書評:ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』*
読まないで本書の書評を書いてみようと思ったが、それはやめることにした。
この本はいわゆるハウツー本でも、トンデモ本でもない。れっきとした文学の本である。そもそも、『読んでいない』といっていながら、《読んだが忘れてしまった本》として著者自身の本を挙げている。
読んでいない本についてコメントしなければならないことは、意外にある。バイヤールはこの行為を否定的に見るのでなく、逆にポジティブに見ていくことを提唱しているのだ。
読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。(中略)読んでいない本についての言及は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。(213頁)
読書とは、もっと能動的であるべきだ。本を通じ、「みずから創作者になること」(217頁)をしてもいいのではないか。『読んでいない本について堂々と語る』時、頭の中で創作作用が始まる。「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、社会的にこれより認知された活動と同じくらい立派な活動なのだ」(217頁)。それはまぎれもなく自分の思考であり、自分自身について語ることになるのだ。
本を読むという行為のために、逆に自分の考えがなくなってしまうことがある。読むことによって、本質が見えなくなることがあるのだ。書評を書くのも然りである。あまりにも読みすぎた本については、何も言えない。著者が何を意図しているか、考えすぎるとかえって何もかけなくなる。学問も同じである。一年生の頃、「教育学って、要はこんなものだ」と恐れ多くも言えていた。しかし、今は「教育学って、結局何なんだろう」と却って分からなくなっている。レポートを書くときにも感じる。あまりにも多くを調査すると、「先攻研究に書かれていないだろうか」と思い、なかなか書けなくなる。思えば不思議なことである。
2008年12月18日木曜日
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1 件のコメント:
ショーペンハウエルの『読書について』は、もしまだお読みでなかったらご一読をおすすめします。「能動的」な読書について、刺激的なイメージを与えてくれますよ。
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