2012年2月3日金曜日

ルドン展に行く。

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ルドン展に行く。

 友人の勧めで、丸の内の三菱一号館でやっている「ルドン展」にいった。

 ルドンをブリタニカ百科事典で引くと、次の通り。

フランスの画家,版画家。ボルドーで修業し,1871年パリに出る。 J.L.ジェロームや R.ブレダンの影響を受け,初期には単色のリトグラフ (石版画) で幻想的,神秘的な世界を生んだ。 S.マラルメ,J.K.ユイスマンス,E.A.ポーなど象徴主義作家の影響を受ける。 90年頃までもっぱら単色で制作したが,その後,夢幻的世界の効果を増すために色彩を採用し,文学的,神話的主題を華麗な幻想に高めた。晩年はパステル,水彩による作品を多く描き,特に花の絵でも名高い。世紀末の象徴主義者としてシュルレアリスムにも影響を与えた。主要作品はリトグラフ集『夢のなかで』 (1879) ,『ベニスの帆船』 (1906) ,『アネモネの花』 (08) 。

 ちなみに彼の自画像が下のもの。

 
ルドン(自画像,1904,個人蔵)

 展示の中では「初期」の「単色のリトグラフ」が興味深かった。
 目玉が画面中央に置かれ、危うい雰囲気を出している。
 危うい目玉が、ふわふわとした気球に描かれてもいた(タイトルは忘れた)。
 
 社会学と人類学と心理学の黎明期。そんなイメージを誘発する展示だった。

 たとえば「永遠を前にした男」はサルがヒトへと進化し、立ち上がる瞬間が描かれている。
 立ち上がるという「永遠の一瞬」が、今の我々に続いている。
 立ち上がることは文明の発展を招いたが、同時に人間の苦悩が招かれる結果にもなっている。
 そんなことも含めての「永遠を前にした男」なのだろうと思う。

 作品展の至る所に描かれた〈ダイスを背負った男〉のイメージは、
 運命を背負わされている人間の苦悩を感じる。

2012年1月30日月曜日

埼玉の定時制高校への見学。

先週金曜日、ある先生のご好意から埼玉にある定時制高校の授業の見学に伺った。

高校3年生の日本史の授業。
マンガを交えたプリントから、室町時代の経済について学習できるようにされていた。

定時制高校の面白い点として、雑談は確かにあるが雑談組は教室の後ろに固まり、教室前方には「ちゃんと授業を聞く」人たちが固まっていた。

定時制と全日制とが併設された学校の場合、定時制の授業は全日制の生徒の教室をそのまま使う。
結果的に、席は自由になるのだろう。

参観した授業の担当はベテランの先生。
生徒の私語を授業に織り込みつつ、授業をしていた。

また、生徒と会話をしつつ授業をしている。
こういったワザを、私も学びたいと思う。

なお、授業の後、「大学生」として生徒の前でお話をさせていただいた。
ただ、ハッキリ言って、私に話せることはあまりないなあ、と感じた。
私の高校は皆が大学に行くのが当り前。
定時制のように高卒就労や専門学校進学などがメインになる場所において、何も実際的なアドバイスをすることは出来なかった。

自分の人生経験の狭さを感じる。
「早くから就活の準備をしよう」くらいしか述べることがなかったからだ。

2012年1月22日日曜日

悩み事解決用アプリ

悩み事解決用アプリを誰かに開発してほしいなあ、と思う。それは、カーネギー『道は開ける』の4つのステップをただ打ち込んでいくだけのものだ。

誰かにフリーでマック用アプリを作ってもらえないだろうか。
to-doリストへの対応が出来ると、考えた対策をすぐリスト化できて便利だろうなあ。

参考;カーネギー『道は開ける』における「悩みの追い払い方」(78)
①悩んでいる事柄を詳しく書き記す。
②それについて自分にできることを書き記す。
③どうするかを決断する。
④その決断を直ちに実行する。

2012年1月21日土曜日

遠隔教育のパラダイム転換

 本日、戸田文化会館でおこなわれた「埼玉県県立高等学校学力向上基盤形成事業 平成23年度報告会」に参加した。協調学習について興味があり、この4月から教員になるものとして視野を広げようと思ったからだ。

 面白かったのはロボット(アンドロイド)を用いての学習、という内容だった。グループ学習において、遠隔操作するロボットを介入させると、学習効果が上がった、という点である(真新しいイベントだから、集中度が上がっただけの可能性も考えられるが)。
 はじめ、かなり違和感があった。それは「そこまでしなくてもいいのでないか」という発想からである。しかし「可能性としてはありだな」と話を聴いていて思うようになった。例えば、長期入院者もアンドロイドの遠隔操作によって授業に参加することも可能になるたえである。

 シンポジウムを見ていて、遠隔教育の新たな形として、アンドロイドやロボットを通しての学習があるのだなあ、と分かった。遠隔教育の新たな形態が出来つつあるのだ。
 いままでの遠隔教育は、eラーニングなどIT技術を用いて離れた場所で学習をすることを意味した。これからはアンドロイドの遠隔操作により、アンドロイドを介しての学習を行うことが「遠隔教育」のメインテーマになるかもしれない、と思った(実際、eラーニングを用いる大学の授業ではBBSを活用する。これは離れた場所での会議であるが、アンドロイドを集め一箇所でBBS的な議論が可能となるだろう)。
 このような遠隔操作による学習の場の形成。モチベーションを上げ、社会性を身につける機会があるのなら、物理的に集まるのも最小限でいい。イリイチの言う「脱学校」的な学習の場を、IT利用による遠隔教育によって成立させることが今まで以上に可能になったように思える。

 アンドロイドを用いる時代になると、通信教育の意味合いが一段と高まるように思われる。遠隔教育と、通常の学習(学校に行き一箇所に集まっての授業)の意味合いがそれほど変わらなくなっていくからだ。

注 現在、インターネット上で授業を受講する遠隔教育においても、時間を定めて(例えば火曜日20:00-23:00の間だけ受講できるなど)受講するシステムをもつところが多くなっている。各人が好きな時にテキストを用いて学習する場合、縛りが弱いため学習者がかえって学習できなくなるところがあるからだ。そのため、「いつでも・どこでも」学習できるということが、遠隔教育のメリットというよりも「学習が進まなくなる」という意味でデメリットだと考えられてきている。実質、「いつでも・どこでも」学習できるという「自由」の重みが個々人の負担になっている。

2012年1月13日金曜日

自分を支えてくれる「実践コミュニティ」の形成

仕事で「つぶされない」ために、自分を支えてくれるコミュニティを作っておこう。

これはウェンガーのいう「実践コミュニティ」である。勝間和代が『ズルい仕事術』で上げた「レバレッジ力」も、つまるところ自分を支えてくれる人びととの良好な人間関係の形成について述べたものだ。

「支え」というセーフティネットが日本にないことを批判する声が多い。ないならば少なくとも自分の周りにつくる。それが大切だろう。

2012年1月11日水曜日

瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社。

「労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ」(65)

1999年のiMacというカラフル+スケルトンボディのパソコン。
「アップルの苦境を救ったのもスペックや機能ではなく、「色」や「デザイン」だったのである」(142)

