2010年5月23日日曜日

努力シンドロームの彼方に。

 久々に落ち込んだ。もう1週間になる。私は自分が不要だ、と感じるときガクッと落ち込むことが分かった。サークルにしても、ボランティアにしても、「あ、俺いなくても大丈夫かもしれない」と感じたとたんに落ち込む。今回もそんな文脈の中で落ち込んだ。
 宮台真司は『14歳からの社会学』において「代替可能性」というキーワードを提示した。自分の存在の代替不可能性を感じられない限り、生きている実感を失ってしまう、という文脈で語られていた。要は、「自分でなく、他の誰かでも構わないのではないか」という思いのことである。いまの私にも当てはまる。「俺なんて、いなくてもいいんじゃないか」と感じるとき、私・藤本研一という人間の「代替可能性」を感じてしまう。
 この現象は再帰性(ギデンズ)に特徴づけられた近代社会特有のものである。再帰性を英語で書くとreflexivity。絶えず自分自身を「振り返り」(=reflective)、自分の行為の結果について考察をしていく態度のこと。
 「自分とは何者か?」を、近代社会では誰も教えてくれない。前近代の共同体社会では「〜〜さん宅の息子さん」というアイデンティティがあった。生き方にしても、「まあ、親父と同じことをして一生を過ごすのだろう」という自明性があった。いまはそれが無い。だからこそ、絶えず自らを「振り返」り、自らを作り替えていくことが必要となった。
 この「振り返り」は、非常に面倒なプロセスである。中学生時代、何か行事の度に「反省会」が行われたことを思い出す。「もっと早く準備をしていればもっとよい企画になったと思います」という意見表明が連発される会議室。子どもながらに生産性のなさを感じていた。再帰性とは、要はこういうことではないか。面白くもなく単調な「反省会」を自らのうちで何度も何度も行う作業。そのうち「自分は何者か」判明する時もあるが、基本的にはただ「振り返る」だけで終ってしまうのではないだろうか。それこそ「反省会」を「努力して」行うことが必要なのだ。
 自分に必要なスキルを、自分で計画して身につける。それだけでなく、「自分は何者か?」「自分は何をしたいのか?」常に考える必要のある近代社会。「努力」し続けないと生きれないように巧妙にプログラミングされた社会である。まして都市に生活していると、日常的に「努力しない」存在の比喩としてホームレスの存在が目に入る。いやでも「努力」が要求される。けれど「努力」は楽ではない。にもかかわらず努力しないと地位やアイデンティティの獲得が手に入れられない。
 本当に生きにくい社会である。
 考えてみれば、「俺はもうダメだ」という状態を「振り返り」の結果として受け止めるのも、ある意味で自分のアイデンティティを形づくったこととなる。自ら「ダメ人間」を名乗るのだ。「ダメ人間」を名乗るとき、とりあえず「自分は何者か?」という問いにはきちんと答えがである。けれど私の自尊心はその状態で満足させてくれはしない。
 「ダメ人間」で満足できないのなら、結局自分自身で「努力」して自分を「向上」させる必要が出てくる。…ああ、努力しないと自分のアイデンティティを獲得できないのか。努力しないと「代替不可能性」に気づくこともできず、この「落ち込んだ」状態からの離脱も図れない。
 いまの状態からの解決方法は見えている。なのにその方法である「努力」をしたくはない。…この「救われない」状態から、どのように抜け出すか? 「努力」して方法を探し出すことにしよう(トートロジーである)。

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