私は散髪が嫌いである。それは散髪の際、自分が理髪師/美容師の客体(=it、つまりモノ)にされてしまうからである。
フレイレのいう預金型教育(一般には銀行型教育と呼ばれる)は生徒を「客体」としていた。ゆえにそれは『学びからの逃走』をしなければ苦痛なものとなる。人が人として扱われていない疎外空間に、教室が化しているためだ。
散髪も、もっと自由にゆるやかな、つまり「コンビビアル」なものにするためには、自分で髪を切るというサブシステンス(イバン・イリイチの言った自律性を意味する言葉)の復興が必要かもしれない。
爪は誰かに切ってもらうものではない。まだかろうじてネイルサロンはそこまで人々の自律自存性を奪ってはいないからだ。爪と同様、髪においてもサブシステンスの復興が必要なのかもしれない。
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