起業するなら、「自分が働いている業界について、どんな構造でビジネスが動いており、金とモノの流れがどうなっていて、キーパーソンが誰で、何が効率化を妨げているのか、徹底的に研究するのである」(172)

「起業家が新しいビジネスを見つけるときの視点として、「しょぼい競合がいるマーケットを狙え」という鉄則がある」(175)
→自分の会社について「その会社が潰れる前に退職し、その会社を叩き潰す会社を作るのである」(178)

☆イノベーション(技術革新)とは「実は「新結合」という言葉がいちばんこの言葉の本質を捉えた訳語だと私は考えている。既存のものを、今までとは違う組み合わせ方で提示すること。それがイノベーションの本質だ」(183)

「つまりリーダーには、優秀だがわがままな人をマネージするスキルも大切だが、優秀ではない人をマネージするスキルのほうが重要なのである。ダメなところが多々ある人材に、あまり高い給料を払わずとも、モチベーション高く仕事をしてもらうように持っていくのが本当のマネジメント力なのだ」(190)

「資本主義の社会では、これまで述べたように、自らが会社を興して事業を営むか、あるいは自分が株主として会社の利益に応じて報酬を得られる仕組みを構築することが大事となる。その場合に欠かせないスキルが、人をどうやってマネジメントするか、というリーダーシップのとり方なのである」(191-192)

「資本主義の国で生きる以上、株主(投資家)の意思のもとに生きざるを得ない、ということなのだ。それならば、自分自身が投資家として積極的にこの資本主義社会に参加したほうが良いのではないか、というのが私からの提案なのである」(217)

「「自分でリスクが見えて管理できる状態」とは、何らかの仮説に基づいて投資を行った後で、その仮設が間違っていると気づいたら、いつえも手仕舞いできる準備をしておく、ということである。
 自分がとろうとしているリスクの大きさを、正確に見極めよ。そのリスクに責任がとれると踏んだならば、臆せずに投資せよ。それが投資家として生きる上での鉄則なのである」(232)

「「売り物がある人」は必ず「武器」として英語を身につけるべきだ。まだ「売り」がない人は、英語の勉強をやる前に「自分の商品価値」を作ることが何より大切なのである」(266)

「社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。自分の力でやったことだけが、本物の自分の武器になるのである。資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。そういう意味で、ギリシャ神話などの神話や優れた文学が教えることは、人生の教訓を得るうえでも非常に有効だと私は考えている」(281)

2012年1月8日日曜日

『僕は君たちに武器を配りたい』

「起業や商品で差をつけることは難しい。差をつけるには、ターゲットとなった顧客が共感できるストーリーを作ること」(瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社.pp.145-146)

 教育も物語を共有することが一つのポイントだ。顧客満足度を上げることにもなるし、「高校時代」は繰り返せない。いわば、高校時代という思い出と学歴を購入するのが高校入学なのである。であれば、「この高校だといい物語を共有できる」というモデルを構築することが、高校にとって必要なことだ。わくわくする授業・楽しいイベントでの物語を作り上げる実践をしたいと思う。深夜アニメに高校ネタが多いのは、高校に「物語」を求める人がおおい証拠だろう。

2012年1月5日木曜日

小堀宗実, 2011, 『茶の湯の宇宙』朝日新書.

最近、アニメで『へうげもの』を観るのが好きである。その関係で茶道について若干ながら書物を読むようになった。

 本書はそういった流れで読んでいる。教員の仕事も茶道同様、「芸」である。そのため、本書は教員論として読んだ。

 茶道において、茶会において何が起きるかわからないからこそ、控えの道具など、問題があった時の用意を必ずしておく、という。たとえばお茶を立てるための茶筅(ちゃせん:お茶をかき混ぜ泡立てるのに用いるもの)を万が一落としてしまった時のため、新しい茶筅を予め用意しておく。その際、別の茶筅であることを明確にするため色の違う茶筅を出しているという。

「控えの茶筅や柄杓は、一度も使わないで済むことがよいことです。一生涯使わないかも知れないけれど、水屋(注 茶席の用意をする場所)に控えを用意しておく。これが備えというものです」(58)

 何事も用意が必要である。教育実践においても「用意」が必要だ。何も考えず授業をしてしまうことは1つの暴力である。

 そのため、いまのうちから教員実践の準備をしたいと思う。

2012年1月4日水曜日

コミュニケーション力

 コミュニケーション力が減ってきている人が多い、とよく聞く。しかし、よく考えると「コミュニケーション力がない」と相手に言い切れる人のほうがよっぽどコミュニケーション力がないと思う。

 たとえば取引先が麻雀に詳しいなら誰でも麻雀を勉強してからコミュニケーションしにいく。しかし、若者と会話が上手くいかない時、「若者と会う話題は何か」学ぶ努力をせず、自分の側の努力を棚に上げ、相手がコミュニケーション力がないと決め付ける。

 社会学ではこういった片方が一方的に不利な側を押し付けられることを「権力」と呼ぶが、まさに権力的状況がそんざいしているのである。

2012年1月1日日曜日

マイケル・S・チウェ, 2001, 『儀式は何の役に立つか−−ゲーム理論のレッスン』(安田雪訳, 2003, 新曜社)。

アメリカではアメフトの試合の視聴率はものすごく高い。プロのアメリカン・フットボールチーム全米一を決めるのがスーパーボウルである。毎年2月に開催され、現在までなんと21年連続で視聴率40%を獲得している恐ろしいスポーツイベントとなっている。

 アップル社の戦略について本書はこう述べる。「スーパーボウル放映中にテレビ・コマーシャルを打つことによって、アップル社は、単に視聴者に新型マッキントッシュのことを知らせただけではない。同時に、多くの他の人々も新型マッキントッシュのことを知らされたということを、視聴者に伝えたのである」(13)。
 このように本書では、宣伝というものが「自分以外の人もこれを目にしている」という想像が成立する場合に効果的である、という事実を伝える。「他の人も同じ物を目にしている」という想像こそ、人びとに強烈なメッセージを与えている。そういった意味で宣伝を同じ時に見るということは現代の儀式なのだと本書は述べる。
 「電話を受けた人は、他の人々も同じような電話を受けたか、どれくらいの人が受けたかを知らない。一方テレビ・コマーシャルは、少なくともある程度は共通知識である。なぜなら、テレビ・コマーシャルを見ている人は、他の人々も同じテレビ・コマーシャルを見ていることを知っているからである」(16-17)。

 宣伝というのは個人に打てばいいものではない。むしろ、「他の人も同じ宣伝を見ているのだ」という想像が成立することに意味があるのだ。

2011年12月22日木曜日

カール・シュミット『政治的なものの概念』

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カール・シュミット『政治的なものの概念』

Schmitt, Carl, 1927, "Der Begriff des Politischen", Euncker & Humblot. München.(=1970, 田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』未来社)

シュミットの有名な「友・敵関係」について述べた書。国家は敵を定めることで「我々」国民を形成する。

「諸国民は、友・敵の対立にしたがって結束するのであり、この対立は、こんにちなお、現実に存在するし、また政治的に存在するすべての国民にとって現実的可能性として与えられているものである、ということは、道理上否定できないのである」(18)

