話をミクロにかえよう(私はよくマクロ視点とミクロ視点を交互に使おうとしている。マクロで話が詰まればミクロ、と逃げているところもある)。私の人生それ自体を変えた一冊や、何度も読みたいという本はまだ思い浮かばないが、自分の読書スタイルを変えた本なら、一冊ある。それが齋藤孝著『三色ボールペンで読む日本語』である。
 この本はベストセラーとなったので、御存知の人も多いであろう。本を読み、「まあ重要」というところは青、「すごく重要」には赤、「面白い」箇所には緑で線を引くというやり方を提唱した本である。私の読書の仕方は、この本を契機に大きく変わった。まず、「本を買って読もう」と思うようになった。線を引き、自分の形跡の残った本を座右に残しておくために。これは続編の『三色ボールペン情報活用術』に影響されたことでもある。‘よく情報をカードやパソコンに打って活用しよう、という人がいるが、本それ自体を残しておくほうが、情報は活用しやすく、またなくなりにくい’といった内容が書かれていた。
 また、ペンを片手に、本を読む習慣がついた。「お前、こんなに線引いて意味ないだろう」といわれようが、わが道を淡々といけるようになった。本を携帯する習慣がついたため、常にペンも携帯しようと思うようになった。それで私の携帯にはミニ・ボールペンのストラップがついている。
 齋藤氏の著書には、批判もいろいろ寄せられているが、私は『三色』の本がなければ今の自分のスタイルは成立していなかったであろうと実感している。その意味では、齋藤氏に感謝の念でいっぱいである。まんまと齋藤氏の主張にのせられているが、齋藤氏の言う「読書の型」を習得できたことは、自分の財産になっているような気がする。
 齋藤氏以外の読書法の本を、私は死ぬほど読んできた。速読術という怪しげなものにも挑み、それに対抗した「遅読術」なるものにも興味を持ったこともある。「ワルの読書術」は名前に引かれ、「私の読書法」なる本は暫く私の制服のポケットにあった。けれど、結局は高校受験の帰りによんだ『三色』に行き着いてしまうのだ。それだけ、私にマッチしていたのだろう。最近も、少し浮気をしていたが、新たな読書法を教えてくれる本を三色ボールペン方式で読んでいる自分がいて、浮気は駄目だと実感した。
 本を読むときに、ペンを持つ。これだけで、本に対し、意識的に向かえるようになる。意識的にならない読書は、漫然とテレビを見ることに等しい。何か見たような気はしても、結局何も残らない。ついにはコマーシャルや作り手の意図的な編集が、無意識層に残り、私の生活を裏でコントロールするようになる。
 何ももたずに本を読むことは、私にはできない。そんなときでも本の角を折ることで、意識的に本に対抗する。存在論ではないが、本はそれ自体に意味はないと思う。読む側である「私」の存在なくしては、本は単なる所有物やオブジェに過ぎない。「私」が書を開き、そして意識的に読むときに、初めて本は「本」になることができるのであろう。

 先ほどの言を訂正。この本は読書スタイルだけでなく、私がノートを多色ペンで取るようになったきっかけを築いた。また、メモの地色を青にする契機にもなった。私は、小中学生はともかく、高校生にもなってシャーペンを振りかざして学習するのは能率的でないといつも考えている。消しゴムで消したところで、どうせ自分以外誰もこのノートを読まない。だいいち、ノートをユダヤ系三宗教の信者のバイブルの如く、何度も読むなんてことは恐らく無いはずだ。ならば、ボールペンでシャッと二重線で訂正する。このほうがシンプルだ。

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