2008年10月24日金曜日

教育に関するすべての希望を捨てよ

 人びとは、教育に何か有能感をもっている。それは自分のいるなんともならない状況を、「未来になれば解決している、ゆえに未来を作る子どもの教育が大切だ」と安易に考えるからだ。バカをいっちゃいけない。僕らの世代も、上の世代から何かを期待された世代である。それはおそらくは「戦後日本の社会を構築する」ということだったであろう。高度経済成長で、すこしは解決した。しかし、水俣病をはじめ未解決、あるいは新たに出てきた問題もある。ネット社会に、人は適応できていないのに、ネット空間では犯罪が多発している。
 また思想界の発展により、近代や進歩といった物自体、価値があったのか、という問い直しがされている。こんな社会状況の中、教育だけが希望を持って語られる。政治も、経済も、環境も、平和も、何もかもぐしゃぐしゃ。希望を持って語られていない。なのに、教育には期待感をもって話がなされている。「今の教育は駄目だ」というのも、その人の頭の中の「理想の教育」と照らし合わせて、のものに過ぎないのだ。所詮、みんな教育に期待を持っている。
 教育に期待が持たれ始め、どれくらいがたったのだろう。未だに人類が教育に期待し続けるのは、成長が無いといえるのではないか。もう待ってても無理だ。あらゆる学問や言論のうち、教育だけは常に未来形で語られる。おかしなことだ。

灰谷は「すべての怒りは水の如くに」において、教育権の独立についての話をしている。社会のどんな部分からも、干渉されない、ということである。

教育は、社会に影響されてはならない。また、学校はなるべく教える量を減らし、学校の存在自体を小さくしていくべきだ。

託児所たるのであれば、ただ「自由」の時間を置けばいい。いやでも読書させる授業もいい。

ダンテの『神曲』ではないが、地獄の門の言葉を思い出す。
《一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者》(神曲地獄編 第三歌)

教育に関する「一切の望みは捨てよ」。そして、そこからものごとを考えていくことだ。そのなかに、教育に何かできることがあると、まあ幸せですね。教育では、何もかわらない。まずはそれを自覚していくことからはじめるべきではないか。
そして、「教育に何かできることがあれば」それをやっていくことである。

教育に関する言説は、一見するとペシミスティックだが、実際は違う。「今の教育はよくない」というのは、「このようにすれば教育はよくなる」というその人の持論の言い直しに過ぎない。そういうのを、ユートピアという。ユートピアはどこにも無い。考えるだけ無駄だ。「教育しよう」ということだけで、子どもにプレッシャーをかけているところもある。
 なら、子どもの負担をなくせばどうだろう?
学校教育では読み書き数と情報、コミュニケーションスキル習得のみでいいじゃない。余った時間はサッカーなり読書なりさせようよ。子どもも楽しいはずだ。

俺がペシミスティックだって? そう、私はペシミスト。底抜けの。

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