「政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが極点としての友・敵結束に近づけば近づくほど、ますます政治的なものとなるのである」(20)

→対立を擬制することで政治はなされる。「だれを敵とみなし、敵として扱うかを決定的に判定する」(52)ことが国家や政治団体の立場である。

「「戦争を追放する」ことは、そもそも不可能である。追放できるのはただ、特定の人びと、国民・国家・階級・宗教等々であって、これらは、「追放」によって敵であると宣言されるのである。このように、厳粛な「戦争追放」も、友・敵区別を解消するものではなく、国際的な敵宣言という新たな可能性によって、友・敵区別に新しい内容と新しい生命を与えるものなのである」(57)

「人類そのものは戦争をなしえない。人類は、少なくとも地球という惑星上に、敵をもたない|からである。人類という概念は、敵という概念と相容れない。敵も人間であることをやめるわけではなく、この点でなんら特別な区別はないからである。戦争が人類の名においてなされるということは、この単純な真理となんら矛盾するものではなく、ただとくに強い政治的な意味をもつにすぎない」(63)




 世界政府の可能性など、なかなか興味深い。シュミットは世界政府が出来、名称としての「戦争」がなくなっても、例えば「平和維持活動」などの名称などの形で戦争がなされることを指摘している(102)。

◯解説より

「シュミットは、「政治的なもの」の究極的な識別徴標を、「友か敵か」すなわち「友・敵関係」として捉える。道徳においては善・悪が、美的には美・醜が、経済において利・害(もうかるかもうからないか)が、それぞれ固有の識別徴標であるように、政治に固有の識別徴標は、「友・敵」関係だ、というわけである」(121)

「シュミットが、例外状況においては、国家は、既存の法体系や慣行・ルールを徹底的に破壊しつくしてしまうことをリアルにえがきだしていることははなはだ興味深い」(127)

2011年12月17日土曜日

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので(東京での予定がキャンセルされたので)湯本駅まで行った。
 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。

 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。
 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。

 帰りの電車でそう考えた。

「おわり」を言う権力性

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「おわり」を言う権力性

 昨日、野田首相が原発事故の収束宣言を出した。今日、たまたま福島県に行ったが、『福島民報』は「ふざけるな」という内容ばかりだった。「おわり」を宣言すると、もうこれ以上の「再建」はなくなる。「おわり」といって終わりにしてしまう暴力性を訴えていたのである。

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので湯本駅まで行った。
 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。

 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。
 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。

 帰りの電車でそう考えた。

2011年11月13日日曜日

三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

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三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

「幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である」(18)

「日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すことである」(19)

「他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に浸透する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている」(27)

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(43)

「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションをつくることである」(43)

「我々の怒の多くは神経のうちにある。それだから神経を苛立たせる原因になるようなこと、例えば、空腹とか睡眠不足とかいうことが避けられねばならぬ」(55)

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」(65)

「嫉妬は、嫉妬される者の一に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」(69)

「一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である」(75)

「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である」(90-91)

「現代人はもはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある」(97)

「旅において人が感傷的になり易いのは、むしろ彼がその日常の活動から抜け出すためであり、無為になるためである。感傷は私のウィーク・エンドである」(110)

「行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである」(110)

「生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむということは可能である」(121)

「旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(134)

「永遠なものの観想のうちに自己を失うとき、私は美しい絶対の孤独に入ることができる」(145)


「娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ」(124)

「我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう」(133)

2011年11月1日火曜日

池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

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池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

 筆者は近代の個人主義意識の起こりを万能人アルベルティ(レオナルド・ダ・ヴィンチが劣等感を感じたほどの人物)を参照しつつ論を進めている。

「イタリアで、かように急速に印刷術が普及したのは、ものを書く学者・作家が多く、字の読める層が広範にあり、しかも学校や個人的勉学での使用のほか、仕事(法律家・医者・聖職者)、趣味、敬神などで大量に書物の需要があり、産業として成立する素地があったから|であろう」(76-77)

ルネサンスにおいて「女性が公的空間から排除されたのは、女性の〈名誉〉を守るためでもあった。彼女らの〈名誉〉の中心要素とは、貞淑・純潔えあり、それを失うことは深刻な社会的結果をもたらす。なぜなら〈名誉〉は、個人のそれにせよ家族のそれにせよ、自力だけでどうなるものではなく、他者から見られた社会的価値の相対であったから」(151)

「彼(☆アルベルティ)は、子供は、乳児期には父親の手ではなく、優しく静かな母親に育てられるべきであるとするが、その後の教育は、父親の務めだとしている」(177)

「ルネサンス分化の精華を生み出した芸術家や思想家の伝記、とりわけアルベルティやギベルティの自伝に表れているのは、とてつもない、己の天賦の才と美徳への賛嘆と自恃であり、これは、「個人主義」の宣言として、ブルクハルトのように読むことがたしかに可能である」(229)

「アルベルティにとっての〈美徳〉は、人間の地上での健全な活動を保障するが、その活動の領域が〈時間〉である。『家族論』のジャンノッツォ(☆アルベルティ『家族論』の登場人物)は〈時間〉について、身体・|魂とならんで、人間が自分の占有物だといえるものだ、としているのは興味深い。ところが他人に与えることのできぬ、という意味ではたしかに自分のものだが、その「使い方」は、その人の意志いかんにかかっている。だから〈時間〉とは、行動の可能性、文化・教養の運用そのものであり、したがってそれは、〈美徳〉の活動領域なのだ。
 〈勤勉〉は、もっぱら市民関係のなかで行われ、家族や国家の繁栄をもたらし、富の花を咲かせる。人間の価値は〈勤勉〉のなかにのみ存する。人間は人間のために役立つよう生まれたのであり、いつも社会で活動しつづけるために生を享けたのであり、怠惰以上の罪はなく、高邁で崇高な目標に向かって努力することで、自らのうちに完全な〈美徳〉を実現できる。〈勤勉〉が実現する〈美徳〉。
 だが、〈無為〉にもじつは二種類あり、悪しき怠惰のほかに、ユマニストのための〈無為〉=〈閑暇〉がある。〈勤勉〉のうち最高のものは、文学研究であり、それは、まさに〈閑暇〉においてしかありえない。自由時間は、〈無為〉でありつつ〈勤勉〉なのだ。こうした〈時間〉の質についての差異化は、ユマニスト特有の考え方だろう」(266-267)

「アルベルティの拠り所は、政治ではなく、家族だけだった。そして自ら家族に与えた新理念のおかげで、権威主義へと落ち込む危険を免れていた。彼の最終的なメッセージは何か。それは家族と都市を同到させること、そして世界中に〈自然〉を模範とする人工の美を押し広めることによって人類を救出することだった。「家族イデオロギー」と「都市イデオロギー」に深くコミットすると見せかけながら、〈普遍〉と〈多様性〉の理念を梃子に、芸術の|〈装飾〉と言葉の〈修辞〉であらゆるイデオロギーを骨抜きにする、これが彼の人生と思考を貫く方法であった」(291-292)

