なかなか生きづらい世の中である。そう感じるのには理由がある。この世の中は常に「努力」を要求するためだ。いわば「努力教」(あるいは努力シンドローム)に形づくられているようである。
努力しないことも、大事なのではないだろうか。昨年以来の勝間vs香山論争は、結局の所、「頑張る」「努力する」ことへの違和感を人々が潜在的に求めるようになったことの結果ではないだろうか。
努力やガンバリズムを否定して生きていきたい。学習においてもそうである。「勉強」という言葉は「強いて勉める」と読む。それこそ「努力」シンドロームの現れた言葉だ。
よく人間の尊厳として過酷な状況を努力して乗り越えた体験が語られる。会社再建の「美談」も、基本的には資金繰りに昼夜走り回った「努力」の結果として語られる。しかし努力とはそれほど美しいものなのだろうか? 「ほどほどに過ごす」のは駄目なのか? 皆が「頑張る」社会は病んでいる社会である。
現在の状態で誰も満足してくれない。これは文明を進める要素ではあるのだろうが、『成長の限界』(ローマ・クラブ)以降の社会ではそろそろ「努力の終焉」を語ってもいいのではなかろうか。
苅谷剛彦はインセンティブ・デバイドの存在を「嘆いた」。所得下位層に生まれた子どもは学ぶ「意欲」や努力する「意欲」が少ないという「格差」があると主張したのだ。けれど、考えてみれば努力するという「意欲」に格差が出るということは、「努力」の終焉に一部の人間が気づき始めた良い「兆候」とも言えるのではないか。
ほどほどのところで、ほどほどの人生を送る。これでいいんじゃないだろうか。確かに「階層の固定」と言って批判する人もいるだろうが、本田由紀のいう「ハイパー・メリトクラシー」下で要求されるスキルについて考えてほしい。常に自らの向上を目指し、「さわやかに」努力し続けるスキル。本田はハイパーメリトクラシーが「努力し続ける」姿勢を要求することを描くことで社会批判をする。そうである以上、「ほどほど」(昔の宮台真司は「まったり」と言った)の生き方は、社会改革の一つのファクターであるように思われる。
ニートでも、フリーターでも人は生きていける。何も努力するだけが人生ではない。
2010年5月23日日曜日
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4 件のコメント:
社会保障が不十分な新自由主義社会の日本では、
self-helpが原則になるので、努力無しでは食べていけません。
あと努力教への懐疑は70年代からの古典的な言説かと。
むしろ現代の悲劇は、努力しても結果が保障されていない点にあるのでは?
つまり、努力がマズいんじゃなくて、努力しても先行きが全く暗闇の、閉塞した不安社会が、批判の焦点かと思いますね。
高度経済成長期において、「努力すれば報われる」言説が存在したように思います。
だからこそ、「努力経」への懐疑は70年代の言説になるんですね。勉強になりました。
「努力」をする重要性が語られますが、どの方向に「努力」をするかわからないものとなっています。それが現代の悲劇・「生きにくさ」なのですね。
「閉塞した不安社会」について、考察してみます。
努力教こそが、人間をあるがままに生きることから阻害し、感受性から引き離しています。努力教によって、人間は感覚から、実存から引き離され、「達成マシン」になっていきます。
学校教育は、公式には知識と技能を伝授するところですが、エソテリックな部分では、努力教の教会になっていると思います。二言目には努力です。学校としての欠陥、教え方の欠陥が、生徒に対して「お前の努力が足りない」に集約されます。努力が、学習指導要領には書いてないところが、ますますエソテリック。
努力教には位階制度(学歴)があり、脱落者は親切にされるより非難されること、かなり閉鎖的な宗教だと思います。
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