2009年6月25日木曜日

ひとときのうちに

 昨夏の介護体験。新宿にあるデイサービスセンターで1週間ボランティアのようなことをした。1分前に話した内容を再度してくるお爺さんが印象的だった。どうせこの人たちは自分のことを忘れてしまうであろう。なら、介護を行うやり甲斐はどこにあるのか? 疑問に思った。
 介護体験レポートを書く際、疑問は少し晴れた。たとえ忘れたとしても、介護の際の「ありがとう」の言葉は私の心に残っている。さりげない利用者の笑顔が、脳裏から離れない。ああ、介護のやり甲斐はここにあるのか! レポートに私はそう書いたのであった。昔観た映画『博士の愛した数式』の「ルート」の思いがようやく分かった。

一粒の砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見 
掌(てのひら)に無限を乗せ 
一時(ひととき)のうちに永遠を感じる

 この映画はウィリアム・ブレイクの詩でしめられる。80分しか記憶を保てない「博士」。「博士」にとって、少年「ルート」との出会いは常に初対面。「博士」の記憶に「ルート」とのやり取りは残ることはない。けれど、「博士」と過ごした時間はまぎれもなく存在している。「ルート」だけでなく、「博士」の中にも(記憶では残らないが、やりとりした事実は残る)。だからこそ「ルート」は、「博士」と過ごす「一時のうちに 永遠を感じる」のであった。

 先週まで続いた教育実習中、社会の授業をしていて私はふと次のことを思った。〈子どもは今日の授業の内容をどうせ忘れてしまう。それなのにいま授業をすることに如何ほどの価値があるのだろう?〉。現に私は中学校時代の授業について覚えていることは少ししかない。それこそ膨大な量の授業時間があったはずだが…。どうせ忘れるのに、なぜ授業をするのか。
 しかし、子どもと関わったプロセスやひとときは間違いなくこの世に存在したのである。未来に覚えていることも大事だが、今というこの瞬間を輝かせていく営みとしての教育も重要なのではないか。ちょうど、昨夏の介護体験や『博士の愛した数式』と同じ図式となる。
 人との出会い。たとえ忘れ去られたとしても、出会い交流したひとときは私の生命の中に残り続けるのだ。
 教育の無意味性にイヤになったときは、このことを思い出そうと思う。別に教育が将来何の役に立たなかったとしても、生徒同士や教師―生徒との出会い、藤原氏のいう「ナナメ関係」を結べたという事実やその交流の中で生じた〈輝き〉を大切にしていきたい。

1 件のコメント:

シロクマ さんのコメント...

明日から続く未来の日々の為に、今日がんばる。
でも、今日死んでもいいくらい今日は今日で充実させたい。

そんな心持ちでいます(できずにボンヤリすごすこともしばしばありますが…)

大学受験の時は毎日毎日未来の為に(受験合格の為に)ばかり過ごしていて、今日の自分の幸せが感じられなかった記憶を思い出しました。

未来を見据えつつ、今日を充実して生きたいな、と思わさせてもらいました。