「他のユマニストと異なり、大学で教鞭をとらず、パトロン(権力者)にすがって生きることもなく、最後まで私人として公に尽くす道を探ったアルベルティ、経験主義者であると同時に理想主義者でもあり、深刻な問題を論ずるときも快活で機知に富み、しかも威厳を失うことがないアルベルティ、彼の生き方は、わたしの理想でもあると、告白しておこう」(303)

●解説 山崎正和
「じつは自己顕示は個人主義の産物ではなく、逆に個人主義こそ自己顕示のなかから生まれてきたという経緯だろう。最初に確立した個人があって、それが自己をみせびらかしたのではなく、むしろ見せびらかしの競争のなかで、個人は見せびらかすべき自己を発見して行ったのにちがいない」(319)
→ウェブレンの『有産階級の理論』を思い出す。

2011年10月23日日曜日

坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

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坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

 カウンターカルチャー性が面白い本。ホームレスのほうが実は「自由」で素敵に生きている、という事実を赤裸々に示している。それは炊き出しやゴミのなかから資源を捜すという「都市型狩猟採集生活」が現代日本で可能であるという事実による。なお本文では「ホームレス」とは使わない。
 映画『ダメジン』を思い出す。イリイチ的なコンヴィヴィアルな生活を示した内容。

 ドロボウ市。「開催場所は、南千住駅から徒歩で行ける、山谷地区の玉姫公園周辺だ。山谷地区というのは、台東区泪橋交差点を中心とした日雇い労働者たちが滞在する簡易宿泊所が集中する地域の通称であり、俗に言う「ドヤ街」である。
 市場は、雨の降らないかぎり毎朝五時〜七時の二時間だけ開かれる」(80)

 われわれはどの電化製品がどれくらい電気を食うか、殆ど知らない。しかし「都市型狩猟採集生活における電気との付き合い方は、まるで正反対だ。/一二ボルトで動く小型テレビは、自動車用バッテリー一台を使えば、一日五時間見たとして一〇日間ぐらいもつ。そんな具体的な数字がすらすら出てくる。つまり、電気をモノとして捉えているのである」(94)

「冬の間は、自分でお酒もつくります。スーパーで麹を買ってきて、米を四合炊く。少し水を入れ、そのあとに麹を入れて、場合によってはイースト菌も入れます。それらをかき混ぜ、蓋をしておく。一週間も置いておけば、おいしいどぶろくができあがりますよ」(128)
 なんか伊丹十三の『タンポポ』に出てくる浮浪者集団のようだ。

「水といえば、朝方、植物の葉の上に溜まっている朝露は、ぜひとも一度飲んでみてほしいです。昼は暑くて蒸発してしまいますが、夜になって気温が下がると水分は蒸発せず、朝方になって溜まって出てくる。これは完全に濾過された水であると同時に、植物の体内を通過する際にその栄養分も吸収していて、おいしいんです。これがどういうことかというと、たとえ天変地異が発生して、都市の水道機能が断たれたとしても、飲み水を手に入れる方法はいくらでもあるということです」(133)

「ぼくが繰り返し言う都市型狩猟採集生活というのは、ただの路上生活のことではない。最終的な目標は、自分の頭で考え、独自の生活、仕事をつくり出すことにある。(…)違法行為にならないように距離を取りながら自分なりの本質的な生活を見つけるという作業は、現代の冒険といっても過言ではない」(146)

「彼ら(藤本注 都市型狩猟採集生活者)は、暗黙の了解あってのことではあるが、公有地に住みながらも撤去されることなく、家を建てることに成功している。すでに、ぼくにとって、公園や川沿いに建つ〇(ゼロ)円ハウスはただの路上生活者の家ではなくなっていた。それらは、権力を持たない、力のない人間であっても、都市の中に独自の空間を獲得できるという証明そのものであった。
 ぼくはまた、彼らがそこで生活することの持つ意味や可能性に対して、自覚的であることにも感銘を受けた。
 彼らは、何一つシステムを変えることなく、すべてを自らで決断するという勇気によって、自分だけの家、自分だけの生活を手に入れているのである。つまり、社会がどんな状況になろうとも、そこから独立した生き方をしているために、常に主導権は自分自身の手を離れることがない」(174)

 イリイチ的主張を現代日本で実現すると、そのひとつの形態が「都市型狩猟採集生活」ということになるのかもしれない。

 若干、美化しすぎの気もするが、「カウンター・カルチャー」の初めはそういう過度な美化から「こちらのほうが実はいいのではないか」という感覚を広める必要がある。まあ、仕方ないか。

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

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大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.
修士課程2年 藤本研一


 良くも悪くもロースクールの院生がつくった、という感じが強い本。この程度の水準・内容で出版できる事自体驚きであるが、帯紙に「ロースクール白書」と書いてしまうことに笑ってしまう。
 アンケートも、例えばパーセンテージや総数を表示していないなど初歩的ミスが目立つ。また、東京大学ロースクールのゼミの有志で作成されているため、自分たちへの支援を呼びかける口調となっている。ゼミ調査の文献でなければ読まなかった本である。
 内容はインタビュー集である。普段、どのように生活しているかわからないロースクール生に対し、勉強の仕方・学費・生活費・子育て支援など、院生目線で見たリサーチである。
 インパクトが強いのはロースクールのシステムの特異性である。「司法試験を目指すロースクール生にとっては、終了後の5月に試験、9月に合格発表というスケジュールになっており、修了後の住居をどうするのか、その間の住居費はどうやって捻出するのか等の問題を抱えてい」(74)る点が特に大きい。学生寮の場合、大学院修了とともに出ていくことが必要である場所も存在するため、大学院生向けの住居支援の仕方に再考を促す内容となっている。
 また、専門職大学院の一つであるため、社会人経験者や子育てを平行して行う院生も存在するため、保育園設備の重要性を訴えるなどの内容が記載されている。
 細かく見ていくと冗長なため、結論部分のみを見ていく。

「本書で見てきた支援制度を前提にすると、ロースクール生に対する公的な支援は、学生一般または研究者養成のための支援の一環として行われているにすぎない現状があります。そしてその結果として、新しい法曹養成制度との関連で支援の空白期間(藤本注 上記のロースクールの日程を参照)が生じることになったり、支援不足のためにロースクールに通いたくても通えない人がいる可能性があります。一方、財団による奨学金に代表されるような私的な支援はそれぞれの理念に基づいており、ロースクール生に対象を絞った法曹関係者による支援なども存在します。これらの私的支援制度が公的支援の不足部分を穴埋めしているという側|面があると考えられます。(…)新しい法曹養成制度と連動し、ロースクール生のための公的支援が必要であると言うことはできないでしょうか」(118-119)

 ロースクールは通常の大学院と異なる、という指摘である。そのため今までの大学院生支援と同じ発想で考えてはならない、という主張をしている。同様の主張には次のものもある。

「ロースクール生は修了後すぐに法曹として働き収入を得るということができません。にもかかわらず、大学院を修了しているため奨学金の返還義務が生じます。したがってロースクール修了後、法曹になるまでの間、奨学金を返還しながらどのように生活していくのかが大きな課題となります」(70)

