本書はアルカイック(本書を見る限り、前近代社会のことを指すと思われる)な社会を元にしたブルデューの理論書である。
農村社会における男性-女性の仕事のアナロジーについての部分(117頁等)を見ていて、Ivan Illichの”Gender”や”Shadow work”を思い起こした。また128頁の「農業年と神話年」の表なども、Illichの図式を思い起こす内容となっていた。要はIllichもBourdieuもレヴィ-ストロースの研究を受け継ぐ形で理論構築を行っているため、当然と言えばそうである。
『実践感覚1』より読みにくいが、文化人類学が好きならこっちのほうが具体論が多くて興味深く読める(だろうと思う)。
「伝統に則って相続される家産相続分と、結婚の際に支払われる補償とは、同一のものにほかならないのであるから、所有地の価値こそがアド(adot=これは、贈与をなす、持参金を与えるという意味のadoutàに由来する)の額を命じているのである」(7)
「換言すれば、経済的必要性によって押しつけられる結婚すべてのうち、十全に承認される結合とは、文化的恣意によって男有利に樹立された非対称性が、夫婦間での経済的・社会的状態においても男有利であるような非対称性によって倍加されているもののみだ、ということである。アドの額があがればあがるほど、付随的に夫の位置もいっそう補強されることになる」(20)
「こうして次男以下は、こういう表現が許されるとすれば、構造的犠牲なのである。すなわち、集合的実体にして経済的単位である「家」、経済的統一性によって定義される集合的実体としての「家」を、実に多くの保護措置によって取り囲んでいる体系の、社会的に指定された、したがって忍従する以外にはない、犠牲だったのである」(26)
「ハビトゥスは、自らが再生産する構造の産物であるがゆえに、そして、より正確に言えば、ハビトゥスは、確立された秩序とその秩序の守り手の命令に対する、すなわち先人たちに対する「自発的」従属を内包しているからこそなのである。相続戦略、育児戦略、さらには教育戦略、つまりは、相続した権力と特権を維持しつつ、あるいは増大させつつ次代に伝えるために集団全体が採用する生物学的再生産諸戦略の全体から、切り離すことのできない結婚戦略は、打算的な理由を原理にしているのでもなければ、経済的必要性からくる機械的決定を原理にしているのでもない。そうではなく、存在諸条件によって教え込まれた心的傾向、いわば社会的に構成された本能こそが原理なのであり、それが、特殊な形式の経済の客観的に計算しうる必要性を、義務の不可避的必然として、ないしは感情の不可抗的な呼びかけとして生きるよう、しむけているのである」(30)
「コード化された知およびそのような形で伝承される知の中にみられるハビトゥス図式の客観化は、実践領域によって大変異なる。格言・禁令・諺・極度に規則ずくめの儀礼の相対頻度は、農業活動と関連する、あるいはそれと直接的に結びついた諸実践—機織り、製陶、料理—から労働日の区分あるいは人生の節目へと移るにつれて漸減する」(100)
・アルカイック社会の男-女のアナロジー(あるいはIllich的に言う本源的な意味でのジェンダー)
「再生産とは、生活の実質にして生計維持のことであり、豊穣にされた大地と女性、つまり致命的な不毛性―これは女性原理の不毛性であって、それを放置すれば致命的不毛性を現出する―から免れた大地と女性のことである」(119)
「優れて文化的行為とは、分離され境界線を引かれた空間を産出する線を引く行為である」(115)
「全く社会的な力の、純粋に魔術的な性格は、刀や魔法の結び目程度には魔術的な境界や絆(結婚)によって個人や集団を切り離したり、結合したり、あるいは、事物(デザイナーのブランドのように)や人物(学歴のように)の社会的価値を変動させたりしながら、社会的な世界だけに働きかける場合でも、やはりそれとなく現れるものだ」(163)
・「ランプは、ふつう男性の象徴である」(168)
「すべては、実践が二つの使用法の間でためらっていることを示している。同じものが、女性や男性的な雨を呼ぶ大地のように、水をかけられることを要求するものでもあり、また、天上の雨のように、それ自体が水をかけるものでもある。事実、実践にとって、最良の解釈者たちにつきまとってきた区別は重要性をもたない」(199)
→こういう部分に、イリイチのジェンダー論を思い出す。
「別の言い方をすれば、システムを構成するすべての対立は、その他のあらゆる対立と、だが多かれ少なかれ長い道程を経て(可逆的なことも不可逆的なこともあるが)、つまり関係からその内容をしだいに取り除く等価性の連続の果てに、結びつく。そればかりではない。あらゆる対立は、異なる意味と強度の関係を通じて、様々な点で別の対立と結びつくことができる」(208)
→左手と右手、女性と男性の対比などを指して言っている。ブルデューは本書で二元論的図式の乗り越えを図っているのである。
「以上のことから分かるように、食う・眠る・子孫を作る・出産するといったあらゆる生物学的活動は外部世界から遠ざけられ(「牝鶏は市場では卵を産まない」と言われる)、内輪の避難所や家という自然―自然の管理に委ねられ公共生活から排除された女の世界―の秘め事の中に追放されている」(220)
「このように、女たちの家と男たちの会議、私生活と公共生活、あるいはこう言ってよければ、真昼の光と夜の秘め事との対立は、家の低い・暗い・夜の部分と高い・高貴の・光に満ちた部分の対立とぴったりと重なる。言い換えれば、外部世界と家との間に設定される対立は、この関係の一項—すなわち家自体―がそれを他項と対立させる同じ原理によって分割されていることが知られてはじめて、その完全な意味を明らかにする。男が女と、昼が夜と、火が水と対立するように、外部世界が家と対立すると言うのは、正しいと同時に間違ってもいる。というのは、これらの対立のうちの第二項はその都度それ自身とその対立物に分割されるからである」(221)
●訳者あとがき(今村仁司)より
「『実践感覚』は、材料としてはアルカイックな社会を取り上げている。同じ理論構図をもって現代の複雑社会を材料にし」「実行してみせたのが『ディスタンクシオン』である」(265)
「ブルデュは、『実践感覚』と『ディスタンクシオン』の両書をもって、人間社会を汎通的に分析しうる社会学的視座を設定したと言えるだろう」(266)
2011年3月27日日曜日
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