2011年2月27日日曜日

村田栄一・里見実(1986):『もうひとつの学校へ向けて』、筑摩書房。

 教育は文化運動だったのだと実感した本。教育実践を学術的側面から取り上げるという営みに、一定の価値があるのだと思った書。

 印象的なのは「学校がもちうる独自な可能性」(152)として里見が考察する場面である。


 <歴史的にいえば学校は、生きるための労働から解放された人びとの「自由な」教養形成の場として成立した、といってよいでしょう。学校はその「閑暇」というギリシア語が示しているように、人間を労働から分離して知的な活動に専念させる場として成立しているわけです。しかしこうした「独自性」によって、学校の独自な可能性が基礎づけられるわけではありません。むしろ逆でしょう。学校が労働や製作的な活動からきりはなされた聖域である間は、学校が独自な存在意義をもつことはなく、かえって、学校が一つの作業場となり具体的な生活の場となったときに、はじめて学校の独自な可能性が浮上するのだ、ということを明らかにしたのが、われわれの先輩たちの生活教育の実践であったと思うのです。
 「教育を作業場に」というメッセージは、われわれのこの往復書簡をつらぬいているいわばメインテーマですが、しかしそこでいう「作業場としての教室」は、すぐれて「もどき」の空間である、ということを強調しておかなければならないでしょう。>(152)

 ここは生活文脈の中に学校を位置づける上で考慮すべき点の指摘である。里見の文章のうち、「もどき」の空間としての学校、との指摘は重要である。なぜならば、「もどき」ゆえに失敗を許される空間であるためだ。子どもの社会化には時間がかかる。子どもの学習のためにアレンジした環境の中で学んでいくにあたり、失敗をしてもかまわない空間の保障が重要になってくる。その際に学校というのは生活空間の「もどき」にすぎないのだ、と意識できることが子どもの自己教育力・「生きる力」を促進していくことになるであろう。

 このあと本書ではスペインの学校においてあえて古い道具を子どもたちが使うという実践が紹介されている。このことは「もどき」の場としての学校ゆえに成立する概念だ。「もどき」だからこそ、現状の社会に合わせる必要がない。それよりも子どもの学びを支える・高める方向で使える道具を用いることのほうが価値が高くなる(イリイチの言うtools for convivialityである)。
 学校でパソコンを用いて学ぶことは、確かに「社会」に出たときの練習にはなるが、疎外された学びを提供する行為に化することがある。小学校でそろばんを学習するように、あえて昔の道具で学ぶという可能性を本書は指摘していた。イリイチのアンプラグ論やコンビビアル論に近いものを感じる。イリイチは、発展の程度の低いラジオや車ならば庶民が自分で直して使えるが、最先端のものならば専門家に頼らざるを得なくなる点を指摘する。教育や生活のためには「先端」のものを使わなければならない義理はないのだ。

 別に学校は最先端の内容を扱う必要のある場所ではない。この指摘に私は自分の学校に対してのドクサを捨てなければならないと感じた。

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