 ロースクールの特殊性を鑑みた上での奨学金制度の設備が必要であるようだ。
 その後、筆者たちはロースクールの知見を広げ、大学院生一般に話を敷衍する。

「他の分野の大学院まで見渡したうえで、「大人」ではあるけれど経済的自立のできていない大学院生とはどのような存在であるか、それに対する現在の支援制度はどのように作られているのか、今後さらなる検討が必要です」(122)

 なんとも私にとって耳の痛い内容であるが、疑問も感じる。ロースクールは本書にもあるように、学業に追われるためアルバイトをしにくい状況にある。その点、(われわれ)一般の文系大学院生とは少し異なっている。
 大学院生に対する支援、という発想を本書から私は得ることができた。しかし、本書は院生目線のため、「支援しなければならない」という主張をしている。その支援理由は社会的弱者にも法曹になる「機会の均等」の実現から論を導いている。この論理から、例えば殆ど就職先のない大学院(哲学・倫理学など)に対しても「機会の均等」の上から支援が必要であると本当に述べることが出来るのか疑問である。大学院生への支援が本当に社会的に必要であるのかの議論が更に必要であろう。「モラトリアム」として大学院に入る院生が存在する(66)ことを想定する必要がある。
 他の本書の不備として、基本的情報の記載がなされていない点があげられる。例えば東大ロースクールの学費が幾らかは当然視されているためか記載されない(筆者は110万円前後であったと記憶している)。
 本書は東大ロースクールを目指す人にとっては代え難い貴重な資料集となるであろうが、私にとってはミニコミ誌にすぎなく感じられた。
 以上。

2011年10月16日日曜日

本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

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本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

 時間の多元性を生物学の観点から語った本。子どもは大人と違う時を生きている等、なかなかに興味深い。
 人間は「本能の壊れた動物」であると岸田秀は言う。本書でもそれを証明しているようだ。

「東京ほどの高密度で住んでいる哺乳類は、どの程度の大きさのものになるのでしょうか。計算すると体重が六グラム、哺乳類として一番小さいトガリネズミのサイズです。では日本の全国平均の人口密度で住んでいる動物はどうかというと、体重が一四〇グラムですから、ドブネズミ程度。いずれにしても日本に住めばネズミ小屋暮らしになってしまうのですね」(11)


「生きものには生きものの時間があるのです。ならば当然、生きものを理|解するには、その時間を使わなければいけないでしょう」(46-47)
「子供はエネルギーをたくさん使って時間が速く進むから、一日二四時間という同じ絶対時間の間に、子供は大人よりもいろいろなことをやってたくさんの経験がもてます。だから逆に子供では一日が長く感じられるのではないでしょうか」(154)
→これは生き物全般、赤ちゃん-幼児-子ども-若者-大人-老人の時間の違いを認識することの指摘でもある。

 動きまわるのが少ない生物ほど、エネルギーの消費が少なくて済む。また寿命も伸びる。そういったエネルギー的観点から、人間の生き方を探った本である。

「日本の人口密度はネズミ程度だと冒頭で申し上げましたね。ネズミ小屋の中でゾウなみのエネルギーを使っている、これが日本人の生活ということになります」(121)

「現代人も縄文人も、体自体に大きな違いはなく、私たちの体のリズムは昔のままなのです。とすると、体の時間は昔と何も変わっていないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに速くなっているのが現代だということになります。
 そんなにも速くなった社会の時間に、はたして体がうまくついていけるのでしょうか? 現代人には大きなストレスがかかっているとよく言われます。そのストレスの最大の原因は、体の時間と社会の時間の極端なギャップにある、と私は思っています」(140)
→人間の動物性である。

 読んでいて思うのは、動物の悲しさである。動けば動くほど、エネルギーが必要になり多くを食する必要がある。そのため、一生に費やすエネルギーを早く使いきってしまい、寿命を迎える。一方、ほとんど動かない動物(ex. ナマケモノ)や植物はエネルギー消費が少ない分、長く生きれる。頑張ることや一生懸命さというものを問い直すことが必要だと思った。

2011年10月9日日曜日

映画『地球に優しい生活』(原題: No Impact Man アメリカ2009)

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映画『地球に優しい生活』(原題: No Impact Man アメリカ2009)

 新宿武蔵野館でトークショーも含めて、本日見に行った。初日というのは映画のエネルギーを強く感じる。

 さて、この映画は1年間地球に負担をかけない(No Impact)生活をニューヨークの都心のアパートで行う、というものだ。田舎ならいくらでも自給自足ができる(こっちも大変だけど)。それを都会で、奥さんが働きつつ、家族3人で行うという点で「大変」なのである。
 いままで私が観てきたドキュメンタリーとの違いは、本作の主人公は「成長」・「変化」していく点だ。一般的なドキュメンタリーは固定的で迷いのない主体として描かれる。代表例は『ゆきゆきて、神軍』。主人公の奥村謙三は最初から最後まで「変な人」であり、活動家である。何かを経験してもそこからの学習や変化は描かれない。一直線のモデルである。このように描かないと、ドキュメンタリーでとりあげるべき人物ではなくなってしまうからだ。最初から最後まで、環境運動家は変化せず、批判に屈せず、やり切るのが一般的なドキュメンタリーである。
 一方、本作の主人公は意外に弱い。自らの生活を綴ったブログへの批判にヘコみ、いろんな人からの批判・指摘を受けて「自分が間違ってるかもしれない」とアッサリ認めてしまう。また、単に自らの活動を誇示するのではなく、他の運動家や農場・地域の人々から学んでいく姿勢が挙げられる。夫・妻との会話・対立を経験しつつ、なんとか1年過ごすという映画である。ある意味確たる主体性が消滅した、ポストモダン的なドキュメンタリー、と言えるだろうか。主人公たちの会話や「地球に優しい」主張も、よく聞くと矛盾しあっている。エレベーターはダメだが、遠くの牧場への電車は構わない、本は読むけれどトイレットペーパーはNGなどなど。混乱・葛藤・矛盾を描き出している。
 一般的なドキュメンタリーとの違いは、おそらく編集の仕方である。編集はすべての映像を撮ったあとに完了する。その際、「変化しない」部分を組み合わせて作ると一般的なドキュメンタリーになる。しかし、それをあえて混乱・矛盾したまま描くと本作のようになる。編集の力はすごいものだと思う。

 私は本作のように「変化」する主体を描いたドキュメンタリーを好む。だって私は弱い。他者の声に簡単に影響される。また以前と違う考え方にいきなり変化することがある。おそらくほとんどの人の生活もこういうものだろう。それゆえ、本作は変化・矛盾している自分のような弱い主体でも、何かができるのではないかと考えさせることに成功しているのである。面倒くさく言うと、本作は共同主観性の立場で描かれたドキュメンタリー映画だ、ということができるだろう。
 

2011年10月7日金曜日

坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

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坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

「他者は、自己にとって自己と同じように独自の仕方で世界を認識し意味構成する認識主体として、あるいは逆に自己によって意味づけられる認識の単なる対象として、現れる。他者を「対象」として知覚する限り、他者の存在は私と世界の諸事物との関係を変えることはないが、他者を認識主体として認めるや否や、私はもはや自分を中心に世界を構成することができなくなる。世界のもう一つの中心としての他者の出現は、同様の意味作用の中心として権利づけられた他の身体による現実構成の中で、現実構成の主体から対象へと堕してしまう。ここには自己が自由な意味形成の主体から単なる状況的現実の一項にすぎない状態へと陥る恐怖が描かれている」(46)

「役割距離は、このように特定の役割期待の中で要求されるものもあるが、役割を遂行する個人についての一定の情報を与えることに利用される場合もある。いずれにしろ、役割距離は、遂行している役割以外の真の自己の存在を他者に呈示する。しかし、スティグマをもつ人々にとって、スティグマという役割から距離をとってみることは不可能である。スティグマを余裕をもって不真面目に演じることなどできないのである」(58)

「障害者は、障害を隠すことで健常者とみなされたり(パッシング)、「障害者」の役割を意識的に演じてみせたりするなど、自己表出をコントロールすることができる。こうした作業は、社会規範に基づいた一方的な自己規定に対して、自らの意志でコントロールできる部分を、少しでも見いだそうという、自らを「主体化」する努力といってもよい」(187)

→パッシングとはやり過ごすこと、みたいです。

「関係論的自我論では、自己を変えるためには、関係を変えなければならないが、関係を変えようとすれば、その前に自己を変えなければならないという循環に陥る。主体性重視の、ミード的自我論では、主我が客我を変えることになるが、主我は、客我に対する反応であるから、帰る対象が自らの前提になってしまう。そこで浅野が提示する物語論的自我論は、自我の変容を自己物語の書き換えとして考える。物語は、他者=セラピストに対して語り、その他者が物語の裂け目、非一貫性を指摘していくことで、新た|な物語が形成されていく」(196-197)

「語るという行為は、聴くという行為がなければ成立しない。自己についての語りは、他者による認知がなければ成立しないのである。では、自己はどのようにして他者に認知されるのか。どうすれば、「私」を認知させることができるのか。私を認知する〈聴く主体〉は、どのようにして成立し存在するのか。
 ポストモダンの、パロディやアイデンティティの流動化の戦略は、結局のところ、この〈聴く主体〉が存在しなければ、意味がない。換言すれば、〈聴く主体〉がいかに成立するかが、パロディなどの撹乱の戦略に先立つ重要な課題なのである。〈聴く主体〉は、一方的な啓蒙によってできるのではない。|それは、語る者との間の相互作用によって、成立する。語る者と聴く者が、主体となる以前の、流動的なアイデンティティの相互の変容に共同で取り組むこと、ともにマジョリティのアイデンティティとマイノリティのアイデンティティの間を往還していく、そうした準備ができていることが必要なのである。周縁的アイデンティティやその主体性という、語る主体の視点からばかりでなく、〈語る-聴く〉相互行為という視点からのアイデンティフィケーション論の構築が必要である」(坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.229-230)

→アイデンティティは受容する他者・「聴く主体」がなければ成立しない。

「したがって、女性の立場を否定するのではなく、「女性」を女性(いま女性である人々)だけでなく、誰もが(現実にあるいは想像的に)」採りうる立場として開放し、相対化していくこと。社会に規定された女性という立場に依拠しつつ、その問題点を変革し、女性の価値を劣った価値としてではなく、男性とも共有できる価値として定義し直していくこと。自らのからだや欲求を、自らに対しても他者に対しても、積極的に肯定していくということ。そうしたことが必要になってきているのではないか」(295)

2011年10月5日水曜日

G・H・ミード『社会的自我』,船津衛・徳川直人編訳, 1991, 恒星社厚生閣.

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G・H・ミード『社会的自我』,船津衛・徳川直人編訳, 1991, 恒星社厚生閣.

 ある意味ミード入門としても読める本。

「意味とは、対象が引き起こす、表示された反応のことである」(22)

「人間が自分自身に対して対象となるのは、まさに、自分の行為にかかわる他者の態度を取得する自分自身に気づくからである。人間が自分自身に立ち戻ることができたのは、他者の役割を取得することによってだけである」(57)

「もし、人が「机」という言葉を発音し、その発音を自分自身で聞いた場合、その人は、机という対象に対する組織化された反応態度を、他者に引き起こすのと同じ仕方で、自分自身のうちに引き起こしたことになる。このようにして引き起こされる組織化された態度は、普通、観念(idea)と呼ばれている。われわれが述べていることについての観念が、有意味な発話(significant speech)すべてに伴っているのである」(64)

「われわれは、自分に対する他者の態度を取得でき、そして、他者の態度に反応でき、また実際にそうするかぎり、まさに、そのかぎりにおいて、自我をもつのである」(65)

「思考とは内的会話のことである。そこにおいて、われわれは、自分自身と対峙する特定の知り合いの役割を取得している。しかし、普通、われわれが会話しているのは「一般化された他者」と名づけられたものとである。それによって、抽象的思考のレベルに到達することになる。そしてインパーソナル性、われわれの考えるような、いわゆる客観性というものを獲得するようになる」(66)

2011年9月22日木曜日

水たまりと鬱病について。

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水たまりと鬱病について。

人は5センチの深さの水たまりで窒息死することができる、という。でも、そこで窒息死するのはなかなか難しい。酔ってそのまま、ということくらいじゃないと、なかなか出来ない。センスが必要だ。

鬱病というのも、他の人にはたいしたことない環境でも、発症できる人はいるのだろう。

だとすれば、鬱病になるのはひとつの才能、ひとつの能力、ひとつのセンスではないか、と思う。だって、他の人ができないことをしているわけだから。

2011年9月21日水曜日

ホームドア

この写真のように黄昏てる人がいる時点で面白い、と想像した。

2011年9月19日月曜日

ひろさちや, 2007, 『「狂い」のすすめ』集英社新書。

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ひろさちや, 2007, 『「狂い」のすすめ』集英社新書。

「つまり、目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになるのです。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積みの生活でもいい。それでも楽しく生きることができるはずです。|
 要するに、繰り返しになりますが、現代日本の社会は狂っています。こんな狂った社会で、社会が考えるまともな生活をしてはいけません。こんな社会でまともな人間になれば、われわれは奴隷になってしまいます。
 だから、狂いましょうよ。狂うことによって、わたしたちは本当の人間らしい生き方ができるのです。わたしはそう思っています。」(55-56)

「わたしたちは世間、世の中に役に立つ人間になる必要はありません。いや、わざわざわれわれが世の中に役に立つ人間になろうとしないでも、人間は生きているだけで世の中の役に立っているのです」(61)

「わたしたちはたまたま人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。別段、それ以上の意味なんてない」(73)

「笑えるときは笑っていいのですが、泣いて苦しむときは泣き苦しめばいいのです。苦しみを楽しむことができれば、あなたの人生はすばらしい人生になります。それが「現在」を楽しむことです」(85)

「ともあれ、釈迦の言葉は、あのホラティウスの「カルペ・ディエム(今日を楽しめ)」と同じです。わたしたちは、自分は自分であって他人ではありません。現在の自分をしっかりと肯定し、その自分を楽しく生きればいいのです。それが仏教的生き方だと思います」(100)

「人間ができることは、ただ現在をしっかりと生きることです。そして、現在をしっかりと生きるために、人間は病気になると、負けることを承知の上で病気と闘って生きます。それがキリスト教徒らしい生き方です」(104)

「だからわれわれは、
ーー孤独を生きねばならないーー
のです。いいですか、孤独に生きるのではなしに、孤独を生きるのです」(127)

鬱気味な日々。

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鬱気味な日々。

なんかうつ病気味だ。これを、「うつ病になってしまった」と捉えるなら、「以前」「普通」の状態が想定されるだけである。

しかし、うつという視点でものを見るチャンス、「頑張らなくてもいいんじゃないか」と考える発想のチャンスを貰った、ということもできる。

人生は長い。寄り道をわざわざ作らせるために、こういった「うつ」という状態になるのだろうと思う。

現代人に欝が多いのは、実は精神を病んでいる、ということではなく前期近代的(あるいは高度経済成長期的)なガンバリズムから身を守るための社会的セーフティネット、あるいは人間の身体的防衛システムの起動である、ということができるのではないか。

2011年9月11日日曜日

新宿の反原発デモ

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新宿の反原発デモ

 新宿の脱原発デモに行った。心情的に私は現状維持→漸次廃止だから即時撤廃を言う人に違和感を感じつつ歩いた。
 …といっても、新宿三丁目の交差点から歌舞伎町のそばまで。実質200メートルくらい。本当はもう少しやるつもりだったが、警察とデモの人たちがもめ始め、怖くなって抜け出てしまった。

 デモをやる人は、下手したら警察に捕まる可能性がある。そんな当たり前のことを、デモ隊と警官のやり取りを見ていて実感した。だからこそ、危険を顧みずヴァルネラブルの姿勢でデモをやれる人は尊敬する。私は軽く考えすぎていた。
 警察はデモがあっても交通を通し、社会混乱を防止することが仕事。だから僕の歩いていた周りも警察官が歩道側・車道側ともに車や人との接触がないようガードしていた。しかし、これはデモ隊に加わることと、デモ隊から出すことを防ぐという裏の意味がある。私はまだ離脱可能なタイミングだったからデモ隊から出ることができた(警察が周りをガードしているから、なかなか途中参加・途中離脱ができない。トイレに行きたい人はデモを完全に離脱しないと行けないのだ)。

 ちょうど『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ後だったので、安保闘争ないし大学紛争の気持ちが少しだけ分かった。なつかしい「日大全共闘」の幟を持って歩いているおじいさんがいた。歩いている途中、後ろで各種右翼系団体への批判を隣同士している人がいた。ある意味、純粋な反原発の意図のみならず、左翼系活動のシンボルとして脱原発が利用されているのであろうと思う。

 自分はかなりせこい参加の仕方をしており、いろいろ反省した。
 私がデモに参加しても、誰も発砲もしてこなければ機動隊に殴られることもないだろう、という予期ゆえに軽い気持ちで参加していた。しかし、本当はそこまで考えないといけないのかもしれない。
 

トイレ男子

メガネ男子とか、草食系とか、いろいろあったなあ。

2011年9月6日火曜日

自由な教育とは何か?〜時間論から見る理想の教育について〜

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自由な教育とは何か?〜時間論から見る理想の教育について〜

自由な教育とは何か?〜時間論から見る理想の教育について〜

1,境界現在と現在経験
 
 ゲーテの書いた『ファウスト』に次の台詞がある。
 
止まれ時間よ、お前はあまりに美しい。
 
 悪魔メフィストフェレスとの契約において重要な意味を持つことはさておいて、このフレーズには「いま」・「この瞬間」の輝きということが示唆されている。つまり、この瞬間における生の躍動感の経験が目標として掲げられている。「いま」この瞬間の充実を達成し、人間の生が最大限に活性化するタイミングこそ、ファウストが「止まれ時間よ!」と叫ぶ時であった。
 それを考察するにあたり、大森(1996)の概念を参照したい。彼は過去現在未来と一方向にただ過ぎ去るだけの時間という「現在」の捉え方を「境界現在」と呼び、充実した生のあり方たる「現在経験」(ファウストが叫ぶ際の「時間」)とに分けて述べる。
 
「現在」という概念は昔も今も人を当惑させる。捉えようとすれば指の間からすり抜けるし、捉えたと思うと似ても似つかぬものだったという苦い思いをさせる。私はこうしためくらましが生まれるからくりを何とか同定できたと思う。それは「現在経験」と「境界現在」との混同である。過去と未来とからなる時間軸上に何とか定位される「境界現在」は、現在経験の影武者にさえなれないほどに貧困なしろものであって、「現在経験」という生の豊かさに満々としている「現在」に近似することもできない。(大森 1996:99-100
 
 我々の生活経験を振り返ってみても、真に充実し、生が躍動していたと考えられた「時」とは、時間が経つのを忘れていたときであることに思い至ることができるだろう。逆説的ながら、経過するという時間の特徴を忘却する、あるいは意識しなくなる際に、その現在は「現在経験」に変化するのである。
 もっと言えば次のようになる。真に充実した瞬間というのはもはや自分という主体の存在が消える瞬間のことである。ゲームに集中し、ふと我に返ると何時間も経過していたことに気づくことがある。このことはつまり、ゲームに熱中していた間は自分という存在が消えているからこそ「我に返る」ことが可能になっているのだ。このような自己が溶解する経験こそ、自分が真に事物と向き合うということになるだろう。言い方を変えれば、その事物と自己が溶解しあい一体化しているということができる。他者との対話に熱中するときも、「自分」という存在が溶解し、他者と一体化、ないしは区別がつかなくなる程度まで混ざり合ったときであると言えるだろう。
 いまの説明がわかりにくければ、その逆を考えるとわかりやすい。退屈するのは、退屈する自分という主体がそっくりそのまま残っている時である。退屈を感じる自分が存在する時、時間ばかりが気になる。現在を充実させるには自己が溶解しなければならないのである。
 まとめると、自己が溶解する時というものが「現在経験」する時であるといえる。そしてその瞬間「時は流れず」、充実した「現在」のみになる。もはや主体が溶解しているので、時間が流れていることを失念するためである。大森はこういった現在経験のもたらす意味を考察したのであった。
 
2,充実した教育の条件
 
 説明が遅れたが、本稿の目的は充実した教育についてを考察することである。そのために大森を引いたのであった。彼の指摘を踏まえるならば、充実した教育(あるいは学習)というものは、目的志向なものではない、と述べることができる。世に行われる教育改革は、大抵の場合、「目的」をどうするか、という議論に終止している。学力低下論争も学力が単に低下したということよりは、その教育が担う「未来」像が時代にふさわしいか・ふさわしくないかをもとに議論されていたのである。
 目的を意識する際、現在それ自体を充実させる(楽しむ)という意識は低下する。子どもの認識レベルで言えば、〈遊びたいけど、テストがあるから勉強しよう〉という内容が例になる。この例で言えば、未来に実施される「テスト」の存在が、現在行う学習を縛ることになる。無論、この状態でも主体は学習を楽しむことは可能である場合もある。しかし、厳密かつ理論的に考察すると、それは未来の植民地になり果てた現在(境界現在)が見せる幻の楽しさ、ともいうことができる。本質的に「現在」を充実させることにはならないのである。「現在」が未来の植民地になり、未来を実現するためにただ過ごされるだけの「境界現在」に成り下がるのである。
 教育を巡る議論は、「境界現在」に成り下がるなかでの教育実践を考える段階のものがあまりに多い。教育実践それ自体を楽しむという発想は「教育詩学」を始めとする一部にしか存在していない。
 「境界現在」ではなく「現在経験」するなかでの実践、つまり「いま」を充実させる中での教育実践はいかにすれば可能なのか。筆者の結論はこうである。現在を充実させるためには、未来を想定せず、「いま」その教材と戯れること・触れること・考えることそれ自体が楽しい(=現在の生の充実、あるいは現在経験)という教育こそ、理想の教育であるということだ。この教育が子どものみならず教育従事者(教員・保護者など)にも楽しさをもたらす実践こそ、理想の教育であるということである。
 その際、先ほど述べた自己の溶解が起こる。教材ないし事物と自己とが溶解しあい、その経験自体に楽しみを覚えられる状態に至るのである。これこそ、充実した学習であり、充実した時間を過ごしたことになるだろう。
 この実践を「教育」と呼べるかはまた別の問題である。「教育」という言葉時代、「目標」(=「未来」)を想定してのプロセスだからである。「学習」・「学び」こそ、「現在経験」を重視する実践にはふさわしいと言える。
 筆者が想定するのは幼少期の子育てである。諺に「子どもは3歳までに親の恩を返す」とある。これは子育てをする経験のなかで親が得られる生の充実(楽しさ)の大きさを述べたフレーズであると解することができる。親は「よい子に育てよう」という意識を持って関わることもあるかもしれないが、子育てという行為それ自体を楽しんでいるところがあると言えるだろう。「よい子にしよう」という親の意図は、時間軸上でいえばかなりの期間(数年)が経たなければ実現するかどうか分からない。何らかの時点で親は自身の意図の挫折を味わう。子どもという主体はそんなにすぐ生育するわけではないからだ。そのような挫折を経験するなかで、何らかの期待というものは低減し、子育てというプロセス自体を楽しむようになる。このとき、現在の充実(=現在経験)が行われるようになる。子育てという、子どもと大人の行う相互行為のプロセス自体に焦点が当てられるようになる。
 これは読書会と近いモデルであるとも言える。ここでの読書会のイメージは、マルクスの『資本論』なりウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』なりを知り合い・友人と選び、読んでくる箇所を決め、集まった人たちと議論をするというものである。
 読書会には何か当面の大きな目標があるわけではない。究極的に言えば学問をすることが目標になるかもしれないが、決めた教材を読み・議論すること自体が目標になる。行為それ自体が目標になるわけだ。書を読み、他者と内容を共有し議論する過程を楽しむわけである。
 読書会を想定する際、イリイチの次の言が参考になる。
 
わたしの考えでは真理の探究はフィリアの成長を前提としているということです。(Illich 2005:260
 
 フィリア、つまり友情の深まりによる真理探究について述べた文である。友人・仲間との対話の中での研究の重要性を説いている。ここで重視すべきは、「フィリアの成長」と研究活動(学習と言い換えてもいい)とが軌を一にして進んでいく、ということである。他者との関わりが深まるほど、学習も深くなっていく。まさにレイブ&ウェンガーのいう「正統的周辺参加」である(Lave & Wenger 1991)。正統的周辺参加とは、集団への参加による学びの重要性を述べた理論である。集団への参加の度合いが進むほど、個人の学習も進んでいく、というモデルだ。それにより個人のアイデンティティの形成も行われていくというところに、レイブ&ウェンガーの特徴がある。「学習はいわば参加という枠組で生じる過程であり、個人の頭の中でではないのである」(Lave & Wenger 1991:8)と、集団への参加とその学習の進展がつながり合っている学びのあり方なのである。
 イリイチは理想の研究手法として「わたしはまた、真理の探究が、講義室ではなく、食卓を囲んだり、一杯のワインを傾けたりというユニークな方法で追求される様を示したかったのです」(Illich 2005:254-255)と述べている。この場合、想定される目標は他者との関わりないし研究それ自体である。そのような学びのあり方こそ、何か目的を想定し「現在」が植民地化される教育モデルを乗り越える形、つまり本来的な学びのあり方なのではないかと考えるのである。
 
3,結論
 
 結論を述べる。目標のある「教育」からプロセスを楽しむ(今を充実させる)「学び」・「学習」への転換が必要である、ということである。アーレントの想定した公共圏モデルは、他者との現れの領域のなかでの関わり合いというプロセスを重視するという実践である。教育もそれを目指すことが本質的に重要なのではないかと考えられる。
 しかし、一番いいのは苫野(2011)のいうように擬似対立を乗り越え、「目的」も「現在」の充実も両方を目指す姿勢である。筆者が述べたのはあくまで「学習」であって、「教育」ではない。学校教育において、目標を持たなければ生徒を評価することも出来ない(学習の到達目標がなければ評価を行うことなど出来ないのだ)。公教育では主体の社会化が必要となり、社会化には当然モデルとすべき像が目標として想定されていなければならない。本稿で筆者が試みたことは、そのままの形で教育実践に用いることはできないかもしれないが、「そういうあり方もあるのだ」ということを示す参照枠組みとして想定されれば本稿の「目標」に応えたことになるだろう。そうなったとき苫野の指摘を乗り越えることが可能なのではないかと考えている。
 
4,参考文献
 
Illich, Ivan, 2005, "The Rivers North of the Future: The Testament of Ivan Illich as told to David Cayley", House of Anansi Press, Toronto.(=臼井隆一郎訳『生きる希望』藤原書店, 2006.
Lave, Jean & Wenger, Etienne, 1991 "Situated Learning : Legitimate Peripheral Participation", Cambridge University Press, Cambridge.(=佐伯胖訳『状況に埋め込まれた学習』産業図書株式会社, 1993.
大森荘蔵, 1996, 『時は流れず』, 青土社.
苫野一徳, 2011, 『どのような教育が「よい」教育か』, 講談社.
 

2011年9月4日日曜日

無題ノート

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待ち合わせの力学

 待ち合わせの際、とくに話すこともないときはボーッとするか携帯を見るかしか許されない(許可されない)。例えば書籍を読もうとすることは「不適切である」とされる。Goffmanならば共在状況の一例であるとみなすであろうが、人前では本を読むことは許されず、携帯を見るようなことやぼーっとするような生産性の高くない振る舞いのみが許可されている。
 従属的関与(Goffman)とはいうが、集まりに対する敬意を払う度合いが、待ち合わせの際には強く求められる。携帯などはいつでも離脱できるメディアだが、書籍はそうではない。ギリギリが新聞・雑誌である。
 集団に働くこの権力関係も、フーコー流にいうと眼差しの権力ということになるのであろう。関係性に働く権力である。文脈ごとに適切とされる振る舞いの仕方は、あらかじめ集団に内在されているのだ。
 権力は案外こういうところにあるもんなんだ、と改めて気づいた。